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京極為兼と長井宗秀・貞秀父子の関係(その1)

2022-05-09 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月 9日(月)10時52分26秒

宇都宮景綱で検索してみたら、リンク先の2017年11月8日付産経新聞記事はなかなか良いですね。

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宇都宮景綱 武家家法の草分け「弘安式条」

 戦国時代に滅亡した宇都宮氏は歴代当主の肖像画はあまり残っていないが、江戸時代、古書画を模写して編纂された「古画類聚」には7代・宇都宮景綱の肖像画がある。僧侶の姿である。【中略】
 景綱は弘安6(1283)年、中世武家家法の草分け「宇都宮家弘安式条」を制定した。全70カ条のうち24条が社寺に関する規定で、宇都宮氏が宇都宮明神(現宇都宮二荒山神社)の神職だったことを反映している。他は裁判の方法に関する規定2条、けんか、訴訟に関する規定11条、幕府との関係を示す規定2条、一族、郎党に関する規定31条。
 同館学芸員、山本享史さんは、景綱が幕政の中心にいた安達氏との関係が深いことに注目する。義兄弟、安達泰盛は同時期に幕政改革要綱「新御式目」を制定しており、弘安式条もその影響があるとみている。景綱の名も義父・安達義景から「景」の字が与えられたようで、山本さんは「宇都宮氏は歴代、北条氏から1字もらうことが多く、景綱は例外的。安達氏は幕府実力者であり、密接な関係を持っていたことが分かる」。北条氏への対抗勢力形成というわけではなく、より広く実力者と縁を持つため。泰盛は北条氏外戚で、幕府重臣中の重臣。景綱も引付衆や評定衆の重責を担った。
 だが、裏目に出る場合もある。安達氏は北条得宗家の執事である内管領・平頼綱と対立。霜月騒動(1285年)で泰盛は滅亡し、景綱も失脚したが、「人間万事塞翁が馬」。平禅門の乱(1293年)で頼綱は自害。景綱は幕政に復帰した。【後略】

https://www.sankei.com/article/20171108-RLH5N573URMZHN634KBE7FB7XI/

細かいことを言うと、景綱は正応三年(1290)三月の浅原事件後に東使として鎌倉から派遣されているので、その時点で既に政治的には復権しており、平禅門の乱で鬱陶しい重石が取れて伸び伸び活動できるようになった、ということだろうと思います。
さて、先に京極為兼の鎌倉人脈で特に重要なのは宇都宮景綱と長井宗秀と書きましたが、宇都宮景綱は為兼の父・為教の従兄弟で、嘉禎元年(1235)生まれですから為兼より十九歳も上です。
そして、景綱は宗尊親王に近侍し、鎌倉歌壇の最盛期を経験していた人ですから、為兼と出会う前に既に自分の歌風を確立しており、京極派の影響は特に見られません。
為兼と親しく交流したことは確かですが、

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    中納言為世卿亭にて人々歌よみ侍りしに、雨後雪といふことを
 暮るるより尾上のしろく見ゆるかな今朝のしぐれは雪げなりけり(沙弥蓮愉集)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kagetuna.html

という歌も詠んでいて、為兼の宿命のライバル、二条派総帥の為世とも親しいですね。
為世も三代遡れば宇都宮頼綱、四代遡れば北条時政であって、武家社会との縁の強さは為兼と全く同じです。

二条為世(1250-1338)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%82%BA%E4%B8%96

ちなみに為世が権中納言になったのは正応三年(1290)六月で、正応五年(1292)十一月に権大納言に転じた後、翌十二月に辞していますから、景綱が「中納言為世卿亭」で歌を詠んだのは正応三年に東使として京都に派遣されたときのことと思われます。
このように宇都宮景綱と為兼の関係は特別に親密というほどでもない上、景綱は永仁六年(1298)三月に為兼が流罪となって間もなく、同年五月一日に死去していますので、為兼との関係も終わります。
他方、為兼と長井宗秀との関係は宇都宮景綱以上に緊密だったようで、歌風にも及んでいます。
この点を見るために、まずは井上著から少し引用します。(p67以下)

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 二年正月六日叙正二位。三月五日左衛門少尉貞秀が蔵人に補せられて初めて参内した。貞秀は長井宗秀男。長井氏は大江広元の流れを汲む幕府の文筆官僚で、先祖は宮廷の中下級官僚だが、現在宗秀は幕府の要人である。その御曹司が蔵人に補せられたのだが、「権中納言為兼、諸事扶持を加うと云々。権勢尤も然るべき歟」、と『勘仲記』は記し、かつ六日の条では、貞秀は姿も所作も気品があり、きちんとしていたとある。宗秀は東使として在洛中で、昨日は饗応のために主殿司十二人に砂金二十両、小袖二、檀紙二十帖を贈っている(同、五日の条)。貞秀は十八日に諸所拝賀、十九日に石清水臨時祭の舞人を勤めたが、それを見ようとして「見物車雲霞の如し」という有様であった(『実躬卿記』)。

   永仁二年三月大江貞秀蔵人になりて慶を奏しけるをみて宗秀がもとにつかはしける
 めづらしきみどりの袖を雲の上の花に色そふ春のひとしほ (『風雅集』雑上一四五八)

おそらく貞秀の補任には上記『勘仲記』の記事からも為兼の力が大きく働いたのであろうことは推測に難くない。
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検討は次の投稿で行います。
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