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佐伯智広氏『皇位継承の中世史』(その2)

2022-04-28 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 4月28日(木)13時07分51秒

京極為兼の第一次流罪の原因は『花園院記』正慶元年(元弘二年、1332)三月二十四日条の解釈の問題でもあります。
為兼は三日前の同月二十一日に七十九歳で死去していますが、為兼を敬愛していた花園院は二十四日条で為兼の生涯を回想しており、その中に「傍輩之讒」という表現が出てきます。
井上宗雄の『中世歌壇史の研究 南北朝期』によれば、

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 永仁四年五月十五日、為兼は権中納言を辞した。三十余年も後の記述であるが、花園院記正慶元年三月廿四日の条に(為兼)「至中納言、以和歌侵之、粗至政道之口入、仍有傍輩之讒、関東可被退旨申之、仍解現任、籠居之後、重有讒口、頗渉陰謀事依武家配流佐渡国」とあるのを信ずれば、現任を解かれたのは政道口入によって傍輩から関東への讒言があり、幕府から為兼を斥けべき執奏があったのである。
 竜粛『鎌倉時代』(下)や岩橋小弥太氏『花園天皇』等の叙述では、為兼と西園寺実兼の勢力が拮抗した為、実兼の妬忌にあって失脚したのだ、としているが、為兼が実兼に忌避されて失脚したのは、花園院記の前掲に続く部分によると、為兼の第二次失脚・配流(すなわち正和末年の土佐配流)であって、この永仁度の失脚は「傍輩之讒」(具体的には誰人の誹謗か不明であるが)によるものであった。なお為兼帰洛後の嘉元頃に為兼は実兼と親しかったので、この事から考えても第一次失脚は実兼との対抗によるものではなかったと思われる。
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といった具合です。(改訂新版p42以下)
同書では初版(1965)の記述と改訂新版(1987)での追加部分が明確に区分されており、ここは初版で既に記述されていた部分ですね。
さて、井上説に対しては、政治的に対立していたとしてもそれは歌壇活動とは別ではないか、という反論も一応考えられない訳ではありません。
しかし、乾元二年(1303)閏四月、為兼が幕府に赦されて帰洛した直後の同月二十九日から翌五月一日にかけて持明院殿で行われた「仙洞五十番歌合」には、

 左:女房(伏見院)・経親・兼行・為相・俊兼・教良女・藤大納言典侍(為子)・延政門院新大納言・永福門院小兵衛督・中将(永福門院)
 右:為兼・家親・永福門院内侍・範春(後伏見院)・新宰相・家雅・入道前太政大臣(実兼)・親子・俊光・九条左大臣(道良)女

の二十人が参加していますが、「すべて持明院統の側近廷臣と女房群であるが、実兼のような権貴の人が入っているのは注意され」(p107)、「とにかくこの歌合は全体的に力のこもった佳什が多く、作者の人数といい、番数といい、現存京極派歌合の中、最大のもの」(p108)です。
加えて、

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 書陵部蔵伏見宮旧蔵本の中に、この歌合に出詠する実兼の詠を為兼に合点せしめた一軸(原本)がある。為兼の合点歌が実兼の歌合詠進歌となり、為兼の評語等もあって注意すべきものである。【中略】ともあれ為兼は帰洛後ただちに顕貴の歌道師範たる地位に復したのである。
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といった事情もあって(同)、いわば為兼の帰洛祝いの歌合において実兼と為兼の関係は極めて良好ですから、流罪の原因を実兼が作ったと考えるのは無理が多かろうと思います。
ところで、流罪の原因については他にも様々な学説が提示されてきましたが、異色なのは何といっても今谷明説です。
『京極為兼』(ミネルヴァ書房、2003)において、今谷氏は永仁の南都争乱との関係を提示され、為兼はこの争乱に関与したのが失脚の原因であったとの斬新な説を唱えられました。

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『ミネルヴァ日本評伝選 京極為兼 忘られぬべき雲の上かは』
両統迭立という政争に深入りしたため佐渡配流に遭ったと考えられてきた京極為兼。本書では、その失脚の経緯を新たな視点から解明するとともに、歌人としてはもちろん、政治家としても優れていた為兼の人物像に迫る。

https://www.minervashobo.co.jp/book/b48497.html

しかし、今谷著が出た直後、小川剛生氏が「京極為兼と公家政権」(『文学』4巻6号、2003)で今谷新説に強力に反論され、南都争乱と為兼の配流を結びつけるのは根拠薄弱であることを論証されました。
ただ、小川氏も今谷説を否定しただけで、「傍輩」についての独自説を提唱されることはなく、結局、振出に戻ってしまった訳ですね。
この点、井上宗雄氏は『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)において、今谷説と小川説を紹介された後、

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 『花園院記』に見える、讒言をした「傍輩」とは誰であろうか。関東に告げているのだから、西園寺実兼であろうか。実兼にしても為兼の「権勢」は目に余るようになっていたのではあろうが、ただ「相敵視し、互に切歯」、讒をしたことの明らかなのは第二度の折である(『花園院記』)。佐渡からの帰洛後、為兼と実兼との間は資料的に見て平穏であり、第一次(佐渡配流)の場合は、字義の如く「傍輩」、同程度の身分の廷臣で、為兼によって官途を塞がれた如き人(複数の可能性があろう)ではなかろうか。ただし、為兼の政治行動に不満であった実兼が、その失脚に暗黙の諒解を与えていた(岩佐氏)ことはありえよう。おそらく政界の大立者としては、表面では中立的な立場に敢て終始したのではなかろうか。
 徳政下、この傍輩による告発は正当視され、関東の介入があっては天皇といえども、どうすることも出来なかったのである(「傍輩」は、天皇に対抗するために幕府を介入せしめた面もあろう)。
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と書かれています。(p91)
佐伯智広氏もこうした学説の動向は当然御存知でしょうから、「その権勢のあまり、多くの貴族たちから批判を浴びただけでなく、本来は持明院統を支持していた西園寺実兼からも警戒されるようになった結果、伏見天皇の譲位直前の永仁六年三月、為兼は佐渡国に流罪とされたのである」とされたのは岩佐美代子氏あたりの影響でしょうか。
実は私は「傍輩」=西園寺公衡ではないかと疑っているのですが、私見は次の投稿で書きます。
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