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苅米一志氏「東山太子堂の開山は忍性か」(その1)

2022-06-08 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月 8日(水)14時11分57秒

叡尊は建仁元年(1201)生まれなので、その事蹟を年表にすると、西暦の下二桁がそのまま年齢になって便利な人ですね。

叡尊(1201-90)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A1%E5%B0%8A

『感身学正記』の弘安二年(1279)、叡尊七十九歳のときの記事を見ると、奈良西大寺にいた叡尊のもとに九月十八日に「来臨」した「右馬権頭為衡入道観證」に対し、叡尊が一切経を入手する「秘計」はありませんか、と相談したところ、為衡入道が「方便を試むべしと答えて退出」した僅か三日後、二十一日に為衡入道から、西園寺家に「古書写の本一蔵」がありますよ、と書状が来ます。
為衡入道の京都への移動と京都から派遣した使者の移動の時間を考えると、殆ど即答ですね。
為衡入道は西園寺家の一切経を叡尊に寄進できる実際上の権限を持っていて、ただ、西園寺家当主の実兼の確認を得るために京都に戻り、直ちに了解を得て叡尊に連絡している訳で、この経緯を見るだけでも為衡が西園寺家の実力者であることは明らかです。
関東申次である西園寺家が大変な政治的権力を握っていた、という龍粛以来の「西園寺家中心史観」は誤りですが、西園寺家が経済的に極めて豊かであったことは確かで、「朝廷に不動の地位を築いた同家を支える驚くべき財力がいかにして形成されたか」については網野善彦氏の詳しい研究もあります。

網野善彦「西園寺家とその所領」(『國史學』第146号、1992)
http://web.archive.org/web/20081226023047/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino-yoshihiko-saionjiketo-sonoshoryo.htm

「右馬権頭為衡入道観證」は、いわば西園寺財閥の大番頭のような存在で、だからこそ叡尊も「よいお知恵はありませんか」と相談を持ち掛けた訳ですね。
細川涼一氏は「為衡を諱とする人物は『尊卑分脈』に藤原氏に三名、源氏に一名、菅原氏に一名いるが、鎌倉時代に該当する人物がいない」などとのんびりした調査をしていますが、西園寺家に関する論文を調べればよいだけの話で、そうすれば為衡が西園寺家家司の三善一族の人であることは即座に分かります。
細川氏だけでなく、『金剛仏子叡尊感身学正記別冊』の編者である長谷川誠氏も「叡尊が弘長二年(一二六二)に鎌倉に下向した際に叡尊に帰依した、金沢実時の後見観證と法名が一致する」ことから「同一人物に比定」されているそうですが、律宗の研究者は揃いも揃って何をやっておるのか、という感じがしないでもありません。
ちなみに長谷川誠氏は筑波大学名誉教授だそうですね。

長谷川誠
https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200901000149313263

さて、福島金治氏の論文に出て来た「東山白豪院長老妙智房」についての手がかりがないかと思って、苅米一志氏の「東山太子堂の開山は忍性か」(『鎌倉』67号、1991)を読んでみたところ、非常に緻密な論文ですが、「東山白豪院長老妙智房」への言及はありませんでした。
ただ、興味深い指摘が多々あったので、少し紹介してみます。
この論文の構成は、

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一、叡尊と太子堂速成就院
二、速成就院と極楽寺・称名寺
三、阿忍房頼禅の宗教活動
小結
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となっていますが、まずは「序」で苅米氏の問題意識を確認しておきます。(p11以下)

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 『山城名勝志』巻五には「太子堂<号速成就院、元在知恩院中門西北浩玄院後、今此地有古井号太子水、此堂慶長年中被遷六条北万里小路東、開山忍性律師>」とあり、速成就院が当時太子堂と呼ばれ、また慶長以前には知恩院や浩玄院の存在する東山に座していたことが分かる。この寺は聖徳太子二歳像を安置して今に伝えるが、例えば、「西大寺文書」明徳二年(一三九一)西大寺末寺帳に、「速成就院」とあるように中世においては、この寺院は律院であり、かつ西大寺の末寺であった。その開山について『山城名勝志』は、忍性である、と言い切っているが、周知の通り忍性の伝記「性公大徳譜」あるいは『律苑僧宝伝』『本朝高僧伝』などにはそれに相当する事績は見当らない。既に林幹弥は「律僧らと太子堂」において、金沢氏との関連の中で太子堂を考察し、その開山を『山城名勝志』の言う通り、忍性であると推断したが、その考察には疑問ありとしなければならない。本稿は、直接的には、この寺院の開山ないし中興開山を考察するものであるが、また一方、叡尊・忍性という律宗の二代巨頭の蔭にかくれ、歴史のひだに埋没していった無名の律僧の事績の発掘をも心がけるものである。このような方法論の提言は、既に細川涼一によってなされているものの、いまだ十分にそれが吸収・受容されているとは言いがたい状況にある。我々の前には「西大寺文書」「極楽寺文書」のみならず叡尊による授菩薩戒弟子交名(『西大寺叡尊伝記集成』)や光明真言結縁過去帳(『西大寺関係史料』一)、そして「金沢文庫文書」という史料の宝庫が遺されており、そのことによって、中世では例外的と言ってもよいほど、一律僧の事績に即した十分な研究が可能となっている。筆者の課題は、それらの史料を活用しつつ、律宗とくに西大寺律宗が当該社会にいかなる影響を与えていったのかをトータルにとらえていくことである。
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現在は就実大学教授の苅米一志氏が、三十一年前、筑波大学大学院在籍中に書かれた若々しい論文ですが、私が関心を持っている「東山白豪院長老妙智房」も、「叡尊・忍性という律宗の二代巨頭の蔭にかくれ、歴史のひだに埋没していった無名の律僧」の一人といえそうです。
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