前回の更新から1か月近くも経ってしまっていました。
久しぶりに映画館で映画を見に行ったのでアップしたいと思います。
ナチスが題材であること、ヘレンミレンが主演であることで興味があり見に行きました。
ナチスに奪われた一族所有の絵画クリムト作の「黄金のアデーレ」を戦後所有してきたオーストリア政府から取り戻そうとするマリアアルトマン(ミレン)のお話。知り合いの息子で弁護士のランディシェーンベルクライアンレイノルズにこの絵を取り戻せるか調査を依頼した時ランディはまったく興味を示さなかったが、この絵が1億ドルの価値があると分かり弁護を引き受けることに。
2人でオーストリアに渡り政府に訴えを起こしたが、現地の記者のフベルトゥスチェルニンダニエルブリュールが言っていたようにこの絵は“オーストリアのモナリザ”であり、マリアの叔母でありこの絵のモデルのアデーレが遺言に自分と夫の死後はこの絵を美術館に寄贈すると書いていたとしてナチスが強奪したことを認めようとしない。
最初はお金のためだと考えていたランディもオーストリアで自分の曽祖父母がトレブリンカ収容所で殺された事実を再認識したことにより、自分たちの民族が踏みにじられた歴史を正そうと必死になる。
ヘレンミレンはいつも通りとても素晴らしかったし、ランディを演じるライアンレイノルズがちょっとダサくてどんくさい感じの弁護士を演じていて、あ、この人ちゃんと演技できるんやなぁと初めて知りました。いままではただちょっとキュートな子と思ってたんですけどねー。なかなかいい味を出していました。そして、この2人のコンビがなかなか良くって。最初は全然かみ合わない感じだったのが、徐々にチームとして固まっていく感じが良かったです。
彼らがどのように絵を奪還するかということだけではなくて、マリアの過去が丁寧に描かれていてかなり辛かったです。若いマリアたち夫婦が生き残るために年老いた両親を置いてアメリカに亡命しなければならなかったシーンが一番辛かった。両親も娘夫婦と別れるのはどんなに辛くても彼女たちの幸せを考えて行かせてくれた気持ちがとても心が痛みました。愛していた祖国で酷い目に遭い、現在はアメリカに住む彼女がどうして祖国オーストリアに帰るのがイヤだったのか、痛いほど分かります。そして、どうして彼女があそこまでしてこの絵を取り戻したかったのかも。
裁判シーンは少し物足りない感はあったかな。法廷劇というよりも、戦争・トラウマ・一族の誇り・過去との対峙を描いた作品だと思います。
ランディの妻を演じていたケイティホームズが随分やつれた感じで登場していたけど、赤ちゃんを抱える普通の主婦の役だし、あれくらいが自然でワタクシは好きでした。ランディはしばらく家族そっちのけでこの裁判に没頭していたようだけど、奥さんがランディやマリアの心の傷を理解してくれる人で良かったな。
シリアスなドラマの中にもユーモアも散りばめられていて、非常にうまい作りの作品だったと思います。
マリアが絵を取り返したあと、絵を買ってくれるロナルドローダーがさらっと登場して「あなたのお母さんに口紅を使ってるわ」なんてマリアが言うもんだから、「あ~~~~エスティローダーかー!」と映画館で思わず膝を打ちました。こういうセリフの使い方なんかもなかなかユーモアにあふれた脚本でした。
フランスの田舎町で酪農を営むベリエ一家。長女で高校生のポーラルアンヌエメラ以外は父ロドルフフランソワダミアン、母ジジカリンヴィアール、弟の3人全員が聾唖者。牛のエサの業者とのやりとりや、青空市でのお客とのコミュニケーション、家族の医者通いなどにポーラは欠かせない存在だ。
思春期ならではの一般的な悩みはあるものの、ポーラは特にそんな生活に不満を覚えていたわけではなく家族を支える存在として毎日を過ごしていた。そんなある日、学校で憧れている男子生徒がコーラスのクラスを取ることを知ったポーラは同じくコーラスのクラスを取ることにする。
そこでポーラはコーラスの指導のトマソン先生エリックエルモスニーノに才能を見出され、パリの音楽学校のオーディションを受けるよう薦められる。そのオーディションのためにトマソン先生の自宅にレッスンに通うことになるポーラだが、家族全員が聾唖者である彼女は家族に歌の道に進みたいということを打ち明けられずにいた。
