学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

三浦周行「両統問題の一波瀾」(その1)

2022-04-20 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 4月20日(水)11時41分41秒

小川剛生氏の「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(『金沢文庫研究』347号、2021年10月)に登場する金沢貞顕の書状は、僅か三歳の恒明親王から金沢北条氏にとって特別なゆかりのある古今集の写本を贈られたことへの礼状です。

小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c114810da4f82a93cdff488a3efd2c68
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b529b1034f9df20d6339295cb6f4f83

この書状を理解するためには、そもそも恒明親王とは何者かを詳しく知る必要がありますが、そのための素材として、

入門編:三浦周行「第九十二章 後深草、亀山両法皇の崩御」(『鎌倉時代史』改訂版、1916)
初級編:三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(『日本史の研究 第一輯』、1922)
中級編:三浦周行「両統問題の一波瀾」(『日本史の研究 第二輯』、1930)
上級編:森茂暁「「皇統の対立と幕府の対応-『恒明親王立坊事書案 徳治二年』をめぐって-」(『鎌倉時代の朝幕関係』、1991)

の四つの論文を挙げることができます。
そして、入門編・初級編を終えたので、これから中級編、三浦周行「両統問題の一波瀾」に入ることとします。
もちろん私も単に古い論文を紹介するだけではなく、最晩年の亀山院が何故に恒明親王を皇嗣とすることに固執したのか、また、亀山院は自分に敵対していた西園寺公衡をどのようにして恒明親王の庇護者に取り込んで行ったのか、についての若干の私見を述べるつもりです。
そして、その二つの課題を整理した上で、改めて小川論文を検討する予定です。
ということで、三浦周行「両統問題の一波瀾」に入ります。
この論文は、

-------
一 研究の経過
二 亀山法皇宸翰に対する旧説の批判
三 余の解釈
四 恒明親王立儲の御内慮
五 西園寺公衡に対する御遺託
六 両統の御同意
七 法皇崩御前後の形勢
八 其後の経緯
九 事書案の批判
-------

の九節から構成されていますが、まずは第二節の途中まで引用します。

-------
 一 研究の経過

 大覚寺持明院両皇統間の皇位継承が両統迭立に依つて其順位を決定されてから、両統間の争議で残るは只譲位受禅の時期の問題丈となつた為め、従来に比して少からず形勢が緩和さるゝに至つたが、測らずも亀山法皇の遺詔から、大覚寺統側に内訌を生じ、延いては持明院統側にも動揺を来たした一波瀾が捲起された。私は此問題について嘗て史学会で数回の講演を続けたことがあつたけれども、故あつて発表の機会を逸したが、昨春(大正一一、五)出版の拙著『日本史の研究』に収めて始めて世に問ふことゝした。然るにこれと前後して本研究に取つて喫緊な新史料の発表があつて、幸ひにも私の旧説を裏書することゝなつたから、これを機会として本問題に関する私の研究の過去を辿り乍ら、其帰趨を明らかにしようと思ふ。

 二 亀山法皇宸翰に対する旧説の批判

 研究の対象は先づ亀山院御凶事記に見えた亀山法皇宸翰の字句から始まる。嘉元三年(中には七月二十日のも二十六日のも八月二十八日のもある)法皇が崩御に先きだつて(崩御は同年九月一五日である)後二条天皇其他上皇、親王、女院等に数通御譲状を遺し給ふと共に、前右大臣西園寺公衡に賜はつた二通の宸翰御消息があつて、其一通には

  五旬已後、面々御譲状等、守銘或持参、或可分進、太王不譲泰伯、而意
  在季歴、泰伯三譲季歴、意在太王、思之々々、
    嘉元三年七月廿六日 御判

と見える。これは法皇の崩御後五十日を経過してから、是等の御譲状をそれ/゛\名宛を御認めになつた銘書に任せて、或はこれを持参し、或は届けるやうにと公衡に御依頼になつたものであるが、其文を承けて一種の暗示を含んだ四句の意味が問題となつて来る。それについては従来学者の間に二つの異つた見解が行はれてゐる。一つは栗田博士の説であつて、一つは星野博士の説である。それを説く前に、今一つ次の如き遺詔を挙げよう。

  一 文永故院御譲状、一向以愚僧為総領歟、深草院雖為兄、一事一言不
  及訴訟、是併被重孝道故歟、且為先例、非余新儀、所領配分依多少、不
  慮嗷々出来事、可耻々々、可哀々々、

 これは前の遺詔を承けて、一旦五旬已後分進を仰せられたけれども、重ねて御閉眼後速に分進するやうにと仰せられたから其通りに取計らつたとの公衡の手記の後に載つて居るのを見ても、此重ねての仰出と同時に賜つたものであらうと察せられる。

http://web.archive.org/web/20061006194534/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondaino-ichiharan.htm

いったん、ここで切ります。
三浦の問題意識を確認するため、入門編・初級編との重複を厭わず引用しましたが、この後の栗田寛・星野恒説批判は古い議論なので省略します。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 三浦周行「鎌倉時代の朝幕関... | トップ | 佐伯智広氏『皇位継承の中世... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説」カテゴリの最新記事