風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

バッハ・コレギウム・ジャパン 《マタイ受難曲》 @東京オペラシティ(4月8日)

2023-04-09 02:22:26 | クラシック音楽



鈴木雅明(指揮)

ルビー・ヒューズ(ソプラノⅠ)、松井 亜希(ソプラノⅡ)
久保 法之(アルトⅠ)、青木 洋也(アルトⅡ/証人Ⅰ)
トマス・ホッブス(テノールⅠ/エヴァンゲリスト)、櫻田 亮(テノールⅡ)
マーティン・ヘスラー(バスⅠ/イエス)、加耒 徹(バスⅡ)

バッハ・コレギウム・ジャパン(合唱&管弦楽)
東京少年少女合唱隊(合唱:ソプラノ・イン・リピエーノ)


このポスター↑、ちゃんと「聖金曜日」「聖土曜日」と書かれてあるんですね
私は聖土曜日の方を聴きにいきました。
素晴らしいという言葉も陳腐に感じられるような、なんだかまだあの響きの中にいる感じがしています。

聴きながら、ただただバッハへの感謝を感じていました。
バッハの曲を聴くといつもそうなのだけど、バッハこそ神が私達人間のためにこの世界に遣わせてくれた遣いなのではないかと感じる。
バッハがこの世界に生まれてきてくれて、こんな奇跡のような音楽を残してくれて、その音楽が数百年受け継がれて、今日こうして私が聴くことができていることに、感謝の気持ちでいっぱいになる。
そしていつか私がこの世界からいなくなった後も、バッハの音楽は演奏され続け、多くの人達を励まし続けるのだろうな、とそんなことも感じながら聴いていました。バッハの音楽が生き続ける時間と比べて、またキリスト教が生き続ける時間と比べて、自分の人生の時間がとても短いものに感じられました。決して悲観的な意味ではなく。

私はなぜなのか幼い頃から罪の意識のようなものをもってしまっている人間で。起因となる具体的な出来事があったわけではないし、親の育て方に問題があった感じもしないので、生まれ持った性格だろうと思います。
せめていつか死ぬときには赦されたい、と思っているのです。
誰から?
神からです。
それはキリスト教の神でも仏教のそれでもなく、この世界の全てを司る神です。
そして、きっと赦されるだろうとも感じています。
全ての人はきっと赦される。
感覚としてそう感じる、というだけなのですが。

そういう私にとって、『マタイ受難曲』は心に強く刺さる、重く響く、そういう曲です。とても厳しく、そしてこの上なく優しい曲です。
人は過ちを犯してしまう存在である。
でも自分の罪に向き合って生きていけば、私達は必ず赦される。
なぜなら私達の全ての罪を、イエスが自らの血と肉をもって贖ってくださったのだから。
この曲は、イエスの受難の悲劇と同時に、そういう強い安心感を与えてくれるんですよね。
神の子イエスが我々のためにした贖罪(人と神の和解)と、その根底にある愛。
それがキリスト教の本質なのだと、今回初めてちゃんと知った気がします。
キリスト教徒にとってイエスの受難は深く悲しむべき出来事ではあるけれど、同時に、イエスの愛によって新約が成された喜びの日でもあるんですね。

《マタイ受難曲》は、《ヨハネ》と比べて遥かに瞑想的、個人的な想いにつながる作品である。イエス・キリストは、私たちの「罪」のために死んだ。その「罪」を再認識して、この世をどう生きるか、それを考える機会となっているのが《マタイ受難曲》という作品だ。
鈴木雅明《マタイ受難曲》講演会レポート②

どんなに罪深い人でも本当に悔い改めたなら救われるのであれば、イエスはきっとユダのことも赦したのではなかろうか、彼は自殺しなくてもよかったのではないか、と思う。「ユダの失敗はイエスを裏切ったことではなく、イエスの愛を信じることができずに自殺したこと」という考え方があるそうです。まあ赦すのなら「彼は生まれてこない方がよかった」という言葉は酷だと思うけれど、このときのイエスは人間だし、自分を裏切って死に追いやる相手をそう簡単には受け入れられないよねえ(そもそもこの時のユダはまだ後悔してないし)。でもイエスが残した宗教は、そういう相手さえも「赦す」宗教なのだろうと、そうであるといいと思う。

