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順教房寂恵(安倍範元)について(その3)

2023-12-13 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
『吾妻鏡』弘長三年(1263)二月十日条、本当に面白いですね。
赤澤春彦氏のオーソドックスな現代語訳も紹介しておくと、

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十日、庚申。朝、雨が降った。千首の合点が行われた後、(北条政村の)常盤の御邸宅でまた披講された。今夜は合点の数で席次が定められた。第一座は弁入道(真観、藤原光俊)、第二は(安倍)範元、第三は亭主(北条政村)、第四は証悟であった。政村は範元の下座になるため、向かい合って着座すると言われたところ、大丞禅門(真観、藤原光俊)が言った。「合点の数によってその座次とすることは、以前に決めていたことです。そうしたところに一列の座としないのは、たいそう残念なことではないでしょうか」。その言葉が終わらないうちに、政村は座を立って、範元の下座に着かれようとした。この時に範元もまた座を立って去ろうとしたところ、(政村は)すぐに人に命じて範元を引き留められた。また合点の数に従って懸物を分けた。真観の分は虎の皮の上に置かれ、範元は熊の皮に、亭主は色皮に(置かれ)、以下これに準じた。合点が無かった者は、その座を縁に設けた。膳が出されたが、箸を付けなかったため、箸なしで食べた。満座で笑わない者はいなかった。範元は、去る正月、上洛のために暇を申していたが、この御会のために内々に引き留められていた。懸物のうち、旅行の用具はすべて(範元が)拝領した。
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といった具合ですが(『現代語訳吾妻鏡16 将軍追放』、p18)、ここは『吾妻鏡』には珍しい秀逸なコメディなので、もう少しくだけた感じの方が良いのではないかと思います。
ところで、北条政村は元久二年(1205)生まれで、父は北条義時、母は伊賀の方です。
貞応三年(1224)、義時が急死すると「伊賀氏の変」が起きて、政村も人生最大のピンチを迎えますが、何とか乗り切り、評定衆・引付頭人を経て、建長八年(1256)に五十二歳で連署となります。

北条政村(1205-73)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%94%BF%E6%9D%91

弘長三年(1263)二月の時点で、北条政村は連署となって七年目、五十九歳であり、翌文永元年(1264)には執権となりますから、本当に幕府の最上層、重鎮中の重鎮ですね。
それだけに政村が安倍範元の下座に着いたというのは大変なことであり、政村の洒脱な人柄を窺わせます。
また、範元は当時二十代半ばくらいのようですが、和歌が得意である上、たった一人で披講を担当したとのことなので、非常に社交性に富み、頭の回転が速く、弁舌爽やかで、運動神経も良さそうです。
現代であれば、羽鳥慎一や安住紳一郎、あるいは往年の久米宏といった優れたニュースキャスターにもなれそうなタイプのようです。
ただ、このエピソードは、範元個人にとっては人生最良の思い出の一つでしょうが、あくまで政村の私的な会合であって政治的重要性は全然ありません。
となると、『吾妻鏡』編者は何故にこんなエピソードを採用したのか。
また、情報源は誰なのか。
『吾妻鏡』が編纂されたのは1300年前後と言われており、編纂者の中には金沢貞顕に近い人もいたようですから、嘉元三年(1305)の時点で貞顕と親しく交わっている安倍範元(寂恵)が、自分の人生最良の思い出を『吾妻鏡』に入れるように画策した可能性もありそうですね。
さて、寂恵についての検討は小川氏の論文が発表されるのを待って行いたいと思いますが、とりあえず準備作業として井上宗雄氏の見解を紹介しておきます。(『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』、明治書院、1987、p88以下)

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 次に順教房寂恵であるが、寂恵は俗名安倍範元、陰陽師として弘長・文永の頃、幕府に仕え、歌壇においても甚だ活躍していた。真観の弟子であったらしい。久保田淳氏の「順教房寂恵について」に詳しいが、次いで文永の中頃出家し、寂恵と称し、八年為顕(明覚)に伴われて為家を訪れ、その門に入った。弘安元年続拾遺撰集の時、寂恵上洛して三月末草稿本を見、十か条程の意見を開陳した処、骨子となる集の形態についての事などは採用されず、その他六、七か条は採られたが、多分謙遜してであろうが、自詠と宗尊との贈答歌の入集辞退は認められて、彼は入集しなかった。寂恵が為氏に対して大きな憤懣をもったのはいうまでもない。
 寂恵が為家の晩年に入門したとはいえ、当初は御子左家の仇敵真観の門人であり、しかも為家への入門は、為氏と必ずしも親しくなかった為顕の手引きによるものである。為氏としては初めから寂恵にあまり好感はもっていなかったのではなかろうか。
 弘安二~五年の間、阿仏尼は鎌倉にいたが、その間、寂恵と対面し、自己の蔵する和歌文書の中に定家の未来記五十首があるといってそれを披見せしめたらしい。某が正応二年六月に未来記の奥書として記しているのである。これは冷泉為臣『藤原定家全歌集』に初めて紹介されたもので、後花園院筆花山院家蔵のものを明和五年に冷泉為村が透写せしめたものである。これによって未来記は定家の真作なる事を故冷泉氏は立証しようとしたのである。所が石田吉貞氏は『藤原定家の研究』で、詳細な論を展開し、むしろ未来記は続拾遺に対して激しい憤懣を抱いていた阿仏そのものの偽作ではないか、という説を提出した。既に久保田氏によって明らかにされたように、寂恵が為氏に対して深い憤りを抱いていたのであるが、阿仏尼が未来記を寂恵に見せたのも故なしとしない。而して寂恵もそれを人に書き送ったりしているのである(なお寂恵に門弟のいた事は寂恵本古今の末に、英倫に古今を授けた、とあるのによって知られる)。
 更に寂恵が永仁元年前述の如く為相と関係あるらしい詞花集を写した事は注意されるが、また山岸徳平氏蔵寂恵本拾遺集<書写年次不明>には冷泉家相伝の定家筆本によって異同を示した所があって、寂恵は冷泉家より説を受けたらしいのである(北野克氏『北野本拾遺和歌集解説』)。かくして寂恵はかなり冷泉家と親しかったのである。
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