投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月11日(水)11時58分19秒
「永仁の南都闘乱」はかなり複雑な話なのですが、森幸夫氏の最新刊、『六波羅探題 京を治めた北条一門』(吉川弘文館、2021)に簡潔な説明があったので引用させてもらいます。
「歴史文化ライブラリー」の通例、というか悪弊で同書はきちんとした章立てをしていませんが、全体の構成は、
-------
六波羅探題以前―プロローグ
六波羅探題の成立
極楽寺流北条氏の探題時代
転換期の六波羅探題
探題を支えた在京人たち
南方探題主導の時代
六波羅探題の滅亡
なぜ滅亡したのか―エピローグ
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b590522.html
となっており、実質的な第三章「転換期の六波羅探題」は「探題北条時村の時代」と「探題北条兼時・北条久時の時代」に分かれています。
「永仁の南都闘乱」は北条久時の在任時に起きています。(p110以下)
-------
久時の探題就任
永仁元年四月四日、新たな六波羅探題北方として北条(赤橋)久時が入京した(『実躬卿記』)。二十二歳である。南方探題には引き続き北条盛房が在任していた。
久時は北条義宗の子で、長時の孫である。得宗家に次ぐ家格の極楽寺流北条氏の嫡流であったが、上洛以前に幕府内で要職に就いていた形跡はない。しかし、久時の上洛から二十日も経ない四月二十二日に、鎌倉で平頼綱が誅伐されること、さらに久時が、頼綱との関係が深かったとみられる北方探題北条兼時の後任であったことには注目せねばなるまい。【中略】先に善空の一件でみたように、正応四年ころには、平頼綱の権勢にも陰りがみえていたから、久時の北方探題任命は、北条氏による支配体制を泰時以来のあるべき形に戻そうとした、当時の執権北条貞時の意思に基づくものと考えられるであろう。そして貞時によって頼綱が討伐され、名実ともに、幕府の鎌倉・京都支配のあるべき形が取り戻されたのである。
-------
いったん、ここで切ります。
赤橋久時は足利尊氏の正室・登子の父親ですね。
赤橋久時(1272-1307)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E4%B9%85%E6%99%82
登子の姉妹には京極為兼の失脚後、その養子・正親町公蔭と結婚した種子や「鎮西歌壇」の女流歌人「平守時朝臣女」もいます。
尊氏周辺の「新しい女」たち(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d065c447bda97b338d818447a5e07572
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f4e978a0ffdad8e70040c906f49a6e8f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d065c447bda97b338d818447a5e07572
さて、北方探題赤橋久時の在任当時、探題の権限はあまり強くありませんでした。(p112以下)
-------
久時の時代
得宗家と水魚の関係にあった赤橋家当主として、六波羅探題北方となった北条久時であったが、永仁五年六月までの久時の探題在任時代、六波羅探題は西国成敗(裁判)の判決権を有していなかった。【中略】
久時期の六波羅は、西国成敗の制限のみではなく、寺社紛争解決においても幕府が全面的にリードする場面が多いように思われる。久時期には「永仁の南都闘乱」と呼ばれる、興福寺の門跡一乗院と大乗院との抗争が繰り広げられた(安田次郎 二〇〇一)。
永仁元年十一月、春日若宮の祭礼において、一乗院覚昭僧正と弟子の信助禅師配下の武者たちが合戦し、信助には大乗院慈信僧正が加勢して死者が出る大規模な闘乱が生じた。この抗争の次第を六波羅探題は鎌倉に注進し、十二月近国御家人をもって興福寺を警固する事態となった。翌二年二月になると、紛争解決のため東使長井宗秀と二階堂行藤が上洛する。ともに吏僚系の有力御家人である。八月、六波羅で一乗院方と大乗院方との問注が行われ、この審議内容は鎌倉に報告されて、九月、一乗院覚昭が勅勘に処せられて流罪と決する。しかしこの処分を不満とする一乗院の門徒が、春日神木を泉木津まで動座させる事態となってしまう。翌永仁三年二月、有力得宗被官の安東重綱が上洛して情勢を把握し、鎌倉の北条貞時政権は、三月覚昭を宥免し、九条家の覚意を一乗院に入室させることで解決をはかった。これによって春日神木は帰座することとなる(『興福寺略年代記』『永仁三年記』ほか)。
これが永仁の南都闘乱の概要であるが、こののちしばらく一乗院・大乗院の対立は継続し、永仁五年六月には一乗院領に地頭が設置される事態となる(十月に地頭は停止される)。
-------
途中ですが、長くなったのでいったん切ります。
「紛争解決のため東使長井宗秀と二階堂行藤が上洛」したのは永仁二年(1294)二月ですが、長井宗秀には子息の貞秀が同行しており、井上宗雄氏が書かれていたように、貞秀は翌三月五日、蔵人に補せられています。
また、井上氏は言及されていませんが、同日、貞秀は検非違使にも任じられています。
