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0104 平雅行氏「序章 鎌倉仏教研究の課題と総括的検討」を読む。(その6)

2024-06-15 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第104回配信です。


一、前回配信の補足

0096 歴史学研究会大会・日本中世史部会傍観(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5bdbc42e70f2791b1b0bd0eebae91d36

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p22
 現世の祈りにおいても、来世の祈りにおいても、顕密仏教は主導的役割を果たしていた。鎌倉幕府が朝廷とともに顕密仏教を必要とし、それを保護した理由はここにある。ただし、戦国時代に大規模開発が進められ軍事技術が飛躍的に発達してゆくと、祈祷・呪詛の効力に対する社会的信頼が毀損され、鎮護国家と五穀豊穣という仏教の現世的機能への信任が急速に低下してゆく。その結果、近世仏教は、国家仏教ではなく来世の祈りを基軸とするものに変容してゆくのである。
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二、「序章 鎌倉仏教研究の課題と総括的検討」の続き

p10以下
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 本書の第二の課題は、鎌倉幕府の宗教政策とその歴史的変遷を明らかにすることである。顕密体制論は中世仏教の機軸を国家仏教とした。とすれば、国家仏教の発展を支えた宗教政策が解明されなければならない。こうして、(a)古代から中世への宗教政策の転換、(b)院権力による顕密寺社の編成、(c)室町幕府の宗教政策、、が精力的に追究されるようになった。今ここで、鎌倉幕府の宗教政策の基本的特徴と、その歴史的変遷を解明することは、中世の国家構造を考える上でも、また宗教政策の通時的把握を試みる上でも必要、且つ重要な作業である。また、鎌倉幕府が多くの顕密僧と主従関係を結んでいた実態を解明することは、鎌倉幕府論をより広い枠組みの中で捉え直すことを迫るはずだ。その意味において、鎌倉幕府の宗教政策論は大きな研究史的意義を有している。
 実際、幕府が禅の興隆に力を注いだ時代もあれば、延暦寺対策が峻厳を極めた時期もある。しかし、そうでない時代も存している。こうした政策の歴史的変遷を無視して、雑っぱくな議論を繰り返しても研究は前に進まない。宗教政策の時期的変化を踏まえた丁寧な議論が不可欠である。しかしそれを可能にするには、鎌倉幕府の宗教政策がいつ、どのように変化したのかを、通時的に明らかにしなければならない。
 とはいえ、その解明は非常にむずかしい。通時的指標の設定が困難なためである。鎌倉時代すべてをカバーできるような指標を設定できなければ、宗教政策の通時的変化を明らかにすることはできない。しかし、②『吾妻鏡』が文永三年以降欠落しているという大きな障壁が、私たちの前に厳然と立ちはだかっている。そこで本書では、個別研究を進めてきた幕府僧の母集団から、鎌倉で活動した僧正(権僧正・正僧正・大僧正と法親王)を網羅的に抽出した。そして、鎌倉の僧正の数を通時的指標とすることで、鎌倉幕府の宗教政策の歴史的変遷を明らかにしようとした。
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何故に僧正の数を通時的指標とするのか。

→昇進が容易でないので時期による量的偏差を比較検討するのに適当。
 鎌倉時代を通じて朝廷が定員枠を意識しており、補任の総数もさほど多くない。
 幕府僧全体で八〇名足らず。

分析のための時期区分(作業仮説)

第Ⅰ期 源氏将軍時代(1180~1219)
第Ⅱ期 九条頼経時代(1219~46)
第Ⅲ期 北条時頼・時宗時代(1246~84)
第Ⅳ期 北条貞時・高時時代(1284~1333)

僧正の数 1→13→9→56
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0103 平雅行氏「序章 鎌倉仏教研究の課題と総括的検討」を読む。(その5)

2024-06-15 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第103回配信です。


一、前回配信の補足

加持祈祷と合理性の関係

『改訂 歴史のなかに見る親鸞』p80以下
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 中世では神仏が広く信じられていました。でも他方では、技術や知識の進歩にともなって、こうした信仰を冷ややかに見る目も着実に増えています。中世のすべての宗教は、こうした厳しい視線に耐えて、社会的信頼を勝ちとらなければなりません。合理的思考の取り込みは、不可欠なものでした。
 合理性との関係は密教祈禱についても言えます。たとえば治病の場合、僧侶はただ加持祈禱をしていたのではありません。患者に漢方薬を与え養生の仕方を教え、本人に懺悔させたうえで祈禱を行いました。さまざまな医療技術を駆使しながら、祈禱を行ったのです。そのため寺院には多様な知識が集積されていました。たとえば延暦寺では、顕密諸宗のほか、儒学・和歌・兵法も教えていましたし、医学・薬学や農学・土木技術の専門家もいました。まさに知識の宝庫です。今でいえば総合大学のような存在、それが延暦寺であり、興福寺でした。顕密仏教はただの呪術ではなく、高い合理性を取り込んだ呪術でした(拙稿「中世仏教における呪術性と合理性」『国立歴史民俗博物館研究報告』一五七、二〇一〇年)。顕密仏教が中世を通じて巨大な影響力を保つことができた理由が、ここにあります。
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祈禱の種類によって「合理性との関係」も異なっていたのではないか。
病気は近代になるまで宗教的救済の対象として最後まで残る。
気象・災害も人知を超えた現象。
しかし、合理性を徹底する必要が特に高い戦争はどうなのか。
承久の乱での朝廷方の敗北は祈禱への「社会的信頼」を相当に損なったのではないか。
鎌倉時代に既に相当の合理的思考(「宗教的空白」)が進展していたと考える私の立場からは、元寇に際しての幕府の対応は不可解に思える。
この点、海津一朗氏の『新 神風と悪党の世紀 神国日本の舞台裏』(文学通信、2018)等の一連の著作に即して、後日検討予定。

