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0109 平雅行氏「序章 鎌倉仏教研究の課題と総括的検討」を読む。(その9)

2024-06-28 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第109回配信です。


一、前々回配信の補足

0107 平雅行氏「序章 鎌倉仏教研究の課題と総括的検討」を読む。(その8)〔2024-06-21〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/71d850d193ad4dc2ce0d96d6e3badbb9

平氏は「鎌倉幕府が依拠した仏教の中核は顕密仏教である。それは二つの点から明らかだ。第一は将軍御願寺、第二は北条氏出身僧である」(p18)とされるが、ここには比較の視点が欠落。

二、鎌倉禅林の人口増加

芳澤元氏「鎌倉後期の禅宗と文芸活動の展開」(上横手雅敬編『鎌倉時代の権力と制度』所収、思文閣出版、2008)

『鎌倉時代の権力と制度』(思文閣出版、2008)
https://www.shibunkaku.co.jp/publishing/list/9784784214327/
上横手のじっちゃんと11人の孫たち〔2010-09-03〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e8554b1300d13619548327b1a68077e5

芳澤元氏(1982生)は当時「大阪大学大学院博士課程2年(文学研究科文化形態論専攻)」。
現在は明星大学准教授
https://researchmap.jp/hyoshi

ラーメン“発祥の地”は博多?—人文学部日本文化学科 芳澤 元(よしざわ はじめ)准教授の研究に関する記事が西日本新聞に掲載されました
https://www.meisei-u.ac.jp/2020/2020122402.html

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はじめに
一 鎌倉期禅林と文芸
 1 鎌倉期禅林の文芸認識
 2 禅院入門と詩文作成
 3 禅林人口増加と生活空間
二、禅林文芸の受容と文化交流
 1 禅僧と他宗僧侶の交流
 2 禅林文芸の価値と大陸趣味
 3 禅林文芸の受容の意義
おわりに
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p268以下
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3 禅林の人口増加と生活空間
 次に、掛搭僧への作頌試験が実施されるにいたった、日本の具体的な事情や背景についてみてみよう。
 まず、禅林の人口増加という根本的な問題がある。禅院の規式類から定員数についてみると、たとえば東福寺では、建長二年(一二五〇)に一〇〇人と定められた住僧が、暦応三年(一三四〇)には三〇〇人に拡大し、円覚寺でも、乾元二年(一三〇三)二〇〇人だった定員が、嘉暦二年(一三二七)には二五〇人に増えている。実際には定員数以上の住僧が溢れていたのであり、禅院の外で夜行・他宿する僧侶もあらわれたのである。膨れ上がった禅林の人口は、自然、居住空間の拡張を余儀なくした。円覚寺では住僧の増加を見込み、第二の僧堂「正法眼堂」が増築されるなど、鎌倉後期には禅林中枢部である僧堂の収容人数を超える僧衆が存在したと指摘されている。
 また、鎌倉禅林は、人口増加だけでなく、住僧の資質の面でも問題を抱えていた。円覚寺などの禅林は幕府から高い生活水準を保証されていたが、次の史料からは、その豪奢な生活ぶりに投げかけられた批判が伺える。
  ……如貴書云、禅侶中、或乖戒律、好名利、不顧国家之費、課威儀法則、
  致華美過差之族、甚非要枢乎。所挙過悪、皆在不律之邪輩歟。凡濫如来
  之法服、而犯如来之重戒者、制之国家有刑憲。律之叢林有規矩。能依禅
  律之法式、罰一戒百、則、信者遷善消罪、真者悟心証聖。……
 この史料は、無象静照が、文永九年(一二七二)朝廷に禅宗興隆を非難する書を捧げた比叡山衆徒に対して、反論を書き朝廷に奏上したものの一節である。傍線部からは、叡山側の禅宗批判の対象が、戒律に背いて名利を好み、国家の費えを顧みぬ華美な禅僧であることがわかる。これに対して無象の側は、かかる「不律之邪輩」は禅林の枢要ではなく、「禅律之法式」に則りこれを誡めるものであると反駁している。鎌倉禅林に入門を求め集まる者のなかには、禅林の豊かな生活を当てにする「不律之邪輩」といった有象無象も確かに存在したのである。
【中略】
 こうした事情から、鎌倉禅林では人口超過を防ぎ、「不律之邪輩」を退ける入門審査が必要となり、幕府と禅林長老に「法器之仁」と認められなければ掛搭は叶わなかったのである。右の掛搭の規定には「法器之仁」の具体的な判定基準はみられず曖昧だが、先にみたとおり、作詩作文の「才知」が禅林入門のうえで重視され、礼儀作法ともされたのである。
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5 コメント

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Unknown (筆綾丸)
2024-06-29 19:54:05
小太郎さん
ご無沙汰しております。
中世はすでに遠い思い出で、小太郎さんのお話にはもはやついてゆけず、前後の脈絡を無視して、こんなことを書いてよいものか、わからないのですが、お許しください。
小川剛生『徒然草をよみなおす』(ちくまプリマー新書 2020年)を読んで、炯眼にしびれました。僭越ながら、名著ですね。

徒然草第20段にある「空の名残」について、西行・俊成女・後鳥羽院の歌や連歌師宗長の句や芭蕉の笈の小文を引用して、これは五官ではとらえられぬ時間の余韻(推移)のことを指しているのだとして、あのゲーテ『ファウスト』の、
Werd ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch! du bist so schön!
と似ているだろう、としています。
ゲーテはともかく、空の名残を時間の余韻(推移)とする解釈は画期的だと思いました(第二章 時間よ止まれ)。
いままで、なんで誰もわからなかったのだろう、という気がします。

「つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかひて・・・」の「硯にむかひて」は、源氏物語手習巻で、入水で死ねなかった浮舟が出家して、ひたすら手習いに没頭し手すさびに何かを書いているところ、すなわち、「・・・ただ硯に向かひて、思ひあまる折は、手習をのみたけきことにて書き付け給ふ」の「硯に向かひて」を踏まえているのであって、兼好の心情は浮舟の心情に近いものだ、としていて、大変な炯眼だと思いました(第九章 源氏物語から徒然草へーつれづれなる「浮舟」)。
いままで、なんで誰もわからなかったのだろう、という気がします。

小川氏は、
薄暮帰雁
行き暮るる雲路のすゑに宿なくば 都にかへれ春のかりがね
を兼好の代表歌としていますが(第三章 歌人としての兼好)、読みながら、ふと、これはもしかすると、後醍醐天皇の辞世、
玉骨は縦ひ南山の苔に埋むるとも
魂魄は常に北闕の天を望まん
のパロディかもしれない、あるいは、西海に滅びた平家へのオマージュかもしれない、などと妄想しました。
返信する
お久しぶりです。 (鈴木小太郎)
2024-06-29 23:30:29
筆綾丸さん

小川剛生氏の著作は全て優れた内容ですが、つい先日刊行されたばかりの『「和歌所」の鎌倉時代』、NHK出版)も本当に良いですね。
https://nhkbook-hiraku.com/n/n05f51b966716?sub_rt=share_h

このところ平雅行氏の顕密体制論の検討を行っていて、この後、更に平氏の権門体制論の批判に進もうと思っていたのですが、小川氏の本が余りに刺激的だったので、小川著を検討することにしました。
筆綾丸さんにもご参加いただけるとありがたいです。
返信する
Unknown (筆綾丸)
2024-06-30 10:53:51
小太郎さん
『「和歌所」の鎌倉時代』も購入したので、これから読んでみますが、小川氏の学識に圧倒されるのでしょうね。

薄暮帰雁の歌は、兼好の晩年、貞和五年(1349)頃に成立した家集の中にある、とあります。作歌時期は知りませんが、帰雁は春になって北に帰る雁のことですから、この字面には現れぬ北は滅亡した北条氏を暗示しているのかもしれず、とくに、兼好が仕えた金沢貞顕は六波羅探題として長く都に在職したので、貞顕ひいては北条金沢氏の人々に向かって、都にかへれ春のかりがね、と呼びかけているのかもしれないですね。雁行というごとく、雁は整然と列をなして飛ぶ鳥ですから、もうこの世にはいないものの、貞顕が頭になって一門を引き連れているような感じすらしてきます。そんなことを考えると、この歌は遁世者兼好の絶唱なのかもしれない、と思いました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240418/k10014426021000.html
顕注密勘の末尾に、
承久三年三月二十八日
八座沈老 花押
とあって、これは承久の乱の少し前なので意味深長ですが、紅旗征戎非吾事の定家にしてみれば、乱前であれ、乱中であれ、乱後であれ、俺には関係ない、この日を以て了としただけのことだ、といったところでしょうか。
権中納言となり参議の座を得たとはいえ、もうただの老いぼれだ、という八座沈老の署名は自虐的で、にやにやしながらふてくされている狷介な老人の顔が目に浮かぶようです。定家の花押ははじめて見ましたが、家の字の崩しでしょうか。
顕注密勘という標題は誰が名付けたのか知りませんが(定家自身ということはないのでしょうね)、顕教と密教を踏まえていて絶妙な命名です。古今和歌集をめぐって、exotericism と esotericism がせめぎあっているようで、なんとも象徴的だと思いました。
返信する
Unknown (筆綾丸)
2024-07-01 11:51:08
追記
ウィキによれば、定家は建保二年(1214)、参議に任じられているので、権中納言は関係ないですね(辞任は承久四年)。
であれば、八座沈老の沈老の意味も違うはずで、これは、参議の中の最年長というようなことかもしれないですね。自虐ではなく、現状追認の律儀なペンネームということになりますか。沈老という漢語を知らないので、ただの想像ですが。
返信する
藤原秀能と飛鳥井雅経 (鈴木小太郎)
2024-07-02 12:58:14
>筆綾丸さん
承久三年三月二十八日というとかなり微妙な時期ですね。
後鳥羽院の計画は極めて限定された近臣を中心に秘密裡に進められており、後鳥羽院から疎まれていた上、西園寺家に近い定家が知り得たはずもありません。
しかし、歌人であっても藤原秀康の弟である秀能には間違いなく誘いがあったはずで、秀能は参加を断固拒否したと私は考えています。
また、大江広元の娘を妻とする飛鳥井雅経は、稲葉美樹氏によれば、

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 承久三年(一二二一)五月、承久の乱が起こるが、雅経はその約二ヶ月前に没している。鎌倉との関わりも深かった雅経は、生きていれば乱の渦中では難しい立場に立たされたのではないだろうか。同年三月七日に行われた、順徳天皇主催の「春日社歌合」の歌三首が、雅経の最後の作品である。この歌合が行なわれたわずか四日後に、雅経は没した。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64ca8bd9d54d9b9f786c335bb98a3788

とのことですが、飛鳥井雅経が三月十一日に急死したことは偶然なのか。
あるいは雅経が怪しい気配を知って鎌倉へ通報しようとしたために殺されてしまったのでは、などと想像したくもなりますが、まあ、急死の不自然さ以外は証拠のない話ですね。
返信する

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