学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

0101 平雅行氏「序章 鎌倉仏教研究の課題と総括的検討」を読む。(その3)

2024-06-12 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第101回配信です。


平雅行『歴史のなかに見る親鸞』(法蔵館、2011)
http://j-soken.jp/read/826

十年後に大幅に加筆・補訂して『改訂 歴史のなかに見る親鸞』(法蔵館文庫、2021)を出した。

-------
文庫のためのあとがき
【中略】
 私の研究の出発点は親鸞である。本書末尾「自然法爾の世界へ」の七割ほどは、私の卒業論文に拠っている。親鸞の挫折と専修念仏への絶望が、私の研究の出発である。そして、この親鸞をきちんと理解したいとの想いが、五〇年近くの間、私の研究を支えつづけてきた。本書は私の研究の出発点を示すとともに、その到達点を指し示すものでもある。異例なほどの加筆・補訂を加えて本書を出し直すのは、本書が私にとって特別な意味合いをもっているからに他ならない。
【後略】
-------

-------
 第二の穏健改革派と第三の急進改革派の僧侶は、官位をもっていません。そのため彼らは聖・沙弥・上人・聖人と呼ばれました。これには最初から聖であった者と、顕密僧をやめて聖となった僧がいます。こうした聖は平安中期から登場しますが、鎌倉時代に彼らが仏教改革に取り組むようになり、たいへん重要な役割を果たします。
 改革派の僧侶が登場した原因は、戦争です(拙稿「鎌倉時代の仏教革新について」『興風』三二号、二〇二〇年)。治承・寿永の内乱(源平内乱)です。この当時、仏教に求められていた一番重要な役割は、鎮護国家、つまり平和の実現でした。ところが平安末の治承・寿永の内乱は、日本の歴史で初めての全国的内乱です。膨大な数の民衆がこの戦乱の犠牲となりました。顕密僧は鎮護国家を必死に祈りますが、何の効き目もありません。それどころか、東大寺大仏が焼け落ちた。これは仏教が戦争に負けたことを意味しています。鎮護国家の理念が歴史的現実によって無残に打ち砕かれました。「これまでの仏教のどこかが間違っていた。何を間違ったのか」、僧侶はもちろん、貴族や武士もこの厳しい問いを反芻しました。その反省のなかから仏教革新運動が登場してきます。そして、穏健改革派は僧侶の破戒に問題があると考え、急進改革派はこれまでの仏法そのものに問題があると考えました。
-------

「僧侶はもちろん、貴族や武士」の全員が「この厳しい問いを反芻」したのではなく、仏教全般、特に「鎮護国家」の祈禱などに不信を抱いた人も相当いたのではないか。

治承・寿永の内乱に続く承久の乱の結末は人々の仏教観にどのような影響を与えたのか。

『鎌倉時代の幕府と仏教』「第四章 幕府における顕密仏教の展開と鎌倉幕府」によれば、「第Ⅰ期 源氏将軍の時代」(1180~1219)には、頼朝御願の三ケ寺は一応整備されたものの、人的整備は遅れていた。
幕府僧の官位は極めて低く、能力も低く、密教の整備が遅れていた。
「正式な密教僧となるには伝法灌頂をうける必要があるが、成立期の鎌倉には伝法灌頂をうけた僧侶が誰もいなかった」(p315)。
その後、定豪などが鎌倉に来るが、幕府は重要な祈禱は鎌倉の僧に依頼せず、京都から高僧を招いて行わせた。

この状態で承久の乱に突入。
戦勝の祈禱を行った僧侶の質と数は朝廷側が幕府側より圧倒的に優勢。
しかし、僅か一か月で幕府側が圧勝。

祈禱の効果に疑念を持った人はいなかったのか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

0100 平雅行氏「序章 鎌倉仏教研究の課題と総括的検討」を読む。(その2)

2024-06-12 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第100回配信です。


一、前回投稿の補足

-------
慶融 正応三年、木田本拾遺愚草に次の如き奥書を記した(岩波文庫本参照)。
 正應三年正月於大懸禅房以
 京極入道中納言家眞筆不違一字少生執筆寫之畢、以同本校合之  隠遁慶融<有判>

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8b5dc7c8859821188b3e58c771c31290