そういう私なので、ペトロのアリア(39.憐れみたまえ)と、それに続くユダのアリア(43.私のイエスを返せ!)には、特に心動かされました。
そしてイエスが息を引き取った直後のコラール(62.私がいつの日か去りゆくとき)と、静かな夕暮れのゴルゴタの丘のバスのアリア(65.わが心よ、おのれを清めよ)。
今回はイエス役の方がバスⅠを兼ねていたので、65番のアリアは聴いていて涙が出そうになりました。
『マタイ受難曲』って凄絶なはずの場面でもなぜか明るい曲調だったりして、それが不思議な効果をもたらしているんですよね。鈴木さんは「このようなチグハグさを通じて、バッハは私たちもいつユダのようになるかもしれない、という戒めを伝えている」のだと仰っていました

鈴木雅明さん指揮のBCJ、素晴らしかったな。
品格を決して失わずに凄絶さと哀しみと清らかさを、一瞬も緊張を途切れさせることなく見事に聴かせてくださいました。
古楽器の素朴な音色、いいな。。。
合唱も、あんな少人数で歌っているとは思えない迫力で。「Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen.(まことに、この人は神の子だったのだ)」、神々しかった…。
また第一部で少年少女合唱隊を使ったのは久しぶりとのことだけど(コロナ禍だったから?)、冒頭の曲は絶対に少年少女の声で歌われるべきであるように感じました。あそこで天使のような清らかな声が降ってくるかどうかで、あの場面から届くものは大きく変わるように思う。

エヴァンゲリストのトマス・ホッブスとイエスのマーティン・ヘスラー、どちらも役にぴったりでした。特にイエスの声ってとても難しいように思う。人間臭さと弱さを残しつつ、神の子の力強さと包容力のようなものも備えていなければならないのだもの。

また今回、席をR側にしたのは正解でした(ベストは正面席ですが)。メインの役の人達がほぼ皆さん舞台左手で歌うので、L側の席では見えないところでした。

BCJは毎年受難節の時期にこの曲を演奏しているそうなので、来年もまた聴きに行けたらいいな。
個人的には、大学時代にアメリカ南部で発症したキリスト教アレルギーを、今回だいぶ払拭することができてよかったです。バプティストの他宗教に対する排他主義は変わらず大嫌いだけど。※バッハはルター派で、鈴木さんはカルヴァン派です、念のため。
いま調べてみたところ、バプティスト教会全てがそうなわけではなく、「アメリカ南部バプティスト連盟」がキリスト教会の中でも非常に特殊な排他的かつ独善的な考え方を持っているそうで、キリスト教の内部でも懸念されているそうです。

バイブル・ベルト(アメリカ英語: Bible belt、聖書地帯)は、アメリカ合衆国の中西部から南東部にかけて複数の州にまたがって広がる地域で、プロテスタント、キリスト教根本主義、南部バプテスト連盟、福音派などが熱心に信仰され地域文化の一部となっている地域。同様にキリスト教会への出席率の非常な高さも特徴になっている。社会的には保守的であり、学校教育で進化論を教えることが州法で禁止されていたことがあるなど、キリスト教や聖書をめぐる論争の絶えない地域である。(wikipedia)

うちの大学はなぜそんな地域に交換留学生を行かせたのだろう。うちはキリスト教の大学でもないのに。20歳のときにそれを経験してしまったせいで、キリスト教アレルギーになってしまったではないか。でもある意味ではキリスト教の究極の保守的な面を経験できたことは、今となれば良い人生経験だったかも。ちょうど受難節のシーズンだったので町の教会のホールで行われるイースターの演劇を観に行った(行かされた)んですが、キリストの十字架場面では観客達が声を上げて号泣しているのよ…。そして復活場面では総立ちで拍手喝采の大興奮…。その場にいた私の気持ちを察してください…。
しかし数年後に友人から誘われて行った東京のバプティスト教会のミサも、驚くべき排他主義だったな。「イエスとブッダはどっちが上かー?」「イエスだ!」「イエスとアラーはどっちが上かー?」「イエスだ!」の掛け合いが行われ、「なぜならイエスだけが復活したからだ!」と結論付けられるのです。その場にいた私の気持ちを察してください…。あれはアメリカ南部系の教会だったのだろうか…(※追記:南部バプテスト連盟の宣教師によって日本にできたのが日本バプテスト連盟なのだそうです…)。
なおうちの大学とアメリカ南部の大学との交換留学制度は、数年で廃止になったそうです。明確な黒人差別も体験して、人生経験的に本当に濃い三ヶ月間だった…(もちろん、楽しいことも山ほどありました)。