これは何を意味するのか。
「永仁の南都闘乱」はかなり複雑な話なのですが、森幸夫氏の最新刊、『六波羅探題 京を治めた北条一門』(吉川弘文館、2021)に簡潔な説明があったので引用させてもらいます。
「歴史文化ライブラリー」の通例、というか悪弊で同書はきちんとした章立てをしていませんが、全体の構成は、
-------
六波羅探題以前―プロローグ
六波羅探題の成立
極楽寺流北条氏の探題時代
転換期の六波羅探題
探題を支えた在京人たち
南方探題主導の時代
六波羅探題の滅亡
なぜ滅亡したのか―エピローグ
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b590522.html
となっており、実質的な第三章「転換期の六波羅探題」は「探題北条時村の時代」と「探題北条兼時・北条久時の時代」に分かれています。
「永仁の南都闘乱」は北条久時の在任時に起きています。(p110以下)
-------
久時の探題就任
永仁元年四月四日、新たな六波羅探題北方として北条(赤橋)久時が入京した(『実躬卿記』)。二十二歳である。南方探題には引き続き北条盛房が在任していた。
久時は北条義宗の子で、長時の孫である。得宗家に次ぐ家格の極楽寺流北条氏の嫡流であったが、上洛以前に幕府内で要職に就いていた形跡はない。しかし、久時の上洛から二十日も経ない四月二十二日に、鎌倉で平頼綱が誅伐されること、さらに久時が、頼綱との関係が深かったとみられる北方探題北条兼時の後任であったことには注目せねばなるまい。【中略】先に善空の一件でみたように、正応四年ころには、平頼綱の権勢にも陰りがみえていたから、久時の北方探題任命は、北条氏による支配体制を泰時以来のあるべき形に戻そうとした、当時の執権北条貞時の意思に基づくものと考えられるであろう。そして貞時によって頼綱が討伐され、名実ともに、幕府の鎌倉・京都支配のあるべき形が取り戻されたのである。
-------
いったん、ここで切ります。
赤橋久時は足利尊氏の正室・登子の父親ですね。
赤橋久時(1272-1307)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E4%B9%85%E6%99%82
登子の姉妹には京極為兼の失脚後、その養子・正親町公蔭と結婚した種子や「鎮西歌壇」の女流歌人「平守時朝臣女」もいます。
尊氏周辺の「新しい女」たち(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d065c447bda97b338d818447a5e07572
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f4e978a0ffdad8e70040c906f49a6e8f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d065c447bda97b338d818447a5e07572
さて、北方探題赤橋久時の在任当時、探題の権限はあまり強くありませんでした。(p112以下)
-------
久時の時代
得宗家と水魚の関係にあった赤橋家当主として、六波羅探題北方となった北条久時であったが、永仁五年六月までの久時の探題在任時代、六波羅探題は西国成敗(裁判)の判決権を有していなかった。【中略】
久時期の六波羅は、西国成敗の制限のみではなく、寺社紛争解決においても幕府が全面的にリードする場面が多いように思われる。久時期には「永仁の南都闘乱」と呼ばれる、興福寺の門跡一乗院と大乗院との抗争が繰り広げられた(安田次郎 二〇〇一)。
永仁元年十一月、春日若宮の祭礼において、一乗院覚昭僧正と弟子の信助禅師配下の武者たちが合戦し、信助には大乗院慈信僧正が加勢して死者が出る大規模な闘乱が生じた。この抗争の次第を六波羅探題は鎌倉に注進し、十二月近国御家人をもって興福寺を警固する事態となった。翌二年二月になると、紛争解決のため東使長井宗秀と二階堂行藤が上洛する。ともに吏僚系の有力御家人である。八月、六波羅で一乗院方と大乗院方との問注が行われ、この審議内容は鎌倉に報告されて、九月、一乗院覚昭が勅勘に処せられて流罪と決する。しかしこの処分を不満とする一乗院の門徒が、春日神木を泉木津まで動座させる事態となってしまう。翌永仁三年二月、有力得宗被官の安東重綱が上洛して情勢を把握し、鎌倉の北条貞時政権は、三月覚昭を宥免し、九条家の覚意を一乗院に入室させることで解決をはかった。これによって春日神木は帰座することとなる(『興福寺略年代記』『永仁三年記』ほか)。
これが永仁の南都闘乱の概要であるが、こののちしばらく一乗院・大乗院の対立は継続し、永仁五年六月には一乗院領に地頭が設置される事態となる(十月に地頭は停止される)。
-------
途中ですが、長くなったのでいったん切ります。
「紛争解決のため東使長井宗秀と二階堂行藤が上洛」したのは永仁二年(1294)二月ですが、長井宗秀には子息の貞秀が同行しており、井上宗雄氏が書かれていたように、貞秀は翌三月五日、蔵人に補せられています。
また、井上氏は言及されていませんが、同日、貞秀は検非違使にも任じられています。
これは何を意味するのか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます