学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その10)─「軍記物『承久記』の圧巻というべきこの場面は、お涙頂戴の人情話なのか」

2023-09-12 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p169以下)

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 完勝した幕府の戦後処理は、敗者を無視して迅速に進められる。八日、院の同母兄の持明院の宮(入道行助親王、後高倉院)が院政に当ることが決り、その翌日、幼年の孫王(後堀河天皇)が立てられた。かつて幼帝(安徳天皇)のいわば予備員として平家都落に連れ去られ、壇の浦の滅亡後帰京して、わびしく夜を遠ざかっていた一歳上の次兄に、思いがけない晩年がめぐって来たのであるが、いうまでもなく院政の実権はあますところなく鎌倉の手中に奪われていた。後鳥羽院政の豊富な財源の一つであった八条院(鳥羽皇女)の広大な遺領も後高倉院に移ったが、これも幕府の要求する場合は返却という条件付きである。「院政」は今後も断続するが、実質はこの日を期として失われた。古代中世の最大画期である。
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「幼年の孫王(後堀河天皇)」とありますが、後堀河天皇は後高倉院(1179-1223)の皇子なので、これはちょっと変ですね。

後堀河天皇(1212-34)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A0%80%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

ま、そんな細かなことはともかく、目崎氏は「いうまでもなく院政の実権はあますところなく鎌倉の手中に奪われていた」、「「院政」は今後も断続するが、実質はこの日を期として失われた。古代中世の最大画期である」と言われるので、権門体制論者ではないですね。
後述するように、目崎氏は慈光寺本の「逆輿」エピソードを史実とされており、私は目崎氏を「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(仮称)に載せざるを得ないのですが、ただ、目崎氏は「慈光寺本妄信歴史研究者交名」の一大勢力を占めている権門体制論者でないこととはこれらの記述から明らかです。
権門体制論者の方々は「予定調和」のまったりとした麗しい世界に生きておられるので、これほど率直な物言いはしないですね。

「理論を生むのに必要な渇きが足りない」(by 桜井英治)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e14112e16ddd3903222e2dccab922120

さて、続きです。(p170)

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 七月十日、北条泰時の嫡男時氏が鳥羽殿へやってきた。血気の若武者は武装のまま、弓の筈で南殿の御簾を荒々しくかき揚げ、
  君ハ流罪セサセオハシマス。トクトク出サセオハシマセ。
と責め立てた。その声は「琰魔〔えんま〕ノ使ニコトナラズ」と『承久記』(慈光寺本)は形容し、「院、トモカクモ御返事ナカリケリ。」と、衝撃に絶句した院の様子を伝えている。
 時氏はたたみ掛けて、「イカニ宣旨ハ下リ候ヌヤラン。猶謀反〔むほん〕ノ衆ヲ引籠〔ひきこめ〕テマシマスカ。トクトク出〔いで〕サセオハシマセ」と責め立てる。辛くも口を開いた院の答は、「今になって何で彼らを引き籠めようか。せめて都を去る前に、幼時から召し使った伊王能茂にもう一度会いたい。」という哀願であった。若武者時氏は哀願に心打たれて涙を流し、その請を受けた父泰時が伊王を入道させて御前に召しだす。変わり果てた姿に院が涙を流し、「出家シテケルナ。我モ今ハサマカヘン。」とて、わが皇子「仁和寺ノ御室」(道助法親王)を導師として剃髪した。
 軍記物『承久記』の圧巻というべきこの場面は、お涙頂戴の人情話なのか、はたまた裏で後鳥羽院と北条泰時の虚々実々の駆け引きがあったのかは容易には判断できない。しかしこの時、似絵の名手信実に描かせたという俗体の宸影が、後年水無瀬に営まれた御影堂(いま水無瀬神宮)に現存している。孝心深い院はこの似絵を形見として母七条院に贈ったのである。鳥羽に駆けつけた寵妃(修明門院)は院に殉じて出家した。
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「軍記物『承久記』の圧巻というべきこの場面」は慈光寺本だけに存在するものです。
後鳥羽院が「せめて都を去る前に、幼時から召し使った伊王能茂にもう一度会いたい」と「哀願」した場面の原文は前回投稿で引用(再掲)しましたが、その拙訳はリンク先を参照願います。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その59)─後鳥羽院は四辻殿へは何時移ったのか
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f1e524dd5dbddf940d1e9ac2456a496

また、「若武者時氏は哀願に心打たれて涙を流し」云々の場面は次のようなものです。

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 其時、武蔵太郎ハ流涙シテ、武蔵守殿ヘ申給フ事、「伊王左衛門能茂、昔、十善君〔じふぜんのきみ〕ニイカナル契〔ちぎり〕ヲ結ビマイラセテ候ケルヤラン。「能茂、今一度見セマイラセヨ」ト院宣ナリテ候ニ、都ニテ宣旨ヲ被下候ハン事、今ハ此事計ナリ。トクトク伊王左衛門マイラサセ給フベシト覚〔おぼえ〕候」ト御文奉給ヘバ、武蔵守ハ、「時氏ガ文御覧ゼヨ、殿原。今年十七ニコソ成候ヘ。是程ノ心アリケル、哀〔あはれ〕ニ候」トテ、「伊王左衛門、入道セヨ」トテ、出家シテコソ参タレ。院ハ能茂ヲ御覧ジテ、「出家シテケルナ。我モ今ハサマカヘン」トテ、仁和寺ノ御室ヲ御戒師ニテ、院ハ御出家アリケルニ、御室ヲ始マイラセテ、見奉ル人々聞人〔きくひと〕、高〔たかき〕モ賤〔いやしき〕モ、武〔たけ〕キモノゝフニ至マデ、涙ヲ流シ、袖ヲ絞ラヌハナカリケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3412d6a819e9fd4004219b4ca162da01

拙訳を再掲すると、

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【私訳】 その時、「武蔵太郎」北条時氏は流を涙して、「武蔵守殿」北条泰時に、
「伊王左衛門能茂は、前世において「十善君」後鳥羽院とどのようなお約束をし申し上げていたのでしょうか。「能茂に今一度だけ会いたい」との「院宣」が下され、都において「宣旨」を下されるのは、今はこの事ばかりです。早く「伊王左衛門」を後鳥羽院の御そばに参上させなさるべきと思われます」
というお手紙を書かれたので、北条泰時は、
「時氏の書状を御覧くだされ、殿原。今年で十七歳の若さなのに、これほどの思いやりの心があったのだ。立派なものだ」
とおっしゃり、
「伊王左衛門、入道せよ」
と命じたので、能茂は出家してから参上した。
後鳥羽院は能茂を御覧になって、
「出家したのだな。私も今となっては剃髪しよう」
と決意され、仁和寺の御室(道助法親王、後鳥羽院皇子)を御戒師として御出家なされたので、御室を始めとして、見奉る人々、そのお話を聞いた人々は、身分の高い者も賤しい者も、猛々しい武者に至るまで、涙を流し、袖を絞らぬ者はいなかった。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed0ab4d253ecb86d173f2f9136b6f2e8

となりますが、何ともシュールな展開です。
目崎氏は「軍記物『承久記』の圧巻というべきこの場面は、お涙頂戴の人情話なのか、はたまた裏で後鳥羽院と北条泰時の虚々実々の駆け引きがあったのかは容易には判断できない」と言われますが、私にはこんなものが「軍記物『承久記』の圧巻」とは思えませんし、「お涙頂戴」どころか、「何じゃこりゃ」と乾いた笑いしか浮かんできません。
このあたり、目崎氏の文章も些か軽薄な感じがしないでもありませんが、慈光寺本は何故に碩学の目を曇らせ、ハイな気分にさせるのか。
慈光寺本を研究するということは、このような奇妙な史料を妄信する歴史研究者を研究することでもあり、権門体制論者ではない目崎氏の反応はなかなか興味深いですね。
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