「信仰とは天国に到達する手段」保守派のアメリカのクリスチャンの素顔(2)(wedge)

↑この筆者の方の経験は私より20年ほど前のものですが、私もまさに同じ地域で全く同じような経験をしました。

★★★オマケ★★★
BCJの今回の公演、字幕表示が一切ナシなのです、なんと。3時間以上の曲なのに。
この曲を聴くのは初めてだったので対訳付きの二千円のパンフレットを買ったのだけど、ホール内は暗くて老眼の目には文字なんて殆ど読めない。なので対訳を追うのは早々に断念。
でもそれなりには予習をしていったので(それなりには、ですが…)、第一部の後半だけちょっと場面を見失ったけれど、全体的にはほぼ迷子にならずに済みました。
私と同じマタイ受難曲初心者さんのために&来年以降の自分用覚書として、以下に今回の私がやってみた「しっかり予習する時間はないけれど最低限は押さえておく」方法を書いておきますね。

1.対訳付きの動画で予習する。
曲の全体像の把握には、こちらのサイト様に大変お世話になりました。

2.主要な「39.憐れみたまえ」と「49.愛によりわが救い主は死のうとされる」のアリアと、5回登場する「受難のコラール(15, 17, 44, 54, 62)」は、旋律と歌詞と場面をわかるようにしておく。また、それらの特徴も覚えておく。たとえば「39.憐れみたまえ」のフレーズはペトロの3回目の否認とそれに続くエヴァンゲリストのレチタティーヴォのフレーズと同じ、「49.愛により~」のアリアだけは通奏低音がない(愛というよりも罪を表している曲だから)、5つの受難のコラールはみな調性が異なる(最後から2つ目の「54.おお,血と傷にまみれし御頭」では最も高く、最後の「62.私がいつの日か去りゆくとき」では最も低い)、など。

3.重要なor聴き取りやすい単語だけは、動画を観ながら発音も含めて覚えておく(英語と似ているものも多い)。「Kommt(来なさい)」、「Sehet(見よ)」、「Wo? (どこ?)」、「Buß und Reu(悔い改めの気持ち)」、「Blute nur(流れよ)」、「verraten(裏切る)」、「Silberlinge(銀貨)」、「Liebe(愛)」、「Mein Vater(我が父)」、「Galiläa(ガリラヤ)」、「Gethsemane(ゲッセマネ)」、「kreuzigen(十字架)」、「Golgatha(ゴルゴタ)」、「Jesus(イエス)」、「Judas Ischarioth(イスカリオテのユダ)」、「Petrus(ペトロ)」、「Jesu von Nazareth(ナザレのイエス)」、「Pilato(ピラト)」、「Barrabam(バラバ)」、「Joseph(ヨセフ)」、「Maria Magdalena(マグダラのマリア)」、「Eli, Eli, lama asabthani!(エリ、エリ、ラマ アザプタニ!)」、など。

4.その他の個人的に好きなor覚えやすいと感じるアリアを、いくつか覚えておく。私の場合は「52.わが頬の涙」は伴奏が鞭打ちの場面と重なって覚えやすかったですし、「43.私のイエスを返せ!」や「65.わが心よ、おのれを清めよ」は好きだったので覚えられました。

以上で、少なくとも場面を見失うことはないかと。
たとえ迷子になっても、第二部は「Barrabam!(バラバ!)」のときか「Eli, Eli, lama asabthani!(エリ、エリ、ラマ アザプタニ!)」のタイミングで、確実に軌道修正できるので大丈夫です。
イエスが話すときには弦の長い和音が常に後光のようにあるけれど、最後の「Eli, Eli, lama asabthani!」のときにはそれがない、ということも覚えておくと尚よし。
これでもう怖くない、マタイ受難曲

※鈴木雅明《マタイ受難曲》講演会レポート

マタイ受難曲について鈴木雅明が語る
亡くなった友人が、鈴木雅明さんのファンでした。確か2016年のヤンソンスさんの川崎公演のときだったかな、帰りにロビーで見かけたって喜んでた。今ならもっと彼女と色んな話ができたのにな…とそんなことも思いながら、今日聴いていました。

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