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坂口太郎氏「両統の融和と遊義門院」(その2)

2022-07-05 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月 5日(火)12時17分12秒

続きです。(p208以下)

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 乾元元年(一三〇二)十二月二十三日、遊義門院は、その御所伏見殿において、寿命経と薬師如来を供養し、後深草院六十歳の賀を行った。『吉続記』によれば、この盛挙には亀山・後宇多・伏見らの諸院が参列しており、両統の絆を深める催しとなった。多くの院が居並ぶなかで、遊義門院は銀の杖とともに、長寿を祈る和歌を老父の後深草に贈ったという。

   (後深草)
    法皇六十にみたせ給うけるに、寿命経供養せられけるついでに、しろがねの杖
    たてまつらるとて                       遊義門院
  つく杖にむそぢこえ行くことしより 千とせのさかの末ぞひさしき
                  (『新後撰和歌集』巻第二十 賀・一五九八)

 両統の媒介者として機敏に立ち回る遊義門院の姿には、卓越した政治的センスを感じとれる。彼女はたんなる深窓の佳人ではなく、両統の確執を沈静させようとした女性政治家と評してよいかもしれない。
 ともあれ、乾元年間は、熾烈な権力闘争を繰り広げた鎌倉後期の両統にとって、前後に比類ない融和の時代であった。しかし、それもまた束の間に過ぎず、やがて後深草や亀山ら旧世代の退場とともに、宮廷の空気は再び微妙な変化を遂げることになる。
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「乾元年間は、熾烈な権力闘争を繰り広げた鎌倉後期の両統にとって、前後に比類ない融和の時代であった」とありますが、他に融和の時代というと「北山准后九十賀」が行なわれた弘安八年(1285)も連想されます。
そして、この盛儀を描いた『増鏡』には、後宇多天皇(十九歳)と姈子内親王(十六歳)も、

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 姫宮、紅の匂ひ十・紅梅の御小袿・もえ黄の御ひとへ・赤色の御唐衣・すずしの御袴奉れる、常よりもことにうつくしうぞ見え給ふ。おはしますらんとおもほす間のとほりに、内の上、常に御目じりただならず、御心づかひして御目とどめ給ふ。

http://web.archive.org/web/20150918073835/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kitayamajugo90noga-1.htm

という具合いに、妙に思わせぶりな感じで登場しますね。
さて、歴史研究者で遊義門院に注目している人は僅少です。
比較的新しい研究としては、伴瀬明美氏の「第三章 中世前期─天皇家の光と影」(服藤早苗編『歴史のなかの皇女たち』所収、小学館、2002)や三好千春氏の「遊義門院姈子内親王の立后意義とその社会的役割」(『日本史研究』541号、2007)という論文があって、当掲示板でも三年前に、これらの論文に即して遊義門院についてあれこれ考えてみたことがありました。

遊義門院再考
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/89f6135364af467d393614e15fd75662
「『盗み出した』ということの真偽も含めて、実際のところ事の真相は不明なのである」(by 伴瀬明美氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1fadd72cad3a95e02f94b4c3226bc95c
「女房姿に身をやつし、わずかな供人のみを連れて詣でた社前で、彼女は何を祈ったのだろう」(by 伴瀬明美氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23a4bec8713917f5e8f008bee409f16c

「その経歴が、江戸時代末期まで続く長い女院史上の中でも特に異彩を放つもの」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f687268c4cbbc96c57a94008f4c1d71f
「亀山の在位中でありながら今出河院宣下を受けて中宮位を降ろされて」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/93daf494bf6aefbfc21bacf582ca56ef
「その誕生時からの注目は、異母兄・煕仁(のちの伏見)とは歴然の差があり」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a689d091ebc4c8620526543ca8d3142
「姈子立后の最大の疑問は、なぜ彼女の立后が後宇多朝において挙行されたのか、という点である」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f52826bc2846a089a72afe9ac6c574f
「姈子立后はその前哨戦として位置付けられるのではないだろうか」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6193485b684c896e0968dc010084f6f2
「東宮・煕仁とともに時期政権の代表として現政権に打ち込まれたいわば楔であり」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/812e359f74fe6d0fb4a995f48a7c9c46
「もう一つ大きな特徴は、後宇多朝から伏見朝になってもなお皇后であり続けたこと」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/10ec4258f9ab1736fc5e58b516e1ad3d
「不婚内親王皇后は、もともと院と天皇の二元王権を補完する性格を有し」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff81568ac98d9709ee6dad8107376ed1
「北山准后九十賀」と姈子内親王立后の連続性
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcca058f73b52dbddad396df7fd28f3e
「正妻格として出現したのが遊義門院姈子内親王」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e0b691ccc5fa57eff6c585a2b8b1ce41
「この婚姻についても、残念ながらその事情を語る同時代の史料は皆無である」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cf90a016e1ab969087a1594059f32ae6
「光武帝が微賤の時、南陽の美女である陰麗華を娶らんことを期し……」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e4019876559ddfd716a81b3f4e7d26e9
新しい仮説:後宇多院はロミオだったが遊義門院はジュリエットではなかった。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7510e924ed2c4eaf216c6d9643ebffef
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