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順教房寂恵(安倍範元)について(その2)

2023-12-11 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
出家前の寂恵は『吾妻鏡』弘長三年(1263)二月、北条政村邸で催された和歌会の場面に登場しますが、これはなかなか面白い記事ですね。
小川氏は北条本より吉川史料館本の方が良いとされ、レジュメに両者の異同も記されています。
ただ、北条本でも大幅に文意が損なわれることはなさそうなので、いつものように「歴散加藤塾」サイトの「吾妻鏡入門」を利用させてもらうと、まず、八日条に、

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【前略】今日於相州常盤御亭有和歌会。一日千首探題。被置懸物。亭主〔八十首〕。右大弁入道真観〔百八首〕。前皇后宮大進俊嗣〔光俊朝臣息。五十首〕。掃部助範元〔百首〕。証悟法師。良心法師以下作者十七人。辰刻始之。秉燭以前終篇。則披講。範元一人勤其役。


とあります。
『現代語訳吾妻鏡16 将軍追放』(吉川弘文館、2015)の赤澤春彦氏の訳では、

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今日、相州(北条政村)の常盤の御邸宅で和歌会が行なわれた。一日千首の探題で、懸物が用意された。亭主(政村)〔八十首〕・右大弁入道真観(藤原光俊)〔百八首〕・前皇后宮大進(藤原)俊嗣〔光俊朝臣の子息。五十首〕・掃部助(安倍)範元〔百首〕・証悟法師・良心法師以下、作者は十七人。辰の刻に始まり、火灯し頃より前に終わった。そこで披講があり、範元一人がその役を勤めた。
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とのことです。
北条政村邸で探題(続歌)の和歌会が行なわれて、十七人の作者で、例えば一回百首の続歌を十回繰り返すなどして、合計千首もの歌を一日で詠んだ訳ですね。
歌数の多い方から並べ直すと、

 右大弁入道真観(藤原光俊)〔108首〕
 掃部助(安倍)範元〔100首〕
 亭主(政村)〔80首〕
 前皇后宮大進(藤原)俊嗣〔光俊朝臣の子息。50首〕

ということで、一番多いのは反御子左派の歌僧・真観(藤原光親子息、1203-76)で、安倍範元は二番目です。
上位四人の歌数を合計すると338首で、残りの662首を十三人で詠んだとなると、

 662÷13≒50.9

ですから、残りの人も平均で五十首くらい詠んでいて、真観の子息・藤原俊嗣は四番目に挙がっているものの、特に歌が多い訳ではないですね。
披講とは和歌を(節をつけて)詠み上ることであり、範元一人が担当したのだそうです。
さて、翌九日条には、

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昨日千首和歌為合点。被送大掾禅門云云。
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とあり、千首の歌を、歌会の指導者である「大掾禅門」(真観)の許へ「合点」のために送ります。
そして、十日条に、

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被千首合点之後。於常盤御亭更被披講。今夜以合点数員数被定座次第。一座弁入道。第二範元。第三亭主。第四証悟也。亭主以範元下座之儀。可着対座之由。被称之処。大掾禅門云。以合点員数。可守其座次之由。治定先訖。而非一行座者。頗可為無念歟云云。其詞未終。亭主起座。欲被着于範元之座下。于時範元又起座逐電之処。即令人抑留之給。又任点数分懸物。大掾禅門分被置虎皮上。範元熊皮。亭主色革。以下准之。無点之輩儲其座於縁。雖羞膳。撤箸之間。無箸而食之。満座莫不解頤。掃部助範元者。去正月為上洛雖申暇。依此御会。内々被留之。懸物之中。於旅具者悉以拝領之。
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とあります。
この部分、赤澤春彦氏の現代語訳も悪くはないのですが、いささか生真面目過ぎて、陽気な莫迦騒ぎの雰囲気が感じられないので、赤澤訳を参照しつつ、私訳を試みると、

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千首の合点が行なわれた後、(北条政村の)常盤の御邸宅でまた披講となった。今夜は合点の数で席次が定められた。第一座は弁入道(真観、藤原光俊)、第二は(安倍)範元、第三は亭主(北条政村)、第四は証悟であった。亭主は範元の下座になるのはさすがにまずいと思われ、対座にしようと言われたが、真観は、「合点の数によって座次とすると決めたばかりではございませんか。それなのに一列の座としないのは何とも残念なことでございますなあ」と言った。その言葉を聞くやいなや、亭主は座を立って範元の下座に着かれようとしたが、範元も慌てて立ち上がって、あまりに恐れ多いと逃げ出してしまった。そこで亭主は、範元をつかまえろ、と周囲の者に命じて、範元を元の席に連れ戻した。また、合点の数に従って懸物を分けた。真観の分は虎の皮の上に置かれ、範元のは熊の皮に、亭主のは色皮に置かれ、以下、これにならった。合点が無かった者は、その座が縁に設けられた。膳は出されたものの、罰として箸が付けられなかったので、箸なしで食べることになってしまった。満座の人々は顎が外れるほど大笑いした。範元は、去る正月、上洛のために暇を申していたが、この御会のために内々に引き留められていた。懸物のうち、旅行用具はすべて範元が拝領した。
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となります。
政村邸で行われた和歌会は、決して堅苦しいものではなく、むしろ通常の身分秩序を逆転させることすら許される遊興の場であったことが分かります。
そして、範元は代々の陰陽師として幕府に仕えていただけでなく、政村の被官のような存在でもあったようです。
なお、続歌については、ネットでは別府節子氏の「続歌と短冊」(『出光美術館研究紀要』18号、2013)という論文が参考になりますね。

https://idemitsu-museum.or.jp/research/pdf/07.idemitsu-No18_2013.pdf
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