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「傍輩」=西園寺公衡の可能性(その6)

2022-05-06 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月 6日(金)15時14分35秒

※六回にわたって「傍輩」=西園寺公衡の可能性を探ってみましたが、結局、この仮説は誤りだったと考えています。(5月23日追記)

為兼を幕府に讒言した「傍輩」が誰かを探ってきたのは、正応三年(1290)の浅原事件で亀山院を黒幕と糾弾した西園寺公衡が嘉元三年(1305)には亀山院の遺志を奉じて恒明親王の庇護者になるまで、二人の関係が極端に変化した経緯と理由を知るためでした。
今までの投稿で井上宗雄氏の『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)を何度か引用させてもらいましたが、公衡と亀山院の関係についても同書には参考になる記述が多いですね。
同書は、

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序 和歌の家(家系/祖父為家の妻室・諸子/父為教とその周辺)
第一 為兼の成長期
第二 政界への進出―正応・永仁期
第三 第一次失脚
第四 帰還以後―嘉元・徳治期
第五 両卿訴陳と『玉葉集』

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b548116.html

と構成されていますが、第二章第三節「君寵の権勢」の冒頭には、

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 正応六年は八月五日に永仁と改元された。永仁三年頃までの為兼の政治的行動は諸記録によってかなり明確だが、ここも一々記載することは煩瑣でもあるので、幾つかの事蹟を挙げるに止めよう。
 三条実躬は本家筋の実重と不和のことがあり、実重の訴えによって勅勘を蒙ったが、西園寺公衡らの尽力で、正応六年(永仁元)三月八日勅免される。その伝達を為兼が行なっており、次いで公衡から勅免状が届いた。これは公衡の尽力と亀山上皇の意向などによったらしいが(『実躬卿記』)、為兼も公衡に従って衝に当たったようであり、内意を示したり、事後の処置を伝えたりしている。
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とあります。(p64以下)
公衡が権大納言を辞した正応五年(1292)の翌六年三月、伏見天皇の勅勘を蒙った三条実躬を助けるために公衡と為兼は協力しているので、やはりこの時点では二人の関係は特に悪くはないようですね。
そして三条実躬の背後には亀山院がいて、浅原事件の後は暫らく静かにしていた亀山院もそれなりに復活してきたようです。
同年四月には平禅門の乱が勃発して関東は大騒動でしたが、為兼は七月に公卿勅使として伊勢神宮に派遣され、十二月には関東に下って親戚の宇都宮景綱(蓮愉、1235-98)と和歌を詠じたりしています。
関東下向の理由は不明ですが、井上氏は永仁勅撰の議についての了解工作も含まれるだろうとされています。(p67)
翌永仁二年(1294)三月には長井宗秀の嫡子・貞秀が蔵人に補せられ、東使として在洛中の宗秀からは朝廷側に相当の贈り物があり、また貞秀の拝賀などの華やかな儀礼が行なわれますが、これも為兼が差配していたようで、為兼の権勢を支える要因には関東との密接な関係も大きかったようですね。
さて、井上氏は『実躬卿記』に基づき、当時の為兼の権勢を窺わせる次のような話を紹介されています。(p68以下)

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 その三月二十五日三条実躬は参内し、蔵人頭に補せられたいと申し入れを行い、二十六、七日後深草院、関白近衛家基ほかにも希望を申し入れた。競望者は二条家の為道であったが、実躬はその日記に、運を天に任せるが、現在では「為兼卿猶執り申す」と記し、さらに諸方に懇願したのだが、二十七日の結果は意外にも二条家の為雄(為道の叔父)であった。実躬はその日記に、
  当時の為雄朝臣又一文不通、有若亡〔ゆうじゃくぼう〕と謂う可し、忠(抽)賞
  何事哉。是併〔しか〕しながら為兼卿の所為歟。当時政道只彼の卿の心中に有り。
  頗る無益〔むやく〕の世上也。
と記している(「有若亡」は役に立たぬ者、の意)。為兼は「執り申す」すなわち天皇に取り次ぐという行為で人事を掌握しており、為雄の蔵人頭も為兼の計らいと見たわけである。四月二日の条には、実躬は面目を失ったので後深草院仙洞の当番などには出仕しないことにしようと思ったが、父に諫められ、恥を忍んで出仕した。「当時の世間、併しながら為兼卿の計い也。而〔しか〕るに禅林寺殿(亀山院)に奉公を致す輩、皆以て停止〔ちょうじ〕の思いを成すと云々」と記している。為兼の権勢がすこぶる大きかったこと、あるいはそう見られていたことが窺われる。【中略】なお実躬は明らかに亀山院方への差別をみとっている。
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もちろん、これは三条実躬という少し僻みっぽい官人の偏見の可能性もあるでしょうが、亀山院にとっては面白くない時期であったことは間違いないですね。
他方、為兼が鎌倉との独自ルートを強化して権勢を振るい始めたことは、関東申次の西園寺家としても穏やかな気持ちで見過ごすことはできなかったように思われます。
なお、三条実躬は翌永仁三年(1295)に蔵人頭となっています。
文永元年生まれなので、公衡と同年、為兼より十歳下ですね。

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没年:没年不詳(没年不詳)
生年:文永1(1264)
鎌倉後期の公卿。父は権大納言公貫。母は中納言吉田為経の娘。文永2(1265)年叙爵。近衛少将,中将を経て永仁3(1295)年に蔵人頭。3年後に参議に任じ,公卿に列する。嘉元1(1303)年,従二位,権中納言。2年後官を辞し散官となる。延慶2(1309)年正二位に昇る。翌年按察使に任ず。正和5(1316)年民部卿を兼ね,また権大納言に任じられる。2カ月余りで同職を辞任し,翌年出家。法名を実円といった。日記『実躬卿記』があり,蔵人頭のときのことが書かれており,史料価値は高い。
(本郷和人)
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