こそこそとトマソン先生のレッスンに通っていたポーラだったが、毎日彼氏のところに行っているとお母さんに言われ、ついに歌のレッスンに行っていることを家族に打ち明ける。両親は歌のレッスンというのもさることながら、自分たちの家を離れてパリの学校に行きたいというポーラに大きなショックを受ける。
このベリエ一家のお母さんがなんともユニークな人で、ハリウッドの映画だったらもっと娘思いでしっかり者のお母さんというのが描かれそうだけど、ここのお母さんは結構わがままで騒がしくてあけっぴろげ過ぎて、ちょっと困った人って感じ。こういうお母さん像をストレートに描くところがなんだか妙にヨーロッパっぽい。
案の定ポーラがパリの学校に行きたいと言ったときはお父さんよりもお母さんのほうが取り乱す。ここで必要とされているのに聾唖の家族を置いて行くなんてわがままだと娘を責める。まぁそれは娘がパリに行ってしまうという寂しさの裏返しだとは思うのだけど。
お母さんが取り乱しながら、ポーラが生まれたときの話をします。ポーラが生まれたとき、耳が聞こえると知って私は大泣きした、と。聾唖の夫婦にとって障害が遺伝せずに娘が耳が聞こえるということが嬉しくて大泣きしたのかと思いきや、娘が自分たちと違うこと、自分たちの仲間でないことで泣いたというのだから、少し驚いた。え、なんて自分勝手なの。と正直最初は思いました。でも後からゆっくり考えてみると、そんなものなのかもしれないなぁと思い直しました。ずっと聾唖者として生きていた彼女たちにとって、耳の聞こえる人の気持ちは分からないものなのでしょう。そんな異質なものに娘がなってしまったと感じて悲しい気持ちになるのは仕方のないことだったのかもしれません。
ポーラの歌への情熱を理解できずにいる家族でしたが、ポーラの学校での発表会に行ったとき、ポーラの歌声は聞こえなくとも、ポーラの歌を聞いて涙を流している観客や一緒に口ずさんでいる観客の幸せそうな顔を見て、彼らの中の何かが変わりました。その夜お父さんはポーラの喉元に手を当ててポーラの歌を“聴いて”くれました。
家族のためにパリの学校をあきらめかけたポーラでしたが、今度は家族の後押しを受けてオーディションに向かいます。審査員と家族とトマソン先生の前で歌を披露するポーラ。この時途中からポーラは家族にも分かるように手話で歌詞を表現します。ポーラ役のルアンヌエメラの歌唱力が素晴らしいことももちろんありますが、この手話に涙があふれました。これまで、チャリティ的な番組などで手話付の歌というのは見たことがありましたが、このポーラの手話付の歌がこれまでテレビで見た取ってつけたようなものではなく真に家族への愛に溢れたものでとても感動しました。映画だって作り物なのに、取ってつけたようなものとは違うと表現するのはおかしいことかもしれませんが、それだけ物語に感情移入できていたのだと思います。
ポーラはトマソン先生の指導を受けてどんどん才能を開花していく役なので、思い切り上手に歌うシーンばかりでなく、背中を丸めて小さい声で歌うシーンなどもあり、あれだけの歌唱力があるルアンヌがそんなにうまくなく歌うというのはかえって難しかっただろうなと思います。トマソン先生の指導でどんどん歌が良くなっていくという演技ができるのはすごいと感じました。これから女優になるのか歌手になるのか分かりませんが将来が楽しみな女の子です。
監督がアランリックマンで主演がケイトウィンスレットとなれば、やはり見に行きたいなぁと思って行ってきました。
ルイ14世(リックマン)がヴェルサイユ宮殿を作ることになり、国王の庭園建築家のアンドレルノートルマティアススーナールツは庭師を雇うことにする。数人の面接を経てサビーヌドバラ(ウィンスレット)が選ばれる。ルノートルは自分にはない感覚を持つ彼女が宮殿に新風を吹かせることに期待していた。
サビーヌには夫と子供を亡くした過去があり、ルノートルは不幸な結婚をしていたが、2人は次第に魅かれていく。
