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坂口太郎氏「両統の融和と遊義門院」(その1)

2022-07-04 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月 4日(月)13時05分41秒

「禅空失脚事件」に関する坂口太郎氏の認識は森幸夫説を踏襲したもので、私も森説に対する若干の疑問を繰り返しただけですが、ちょっとしつこかったですかね。
なお、私も後深草院と伏見天皇の間に父子対立がなかったと考えている訳ではなく、「禅空失脚事件」は父子対立の材料としては使えない、という立場です。
さて、『公武政権の競合と協調』で私にとって画期的と思われたのは遊義門院への言及があったことで、一般向けの通史としてはおそらく初めてではなかろうかと思います。(p207以下)

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両統の融和と遊義門院
 先に述べたように、正安二年(一三〇〇)から翌三年にかけて、両統は熾烈な抗争を繰り広げた。ところが、第一次後宇多院政期となると、両統の親密度は逆に深まりをみせる。その早い例は、正安三年十月二十日に、亀山院と伏見院・後伏見院らが西園寺家の北山邸に御幸し、亀山と伏見が対面したことであろう(『実躬卿記』)。両統迭立の趨勢が定まったことで、厳しい対立は緩和へと転じたのである。
 翌正安四年(乾元元年、一三〇二)二月十七日、亀山殿において、亡き後嵯峨院を供養する法華八講が勤修された。この八講には、持明院統の後深草・伏見・後伏見、そして大覚寺統の亀山・後宇多、あわせて五人の院が臨席した。廷臣の三条実躬は、日記に「希代の事か」と評している。総じて、同年は、五人の院が仏事や遊宴で勢揃いする機会が多く、鎌倉後期では稀にみる一年となった(三浦周行 一九〇七)。
 これ以後も、両統の院はいっそう親睦を深め、他統の院御所を訪問することが少なくなかった。興味深いのは、彼らの交流が、芸能を介して行われた点である。とりわけ、若い後伏見院は、蹴鞠について亀山院に弟子入りし、作法の指南を仰ぐほか、歌謡の朗詠についても、亀山に師事した(以上、青柳隆志 一九九三、小川剛生 二〇〇二a)。後伏見が亀山に抱いた親近感は、きわめて強かったようである(『実躬卿記』嘉元三年(一三〇五)七月二十日条)。
 この蜜月ムードが生まれた背景には、治天の君であった大覚寺統の後宇多院が、永仁二年(一二九四)六月に持明院統の遊義門院姈子内親王(後深草院の皇女)と婚姻を結んだことが関係していた。
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いったん、ここで切ります。
坂口氏はあっさり「婚姻を結んだ」と書かれていますが、永仁二年(1294)六月に実際に起きた出来事は普通の「婚姻を結んだ」事例とは相当に異なり、なかなかドラマチックですね。
そもそも姈子内親王(1270-1307)は弘安八年(1285)八月十九日、十六歳の時に後宇多天皇(1267-1324)の「皇后宮」となっています。
ごく普通に考えれば、これで二人は「婚姻を結んだ」といえそうですが、しかし、「皇后宮」となった後も姈子内親王は父・後深草院の許で暮らし、正応四年(1291)八月四日、院号宣下により遊義門院となった後も同じ状況が続きます。
そして「皇后宮」となってから九年の月日が流れた後、永仁二年(1294)六月末に遊義門院は後深草院御所から忽然と姿を消し、行方不明になってしまいます。
この点、『増鏡』巻十一「さしぐし」には、永仁六年(1298)の後伏見天皇践祚の記事の後に、

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皇后宮もこの頃は遊義門院と申す。法皇の御傍らにおはしましつるを、中院、いかなるたよりにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍びがたく思されければ、とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿におはします。またなく思ひ聞えさせ給へること限りなし。

http://web.archive.org/web/20150918073142/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-fushimitenno-joui.htm

とあります。(井上宗雄氏『増鏡(中)全訳注』、p403)
また、『続史愚抄』の永仁二年(1294)六月二十八日条を見ると、

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〇廿八日丁未。今夜、遊義門院<法皇<本院>皇女。御同座。御年廿五。>不知幸所。是新院竊被奉渡于御所<冷泉万里小路。>云。<或作五条院。謬矣。又作三十日。今月小也。無三十日。>後為妃。<〇増鏡、歴代最要、女院伝、続女院伝>
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とあり、後宇多院による遊義門院の略取誘拐事件は後宇多院が二十八歳、遊義門院が二十五歳のときに発生したのだそうです。
しかし、不思議なことに略取誘拐の被害者である遊義門院は加害者の後宇多院と一緒に仲良く暮らし始め、二人の婚姻生活は遊義門院が亡くなる徳治二年(1307)まで続きます。
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