海津一朗(和歌山大学教授、1959生)
https://researchmap.jp/read0097760

二、「序章 鎌倉仏教研究の課題と総括的検討」の続き

p6以下
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 本書では、この史料的困難を突破するために「幕府勤仕僧」に着目した。鎌倉幕府と主従関係を結んだ武士を御家人と呼んでいるが、同じように、幕府の主従制に包摂された僧侶も数多い。そこで彼らを「幕府勤仕僧」「幕府僧」と概念化し、それぞれの事績を丹念に復元することで、史料的困難を突破しようと考えたのだ。鎌倉幕府研究では、御家人の個別研究が幕府論を深めているだけに、こうした手法も十分有効であると判断した。【中略】
 そこで幕府勤仕僧一人ひとりの個別研究を進めることで、『吾妻鏡』にみえる人物比定を根本的にやり直し、記事内容の理解を深めたうえで、その史料批判に向かおうと考えた。【中略】『吾妻鏡』を正確に理解するためには、人物比定が欠かせないが、それを行うには、個々の幕府僧の経歴を丹念に追う作業が不可欠である。今のところ、北条氏出身の僧侶を約六〇名、鎌倉山門派を約七〇名、鎌倉寺門派を約一〇〇名、そして鎌倉真言派については約七〇名、計三〇〇名ほどの個別研究を行ってきた。完璧を期すには、鎌倉真言派を中心にさらなる検討が必要であるが、こうした地道な作業を積み重ねることで、①の困難を乗り越えようとした。
 そして記事内容の理解を踏まえて、史料批判へと歩を進めた。その一例として、ここでは鶴岡八幡宮別当定親の事例を挙げておこう。定親に関する『吾妻鏡』の記事は、全般的に不正確さが目立つ。【中略】
 このように『吾妻鏡』の記事については、慎重な検討が今後も必要であるが、特に定親の関係記事における難の多さには、定親という人物の特殊性が関わっていよう。定親は宝治合戦で追放され、その弟子も鎌倉から去っている。定親は追放された後に、権僧正・正僧正の地位にのぼるが、『吾妻鏡』の没年記載は「法印定親」とあって、鎌倉滞在期の官位のままである。本人とその関係者が幕府と関わりをもたなくなったため、編纂時に正確な情報を集めることができず、定親関係記事の誤謬が多くなったと思われる。
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定親(1265没)は源通親(1149‐1202)の子息。

源通親(1149‐1202)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%80%9A%E8%A6%AA

渡邉裕美子論文の達成と限界(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/662d3f18a5b8de3356d6b62ca28fadf9

『吾妻鏡』宝治元年(1247)六月十四日条によれば、三浦泰村後室は「定親妹」。従って源通親の娘。

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今度張本等之後家并嬰児等悉被尋出之。所謂泰村後家者。鶴岡別当法印定親妹也。有二歳男子。光村後家者。後鳥羽院北面医王左衛門尉能茂法師女。当世無双美人也。光村殊有愛念余執。最期之時。互取替小袖改着之。其余香相残之由。于今悲歎咽嗚云々。同有赤子。家村後家者。島津大隅前司忠時女子也。有三人嬰児。加妾服云々。是等皆所令落飾也。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma38-06.htm

六月五日条に北条時頼が盛阿(平盛綱)を泰村の許に遣わし、その際に書状を持たせたとある。
当該書状は泰村室が保管。
六月十五日条に、

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去五日。以平左衛門入道盛阿。所被遣若狹前司泰村之左親衛御文出來。後家所返進也。有御尋之故歟。存殊重寳之由。不可令紛失之旨。泰村被示付之間。自到來之時。結付護緒。依西御門舘放火。楚忽雖走出。猶随身之云々。別有御感云々。
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とある。
また、六月五日条に、

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今曉鷄鳴以後。鎌倉中弥物忩。未明左親衛先遣萬年馬入道於泰村之許。被仰可相鎭郎從等騒動之由。次付平左衛門入道盛阿。被遣御書於同人。是則世上物忩。若天摩之入人性歟。於上計者。非可被誅伐貴殿之搆歟。此上如日來不可有異心之趣也。剩被載加御誓言云々。泰村披御書之時。盛阿以詞述和平(不及談吉本)子細。泰村殊喜悦。亦具所申御返事也。盛阿起座之後。泰村猶在出居。妻室自持來湯漬於其前勸之。賀安堵之仰。泰村一口用之。即反吐云々。
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とあるが、泰村が緊張のあまり湯漬けを吐いた云々盛阿が帰った後の出来事なので、その情報源は泰村室(定親妹)であろう。(高橋秀樹『三浦一族の研究』p220)

『三浦一族の研究』(吉川弘文館、2016)
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