学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

順教房寂恵(安倍範元)について(その1)

2023-12-10 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
昨日は早稲田大学戸山キャンパスで行われた歴史学研究会日本中世史部会の12月例会に行ってきました。

-------
【日 時】2023年12月9日(土)15時~18時(予定)
【会 場】早稲田大学戸山キャンパス33号館132教室
【報告者】小川剛生氏
【題 目】勅撰和歌集と武家政権—撰歌への干渉をめぐって
☆参考文献
井上宗雄『中世歌壇史の研究 南北朝期』(明治書院、1965年〔改訂新版1987年〕)
久保田淳「順教房寂恵」(『中世和歌史の研究』明治書院、1993年、初出1958年)
福田秀一「中世勅撰和歌集の成立過程—主として十三代集について」(『中世和歌史の研究 続篇』岩波出版サービスセンター、2007年、初出1967年)

http://rekiken.jp/seminar/japan_medieval/

私も研究会の類にはすっかり縁のない生活を続けていて、歴史学研究会の例会も、遥か昔、秋山哲雄氏(国士舘大学教授)や清水亮氏(埼玉大学准教授)等が中心となって運営されていた頃に何度か行って以来ですから、数えてみると二十年振りくらいで、殆ど浦島太郎の心境でした。
そんな私が珍しく例会に参加しようと思い立ったのは、小川剛生氏の「謡曲「六浦」の源流 称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(『金沢文庫研究』347号、2021)を読んで順教房寂恵という人物に興味を抱いたからです。
寂恵は『和歌文学大辞典』(小林大輔氏執筆)によれば、

-------
俗名は安倍範元。順教房と号す。生年未詳。正和三1314年以後没(寂恵法師歌語)。従四位下陰陽允資宣の男(系図纂要)。従五位上掃部助。父祖以来鎌倉幕府に陰陽師として出仕。文永二1265年から同八年の間に出家し、松陰の別所に住む。宗尊親王の和歌近習の一人として関東歌壇で活躍し、晩年の為家とも交渉を持った。『続拾遺集』撰進に際して為氏に助力するも不入集となり、それに対する不満を述べた奏状風の歌論書『寂恵法師文』を著す。『新後撰集』以下の勅撰集に九首入集。『人家和歌集』『拾遺風体和歌集』『柳風和歌抄』にも入る。歌論書『寂恵法師歌語』があり、私撰集『滝山集』を撰したという(散佚)。『古今集』『拾遺集』の寂恵書写本が現存する。
-------

という人物ですが、この人の名前が、小川氏が前掲論文において検討された金沢貞顕の、

-------
 いま宮殿よりの古今
 たまはり候ぬ、民部卿入道の
 後家手にて故殿
 御時さたなと候ける
 御ほんにて候なれは、」
 [   ]□ろ□ひ入候、
 順教か申候し者
 [   ]これにて
 さふらひける、いま宮殿への
 御ふみもまいらせ候、
 おほしめしよりて候
 御こゝろさし猶々
 申つくしかたくよろこひ<○以下欠>
-------

という書状に出てきます。
私は、この書状が亀山院と西園寺公衡の関係を解明する手掛かりになるのではないかと思って、去年、あれこれ考えてみたのですが、結局、当初の目論見が外れてしまって、何となく尻切れトンボで終わってしまいました。

小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c114810da4f82a93cdff488a3efd2c68
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b529b1034f9df20d6339295cb6f4f83
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0ad54e8c0bebb8b858876e5d68615b37
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f7efa41e35a18cbef1bb5a4ab3a3f5e
三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その1)~(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e235763b3aded0df6b114f6ce205a2a
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b7d42f4671ac8180f4c986faac56b1d1

私は「いま宮殿」が恒明親王だという小川氏の見解に従って、それを前提にあれこれ考えていたので、今回の発表の中で小川氏が、「いま宮殿」を恒明親王に比定して良いか「一抹の不安」がある、と言われたのを聞いてドキッとしました。
そこで、質疑応答の中でどのような意味かをお聞きしてみたのですが、それは寂恵とは関係なく、恒明親王が僅か三歳という、一番基本的な部分への「一抹の不安」とのことでした。
ただ、そうかといって「いま宮殿」に該当するような人物は恒明親王以外になかなか思い浮かびませんし、恒明親王であれば、実際には西園寺公衡が全てを取り仕切っている訳で、特に問題はないように感じました。
発表内容の詳細については、間もなく小川氏がきちんと論文にまとめられるでしょうから、私が断片的に紹介するのは控えますが、いろんな面で勉強になりました。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 宥勝寺の「荘小太郎頼家供養... | トップ | 順教房寂恵(安倍範元)につ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説」カテゴリの最新記事