二、「序章 鎌倉仏教研究の課題と総括的検討」の続き

p5以下
-------
 要するに佐々木馨氏は、顕密体制は西国の宗教秩序であり、東国では幕府を中心に別の宗教秩序が構築されていた、と主張したのである。この構想は東国国家独立論や二つの王権論と通じるところがあり、その点からも注目すべき学説である。そして佐々木氏は、公家的体制仏教と武家的体制仏教との決定的な相違点として、東国における山門派の排除をあげた。「幕府と延暦寺との決定的反目」「一触即発の危機状況」というように、鎌倉幕府と延暦寺との対立を過剰に強調するところに、この説の特徴がある。私は、幕府と延暦寺との関係は緊張に満ちた協調関係と捉えるべきと考えており、両者を非和解的対立関係とする氏の位置づけには賛成できない。実際、後述するように、佐々木氏の見解は論理と実証の両面で不十分なところが多々ある。
 とはいえ、佐々木氏が顕密体制論の弱点を剔抉したことは、率直に評価しなければならない。一般に僧位僧官制や国家的受戒制、堅義〔りゅうぎ〕・灌頂制度、さらに本末関係や荘園公領制などが顕密体制を全国的なものにしていた。しかし、鎌倉幕府の成立によって、東国仏教界が幕府を中心に一定求心性をもつようになった以上、そうした一般論で東国仏教を処理することはできないはずだ。そもそも顕密体制論・寺社勢力論は基本的に畿内近国の宗教秩序をもとに構想されており、東国の仏教界を十分に視野に収めてこなかった。こうした研究状況からすれば、鎌倉仏教の実態を解明し、京都の仏教界と鎌倉の仏教界とが、どのような有機的構造的連関をもっていたのかを明らかにすることが、不可欠の前提となる。
 この課題に応えるには、単なる佐々木批判では不十分であり、実証水準の飛躍的深化が必要となるであろう。鎌倉仏教の研究では『吾妻鏡』が根本史料となるが、仏教史関係の記事はさほど多くないうえ、「宰相僧正」「大僧正」「勝長寿院法印」「民部卿法印」といった記載が多い。人物比定が容易でないため、史料批判はおろか、『吾妻鏡』の記事内容を正確に理解することがそもそも難しい。さらに決定的なのは、『吾妻鏡』が文永三年(一二六六)で終わっており、鎌倉幕府の歴史の四割以上の時期が空白であることだ。鎌倉仏教界の実態を解明するためには、①『吾妻鏡』の記事内容の正確な理解とその史料批判を進めるとともに、②『吾妻鏡』欠落期の実態解明という、二つの困難を克服しなければならない。
-------

佐々木馨氏
 公家的体制仏教…天台宗山門派を中心とする顕密主義
 武家的体制仏教…臨済禅と東密・寺門派・律宗から構成される。(禅密主義)

平氏も佐々木氏も東国にも「体制仏教」が充満していたと考える点は共通。
しかし、「体制仏教」の存在感自体が東国では相当に軽いのではないか。
なにしろ古代から連綿と続く伝統を誇り、僧兵という強大な暴力装置を持つ寺院が東国には存在しない。
「東国仏教界が幕府を中心に一定求心性をもつ」といっても、中心となった鎌倉三ケ寺(鶴岡八幡宮寺・勝長寿院・永福寺)は頼朝が新設したもの。
歴史と伝統、そして権威において、鎌倉と京都は決定的に異なる。
「求心性」の程度も全く異なったはず。

平氏は鎌倉時代の仏教界を、

 第一 顕密仏教
 第二 穏健改革派
 第三 急進改革派

と分類。(『改訂 歴史のなかに見る親鸞』、p9)

『改訂 歴史のなかに見る親鸞』(法蔵館文庫、2021)
https://pub.hozokan.co.jp/book/b591400.html

顕密仏教の僧侶は朝廷から僧であることを認定された人々で、二つの特権を持つ。

 第一の特権…官位を持つ
 第二の特権…朝廷が主催する仏事で国家祈禱を行える

第二の穏健改革派と第三の急進改革派の僧侶は官位を持たず。聖・沙弥・上人・聖人と呼ばれる。

穏健改革派のキーワードは「戒律興隆」。
悪僧対策に苦慮していた朝廷・幕府は穏健改革派を積極的に支援。

 栄西…禅宗と戒律
 貞慶…法相宗と戒律
 明恵…華厳宗と戒律
 俊芿…真言・天台・禅と戒律
 叡尊…真言と戒律

急進改革派(法然・親鸞・道元・日蓮)は仏法を純粋化した仏法至上主義。王法よりも仏法が上。
朝廷は急進改革派の教えを仏法とは認めず、むしろ仏法の敵として弾圧。

京都では第一の顕密仏教が圧倒的な存在感を持つ。
鎌倉では、そもそも宗教一般の持つ重みが京都より軽い。
その軽い中で、第一の顕密仏教は貧弱。
幕府は第二の穏健改革派を積極的に支援。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする