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土御門定通は変な人

2009-10-18 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年10月18日(日)18時11分23秒

>『北条重時』
私も読んでみましたが、全般的にバランスのとれた信頼性の高い本だなという印象を受けました。
②についてですが、森氏が「あるいは定通に対し、幕府から改名への働きかけがあったのかも知れない。とすれば、その中心となったのは定通の義兄弟重時であったろう。」と書かれている点は賛成できないですね。
もともと天皇の諡号・追号は朝廷が決めるべきことであって、幕府が介入する必要性と正当性があるのか、という基本的な疑問があります。
誰を天皇にするかという高度に政治的な判断とは異なり、亡くなった人の名前をどうするかというような非常にデリケートな問題に何故幕府が口を挟むのか。
森氏も引用する河合康氏の「武家の天皇観」は称号変更の経緯について次のように書いています。

-------------
 以上、顕徳院怨霊説の展開と後嵯峨天皇擁立にいたる幕府の戦後処理政策について検討してきたわけであるが、最後にもう一つ忘れてはならない事件がこの直後に起きている。すなわち、後嵯峨擁立から僅か五か月後の一二四二年(仁治三)六月十五日、今度は幕府の中心人物である執権北条泰時が病死したのである。そして、「顕徳院御怨念甚だ深し」(『平戸記』同年六月二十三日条)とまたも顕徳院怨霊説が広まるなか、突如、六月二十六日になって「顕徳院」の諡号が「後鳥羽院」の追号に改められることになり(『平戸記』同日条)、七月八日には山陵使が派遣され正式に「後鳥羽院」と改められた(『百錬抄』同日条)。この「顕徳院」から「後鳥羽院」ヘの称号変更については、従来ほとんど注目されてこなかったが、興味深く思える点は、他の貴族たちの反対を押し切ってこの変更を強行したのが、土御門定通だったことである(『平戸記』同年六月二十六日条)。定通は、先にも述べたように、北条泰時と協力して後嵯峨擁立に動いた人物であり、また泰時・重の姻戚でもあった親幕派貴族である。その定通が「顕徳院」の諡号を泰時の死を契機に改めているのである。この事実は、一体どのように評価されるべきなのであろうか。『増鏡』第三は上皇の生前の遺言によって「後鳥羽院」に改められたと記しているが、「後鳥羽院」に変更を行った定通は、実は五か月前の四条天皇の追号定の際にも「後鳥羽」を主張しており(『後中記』同年一月十九日条、『平戸記』同年一月十九日条)、上皇の遺言によったという記事は信用できない。定通にとっては「顕徳院」の諡号を追号に改めるという意味しかもたなかったことは明らかであろう。もちろん厳密な検討は今後の課題としなければならないが、後嵯峨天皇の践祚を実現させ、外戚として自己の地位を確立した定通にとっては、後嵯峨の擁立を疑問視し、順徳の皇統の復活を促すような顕徳院怨霊説の広がりは、幕府と同様都合の悪い問題であったに違いない。とすれば、定通は「顕徳院」の諡号を改めることによって、上皇が怨霊の主体であること自体を否定し、泰時の死を契機に高まりが予想された顕徳院怨霊説の矛先をかわそうとしたのではないだろうか。



この称号変更の時期、森氏の記述に基づき、重時の動向を中心に少し整理すると、

4月27日ころ泰時発病、次第に悪化。
5月9日 泰時出家。
5月12日子刻(13日の午前零時ころ) 鎌倉の飛脚、六波羅到着。泰時が病気により出家したことを伝える。
5月13日子刻(14日の午前零時ころ) 重時は、後嵯峨天皇の制止にも関わらず、急遽、鎌倉に下向。(京都は両探題不在の異常事態)
5月下旬 重時、鎌倉到着。鎌倉の不穏な情勢を鎮める。
6月15日 泰時死去。
6月20日 泰時死去の報、京都に伝わる。
7月10日 重時、京都到着。

となっていて、6月26日の称号変更は泰時死去の報を受けての決定に間違いないでしょうが、その時に重時は京都に不在であり、しかも泰時出家を聞いて慌しく出立していた訳ですから、事前に称号変更について土御門定通と念入りに打ち合わせをしていたとも考えにくい。
そもそも鎌倉は不穏な情勢にあったのであって、重時は称号変更のような問題より遥かに重大な問題を山ほどかかえていたはずです。
以上から私は、6月26日の称号変更は土御門定通の独断によるものと思います。
一度決まった諡号を変えてしまえ、というような変な発想は変な人からしか生まれてこないですね。
土御門定通が如何に変な人かは本郷さんの『中世朝廷訴訟の研究』に紹介されている釣りのエピソードがよく物語っていますが、後嵯峨天皇践祚の直後であるこの時期は、後嵯峨践祚に貢献した変人定通が屁理屈を言ってゴリ押しするのが通ってしまったのだと思います。

では、建長元年(1249)に「順徳」の諡号に決まった理由は何かというと、2年前に変人定通が死んでうるさいことを言う人がいなくなったから、に尽きるんじゃないですかね。
もともと遠方で死んだ天皇に良い名前をつけて慰めましょう、というのはごく穏当な、常識的な発想だと思います。
7年前にはうるさいことを言う人がいたけれど、建長元年の時点では常識的な結論が出て、みんなほっとしたんじゃないですかね。

なお、森氏は河合康氏の「武家の天皇観」にあまり疑問を抱かれていないようですが、私には納得できないことが多いですね。
また後で書いてみます。

※追記(2024年6月26日)
後鳥羽院の追号、順徳院の諡号については、この後も若干の検討を行っています。

諡号「顕徳院」が追号「後鳥羽院」になった理由〔2017-05-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7bca895328a13a37474b519d7842981d
『帝室制度史』を読む(その13)〔2017-06-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/65e716a48d12e3517dbce2a24c185063
順徳院について〔2017-06-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/879fa7c3d58401c6bd8651ee947e8e35
「巻三 藤衣」(その7)─後鳥羽院崩御〔2018-01-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9a384872074709b799233fc6d689975
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