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0108 南北朝クラスター向けクイズ(その3)【解答編】

2024-06-25 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第108回配信です。


問題のある記述

「当地に正脈庵を営んだのは、無学祖元の弟子の無外如大なる尼僧である。彼女は安達氏の出身で金沢北条氏に嫁し、その息女釈迦堂殿は貞氏の正室となり尊氏・直義の兄高義を生んだという(田中拓也二〇一九)」

無外如大は釈迦堂殿の母なのか?
少なくとも田中論文にはそのような記述はない。

無外如大(1223‐98)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%A4%96%E5%A6%82%E5%A4%A7

『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994)の牛山佳幸氏(信州大学名誉教授、1952生)の解説は、山家浩樹氏の無外如大に関する二つの論文が登場する前の学説の状況を反映していて興味深い。

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無外如大(むがい・にょだい)
生年:生没年不詳
鎌倉後期の臨済宗の尼。生没年は貞応2(1223)~永仁6(1298)年とする『延宝伝灯録』の説があるが疑わしい。出自,嫁ぎ先についても諸説あるが,安達泰盛の娘で金沢顕時の妻のひとりであったとする見方が有力である。弘安2(1279)年鎌倉に招かれた無学祖元に参禅していたことは確かで,同8年の霜月騒動で安達氏一族が滅亡し,夫も連座して配流されたのを機に,正式に門に入り得度したらしい。室町時代に京都尼五山の筆頭となる景愛寺の開山とされ,法名は無着と称したとも伝えられる。臨済宗では最初の正規の尼とみられ,景愛寺の塔頭であった宝慈院(京都市上京区)には,鎌倉時代の肖像彫刻が伝来している。なお,俗名を千代野(能)と称したとする伝承があるが,後世に生じた俗説であろう。無外如大の経歴には他にも伝承に包まれた部分が多く,開創者に擬せられた寺として,岐阜県関市広見に現存する松見寺などがある。<参考文献>『夢窓国師年譜』『仏光国師語録』,荒川玲子「景愛寺の沿革―尼五山研究史の一齣―」(『書陵部紀要』28号)
(牛山佳幸)
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北山准后の老後とその健康状態 (その1)〔2019-03-31〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d8e08e65aaf417d13f50be75224c8520
高義母・釈迦堂殿の立場(その1)~(その5)〔2021-02-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/527766e220012abaa4256eeda165cde2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2fb8e6cb191446e60c5d99d36ef82f44
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ecabae37040d6be7bb9b3abb3fce8908
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/353124b361d535704d03c1411784328b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52f9da2097054b4ec4fd6deb482074c9
四月初めの中間整理(その12)〔2021-04-14〕
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0092 常在光院の謎〔2024-05-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/53632983d2ab44192b0acdda2bca0e27

山家浩樹「無外如大の創建寺院」(『三浦古文化』第53号、1993)
https://web.archive.org/web/20061006213232/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yanbe-hiroki-mugainyodai-jiin.htm
山家浩樹「無外如大と無着」(『金沢文庫研究』第301、1998)
http://web.archive.org/web/20061006213421/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yanbe-hiroki-mugainyodai.htm

現在の研究水準では、無外如大と無着が別人であることは自明の前提。

日本中世研究所 無外如大プロジェクト
https://chusei-nihon.net/mugai800j/
『無外如大尼 生涯と伝承 中近世の女性と仏教』(思文閣出版、2024)
https://www.shibunkaku.co.jp/publishing/list/9784784220793/

同書所収の原田正俊「無外如大と景愛寺」が現在の無外如大研究の到達点であろう。

無外如大は「京都で修道生活を送った尼僧で、鎌倉にいる無学とは書翰を通して問答し、その境地を認められたことがわかった。如大は、安達泰盛の娘無著と別人と考えれば、鎌倉における修学を考慮する必要はないのである」(p48)

建治三年八月二十九日付理宝寄進状案
「代々乃貴所」である「五辻御地」を「ひくに如大房」に寄進。
これが景愛寺敷地となった。
理宝は今林准后藤原貞子(1196‐1302)とされてきたが、「彼女が理宝という法号も所持していた可能性はあるが、同時代史料では不明である」(p30)

原田氏は特に言及されていないが、貞子を「尊深」と記す文書はある。

小松茂美「鎌倉 世尊寺經尹 西園寺實氏夫人願文」(日本名跡叢刊第44回配本、二玄社、1980)
https://web.archive.org/web/20080307024211/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/komatu-shigemi-ganmon.htm

山家浩樹氏は「無外如大と無着」において、無外如大を「上杉氏の関係者ではないか」とされた。
原田氏は、無外如大を「西園寺家に近しい人物とみることができる」とされる。
コメント
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