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0106 平雅行氏「序章 鎌倉仏教研究の課題と総括的検討」を読む。(その7)

2024-06-20 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第106回配信です。


p12
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 権僧正は参議に准ずる待遇を受けており、参議と同様、法印権大僧都から権僧正への昇進は容易でなく、時期による量的偏差を比較検討するには適切な素材である。実際、法印以下の人物ともなれば、史料残存の精粗の影響を受けやすく、データの精度が落ちる。人数的にもあまりに大量であり、処理能力の限界を超える。それに比べれば権僧正以上の僧侶はその活動が史料に残る確度が高い。また、権僧正・正僧正・大僧正は鎌倉時代を通じて朝廷が定員枠を意識しており、補任の総数もさほど多くはない。幕府僧全体で八〇名足らずであり、量的にも手頃である。こうした理由から、鎌倉の権僧正以上の人物を網羅的に検出した。
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第Ⅰ期 源氏将軍時代(1180~1219)   …1人
第Ⅱ期 九条頼経時代(1219~46)    …13人
第Ⅲ期 北条時頼・時宗時代(1246~84) …9人
第Ⅳ期 北条貞時・高時時代(1284~1333)…56人

第Ⅲ期に一度減少し、第Ⅳ期に爆発的に増えている。
→鎌倉幕府の宗教政策に二度の転換があったことを示唆。

「序章 鎌倉仏教研究の課題と総括的検討」では、この数字から示唆される鎌倉幕府の宗教政策の歴史的変遷は述べられていない。→「第四章 鎌倉における顕密仏教の展開と鎌倉幕府」

『改訂 歴史のなかに見る親鸞』(法蔵館文庫、2021)には、具体的人名を入れた「表10」について、以下の説明がある。

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北条時頼の新政策
 建長年間から造悪無碍の問題が浮上した背景には、鎌倉幕府の宗教政策の転換があります。表10をご覧ください。これは鎌倉で活動した僧侶のなかで、権僧正以上の官位をもった高位高官の僧侶を、時期別に示したものです。つまらない表ですが、これを作成するのに二〇年以上かかっています。たいへんと言えば大変ですが、まあ、研究とはそういうものです。さて、この表をみると、鎌倉における顕密仏教の人的整備がどのように進んだかが分かります。
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第Ⅰ期、栄西一人。
第Ⅱ期、将軍頼経が実家の九条家と連携して京都から大量の顕密僧を招いて充実を図る。
第Ⅲ期、時頼が顕密仏教の発展にブレーキをかける。
第Ⅳ期、モンゴル襲来を契機に、異国降伏のため、顕密仏教の充実を図る。

p14
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 本書の第三の課題は、鎌倉仏教の展開史を全体的視角から捉え直すことである。これには二つの作業が必要である。①鎌倉における仏教諸潮流の展開史を解明すること、および②その諸潮流の展開史を、中世仏教・中世国家の全体的展開の中に位置づけ直すことである。
 まずは、①鎌倉における仏教諸潮流の展開史の解明から。ここでいう「仏教諸潮流」は東密・寺門派・山門派などを含めた顕密仏教の各宗派、および禅律を指している。残念ながらこれまでの研究では、これらの歴史展開の全体的傾向が見えていない。【中略】
 実際、寺門派・山門派・東密によって史料の性格が大きく異なるため、このレベルの宗派的枠組みを超えるだけでも、研究の困難さは相当なものがある。それだけに本書では、(1)鎌倉仏教界の中核を占めた顕密仏教の歴史的実態、および(2)鎌倉仏教界における寺門派・山門派・東密の盛衰の歴史的変遷を明らかにすることに力を注ぐことにした。禅律については、それとの関わりで言及するに留めた。それゆえ本書では、鎌倉における禅律の展開史を直接検討することは行わない。私でなくても、それを解明できる研究者がいるはずだ。また、法然・親鸞や日蓮・道元らの急進改革派とその門下については、鎌倉仏教界に占める比重が小さいうえ、彼らの思想史的意義については別に考察を加えてきた。そのため急進改革派についても、本書での検討対象から基本的に除外している。本書では、鎌倉における顕密仏教の諸潮流がどのような盛衰をたどったのか、その全体的な流れを明らかにすることを優先した。
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