学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

坂口太郎氏「禅空失脚事件」への若干の疑問(その2)

2022-07-03 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月 3日(日)18時06分3秒

前回投稿で、「「平雅行 二〇〇四」は「青蓮院の門跡相論と鎌倉幕府」(河音能平・福田榮次郎編『延暦寺と中世社会』、法蔵館)とのことで、私は未読ですが」などと言ってしまいましたが、私は今から十五年前、2007年7月の投稿で、

-------
非常に唐突で恐縮ですが、森幸夫氏が「平頼綱と公家政権」で検討された禅空について何か新しい知見を加えた論文をご存じの方は教えて下さい。
なお、平雅行氏の「青蓮院の門跡相論と鎌倉幕府」は既に読んでいます。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bedc83f807702387c5a6940e4b56844a

と書いていました。
うーむ。
記憶力の著しい低下に我ながらちょっとまずいなと思わざるを得ない状況ですが、平雅行氏の論文が何か新しい史料に基づくものではないことは一応確認できたともいえますね。(ポジティブ・シンキング)
ということで、やはり「善空に関わる記事は、ひとり『実躬卿記』のみが伝えるところ」(筧雅博氏)であり、しかも『実躬卿記』でも関連する記述は正応四年(1291)五月二十九日条と六月一日条の二日分のみです。
果たしてこの記事から、坂口太郎氏のように「禅空は、平頼綱の側近」と言うことができるのか。
六月一日条から善空と「長崎新左衛門入道性杲・平七郎左衛門尉」の特別な関係までは言えても、善空と平頼綱が直接結び付くと言えるのか。

善空事件に関する筧雅博説への若干の疑問(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b3a378b3f45cafb7dcd0d576f747f963

正応四年(1291)五月末の「禅空失脚事件」から、同六年(永仁元、1293)四月二十二日の平禅門の乱まで実に二年近いタイムラグがあり、「禅空失脚事件」が平頼綱失脚に直結している訳ではありませんから、善空はあくまで京都で平頼綱という虎の威を借りる狐である「長崎新左衛門入道性杲・平七郎左衛門尉」の仲間であって、頼綱とは間接的な関係、と考えるべきではないですかね。
頼綱からしてみれば、調子に乗ってやりすぎたので「長崎新左衛門入道性杲・平七郎左衛門尉」と一緒にトカゲの尻尾として切り捨てた、程度の存在ではなかろうかと思います。
ただ、「禅空は、平頼綱の側近」ではなく、「長崎新左衛門入道性杲・平七郎左衛門尉」の側近に過ぎなかったとしても、善空が関わる訴訟・人事は実際上アンタッチャブルな特殊案件と化して、誰も怖くて口を挟めなかったのでしょうね。
それは後深草院政下であろうと伏見親政下であろうと変わりはなく、要するに鎌倉の情勢が変わったから伏見天皇は安心して苦情を言えるようになっただけで、「禅空失脚事件」は後深草院・伏見天皇の父子対立とは関係ない、というのが私の考え方です。
さて、坂口氏は「要するに、伏見は、後深草の近臣たちを、その跋扈を許した禅空もろとも処分し、政務の主導権を握ることを考えたわけである」に続けて、次のように主張されます。(p193以下)

-------
 鎌倉幕府の側も、禅空を取り締まる理由は十分にあった。先述したように、持明院統の治世が始まった当初、幕府は七ヵ条の事書において、任官・叙位の厳正や、僧侶・女房の政治への口入を停止することを求めている。禅空の所行は、これらを紊乱するものにほかならない。また、執権北条貞時は、この時期より、権勢を誇る平頼綱を疎ましく思っており、頼綱による朝政介入の窓口であった禅空を排除することで、頼綱の勢力を削ぐことを狙ったようである。
 このように、禅空とその関係者の失脚は、朝廷・幕府ともに、政治の潮目が変わることを示す事件であった。これ以後も、伏見天皇は、政務運営のうえで後深草院の意向を尊重しているが、みずからが政務を主導する状態を、着実に整えていくのである。
-------

うーむ。
「持明院統の治世が始まった当初、幕府は七ヵ条の事書において、任官・叙位の厳正や、僧侶・女房の政治への口入を停止することを求め」たのは弘安十一年(正応元年、1288)正月二十日です。(p185)
この「七ヵ条の事書」が北条貞時の主導で行われたのなら坂口氏の主張ももっともですが、貞時の年齢(十七歳)等を考慮すれば、これはあくまで平頼綱の政策だろうと思われます。
そして、善空の介入は正応四年(1291)五月末を遡ること四・五年から始まるとされているので、「七ヶ条の事書」と時期的にピッタリ重なります。
素直に考えれば、少なくとも平頼綱にとって両者は別に矛盾する訳ではなく、綺麗ごとを並べた「七ヶ条の事書」も、要するに俺の承認を得ずに勝手なことをやるな、程度の意味しかないのではなかろうかと私は考えます。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その17)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f677a5df0af4205493d2884a2f323cc
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 坂口太郎氏「禅空失脚事件」... | トップ | 坂口太郎氏「両統の融和と遊... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説」カテゴリの最新記事