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京極為兼が見た不思議な夢(その2)

2022-05-08 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月 8日(日)17時12分13秒

宇都宮景綱が登場する為兼の夢の話は『伏見院記』の永仁元年(1293)八月二十七日条に出てきますが、当該記事は国文学研究資料館サイトで確認することができます。

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0257-038109

上記リンク先で全54コマの最後の方、50コマの左側から51コマまで三ページ分が八月二十七日の記事で、最初の二頁が「永仁勅撰の議」について、三頁目の八行目の途中までが「南都維摩講師」を競望する僧侶についての記事です。
そして以後十三行目までが為兼の夢の記録ですが、井上宗雄氏の要約を借りれば、その内容は次の通りです。(『人物叢書 行極為兼』、p66以下)

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 八月二十六日為兼は天皇に次のことを語った。前夜、賀茂宝前で夢想があった。夢中に宇都宮入道蓮愉(前述)が、異国からの唐打輪を勧賞のため進める、といってきた。為兼が何の賞か、と問うと、叡慮に従わぬ不忠の輩をみな追罰すべき事前の勧賞であり、また糸五両を献ずるが、これは五百五十両になるだろう、ということであった(『伏見院記』)。霊感の強い為兼のこの夢想は、きわめて政治性の強い、願望の結果であったと思われ、天皇にしても、この夢を書きとめたのは、上述伊勢における為兼の霊感と同様、希瑞として共感するところがあったからであろう。すなわちこの二十七日は、勅撰のことが議せられた日であり(後述)、両者の念頭には、素志が果たされるべき希瑞として映ったのであろう。
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冒頭の八月二十六日は二十七日の間違いですね。
「叡慮に従わぬ不忠の輩をみな追罰」ですから、ここだけ見ればずいぶん物騒な話で、本郷和人氏のように「伏見天皇と為兼は、後に後醍醐天皇のもとで急速に肥大する幕府への反感を共有していたのではないか」などという解釈になりかねません。
しかし、八月二十七日の記事全体に占める比率を見れば明らかなように、この時点で伏見天皇にとって最も重要なのは勅撰集の撰集です。
そして、宇都宮景綱は御子左家と関係の深い武家歌人ですから、「叡慮に従わぬ不忠の輩をみな追罰」といっても、別に討幕とかではなく、伏見天皇の撰集方針に従わず、妨害するものは景綱が許さないぞ、程度の話と考えるのがよさそうです。

宇都宮景綱(1235-98)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kagetuna.html

井上氏は上記部分に続けて、

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 そして為兼は歳末、関東に下った。『沙弥蓮愉集』に、「権中納言為兼卿永仁元年歳暮之比、関東に下向侍りしに、世上の事悦びありて帰洛侍りし時、道より申し送られ侍」として「としくれし雪を霞に分けかへて都の春にたちかへりぬる」(五四二)とあり、蓮愉の「雪ふりて年くれはてしあづまのにみちあるはるの跡はみえけん」の返歌が録されている。「世上の悦」とは何であろうか。翌年正月六日正二位への昇叙をさすと推測されている(『沙弥蓮愉集全釈』)。なお為兼の下向は十二月六日前後であり(『親玄日記』)、東下の主眼はおそらく勅撰の議についての了解工作であって、そのほか政事についての要務などであったのだろう。
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と書かれていていますが、永仁元年(1293)は四月に平禅門の乱があった激動の年で、朝幕関係にも全く影響がなかった訳ではないでしょうから、むしろ何かの「政事についての要務」が「東下の主眼」であったかもしれません。
しかし、宇都宮景綱とののんびりした歌の贈答からすれば、少なくとも景綱との関係では「勅撰の議についての了解工作」、今後、撰集について何か問題が生じたならば宜しくご協力をお願いします、程度の話だったのだろうと思います。
景綱にしてみても、「妻は安達泰盛の姉妹」という関係から霜月騒動で冷や汗をかき、浅原事件の処理で東使を勤めるなど平頼綱に協力した後、平禅門の乱でやっと晴れ晴れした気分になった直後ですから、面倒なことに巻き込まれるのはうんざり、という立場だったと思います。
なお、「永仁勅撰の議」などと言われても、国文学関係者でなければ何のことか訳が分からないでしょうから、これも井上著から引用しておきます。(p73以下)

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 八月二十七日天皇は為世・為兼・雅有・隆博を召して、勅撰集撰集のことを諮った。為兼は前夜賀茂社に参籠し、夢想のあったことは前に述べたが、撰集について祈念するところがあったのであろう。
 二十七日雅有は所労で不参。天皇は右大将花山院家教をして三者に、下命の月はいつがよいか、また御教書・宣旨・綸旨など下命の形式や、撰歌の範囲などを下問した。為世は十月下命がよいとし、為兼は下命に一定の月はないから八月でよい、と答え、隆博はこれに賛同している。下命は三者とも綸旨によるのがよい、とし、撰歌の範囲は、為世は、上古の歌は先行の集に採られ、残るのは下品の歌だから中古以後の歌を主張、為兼は、近日天皇は古風を慕われているから上古以後がよい、として隆博の賛同を得た。また百首歌を召すのは「近来定まる事」だが、これを仰せ下されるのは撰集下命の前か後かについては、各人「時に依って「不同」である」と答えた。以上の評議によって、天皇は家教を通して、今月の下命、また上古を棄てるのは無念だからそれも選び載せること、今日が吉日だから、というので綸旨案を家教が持参した。それによると、万葉以外の代々の勅撰集に入らざる上古以来の歌を撰進すべく四人に命じた。隆博は喜悦の余り落涙、天皇はその歌道執心の深さに感嘆している。
 以上は『伏見院記』に依ったが、『実躬卿記』にも簡単な記事がある。すなわち「今日 勅撰有る可し。御百首出題以下事、評定有る可しと云々」とあるが、これは、この日、勅撰集のことが決まり、そのための御百首出題以下のことを議すべく、評定が有るのであろう、と解せられる。実躬は早退したので詳しくは記していない。
 天皇の上古仰慕の念、為兼の上古歌の尊重の意見、万葉にも詳しい六条家の末孫としての隆博の考えなどが窺われるが、為世と為兼の対立点(二点)はすべて為兼案が採用され、手まわしもよく綸旨が下された。天皇と為兼との間に前もって相談があったことが容易に推測される。
 これがいわゆる「永仁勅撰の議」であるが、ここで提起された課題は後に長く尾を引くことになる。
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現代人から見るとずいぶん些末なことに拘っているような感じがしないでもありませんが、永仁元年(1293)八月の時点では、伏見天皇にとって、自らの治世を言祝ぐ勅撰集の実現こそが最大の課題だった訳ですね。
ただ、様々な事情からこの勅撰集の編集は遅延し、永仁四年(1296)の為兼籠居、ついで六年(1298)の為兼流罪によって、いったんは立ち消えになってしまいます。
そして為兼が流罪から戻り、徳治三年(延慶元、1308)後二条天皇崩御によって花園天皇が践祚し、伏見院の第二次院政が始まってから問題がより熾烈な形で再燃することになります。
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