ワタクシはケイトウィンスレットのファンなので、久しぶりに彼女の主演作を見ることができて嬉しかったです。アランリックマンとも旧知の仲だし、彼女にピッタリな役を当ててもらえたなという感じの役でした。
イギリス人がどうしてわざわざヴェルサイユを舞台に映画を作ったのかな。バッキンガムではドラマとして物足りなかったのか。せっかくヴェルサイユを舞台にするんだったら、もっとサビーヌたちが手掛けた庭が美しく完成していく様子をうまく見せてほしかったです。ドロドロの建築中から最後にいきなり完成!ってなってしまってちょっとその辺りの感動が足りなかった気がします。
サビーヌが過去と対峙してルノートルとの新しい恋に向かっていくという部分もまぁありきたりと言えばありきたりかな。平民のサビーヌが王様や貴族たちにウィットの効いた思いやりのある言葉で接して、彼らに気付きを与えるというところはなかなかに良かったと思います。ルイ14世が「太陽王」と呼ばれたことにちなんだセリフもありましたね。
子どもを亡くしているサビーヌが同じように子どもを亡くした経験のある宮廷の女性たちとその過去を話すシーンは現代で言うところのグループセラピーみたいな感じでした。あの時代、何が原因であれ子どもを亡くすというのはさほど珍しいことではなかったのかもしれませんが、やはりだからと言って傷が浅く済むわけではなかったでしょう。セラピーなどという概念がなかった時代にも彼女たちにしか分からない痛みを分かち合うということは自然になされていたかもしれません。サビーナというキャラクターの描写にアランリックマンの女性への敬意と優しいまなざしを感じることができました。
舞台がベルサイユで実在の王様とかが登場するから本当の話かと思ったらサビーヌは架空の人物だったんですね。残念。これが本当の話だったらすごく良かったのになぁ。
もうかなり前の劇場公開を見に行った分をアップできずにいました。
グザヴィエドランと言えば映画ファンなら聞いたことがある名前だと思います。カナダの若き鬼才と言われる映画監督。そんな彼が熱望した役ということで興味あって見に行きました。とか言いながら、実は彼が監督した作品は未見なのですが。
とある精神科病院で男性医師ジェームズローレンスコルムフィオールが失踪する。精神科医のグリーンブルースグリーンウッドはローレンス医師が担当する患者で彼を最後に見たというマイケルアリーン(ドラン)に話を聞いてローレンス医師を探そうとする。看護師長でグリーンの元妻のスーザンピーターソンキャサリンキーナーはグリーンがマイケルと2人きりで話すことを異常に心配している。
このマイケルって子の母親はオペラ歌手で巡業で世界を回っている間のアバンチュールでできた子がマイケルで、自分の仕事に夢中でマイケルのことなんてどうでもよくって、母親に愛されずに育ったマイケルは母親がオペラの音を外し自殺したときに母親の遺体の横で昔母親が自分に歌ってくれたエレファントソングをずっと歌っていたということで精神病院に入れられている。
マイケルはグリーンに話をする代わりに自分のカルテは読まないことという条件を出し、先入観のない状態で自分と話してほしいと告げる。しかし、マイケルはグリーンが何を聞いても話をはぐらかしてばかりでローレンス医師の居場所の話はせず、自分の両親の話ばかりしてくる。
グザヴィエドランの演技はうまいと感じました。ただ、マイケルが結局のところ何が言いたいのかさっぱり分からず、解説を見ると彼の会話は伏線とか比喩に満ちているということらしいのですが、アホなワタクシには全然分かりませんでした。
何十年も精神科の医師をやっているはずのグリーンがこんな青二才に死んだ娘のことや元妻のことをチクッと言われたくらいで明らかに動揺しているのも、ちょっとどうかと思うし、彼の現在の妻キャリーアンモスのほうがマイケルよりよっぽど情緒不安定な感じで、彼女の存在は一体何なのか気になりましたが最後までよく分からず。
母親の自殺現場に居合わせたマイケルは助けようと思えばまだ助けられたのに、そうしなかったということで精神病院に入っているみたいですが、彼のどこが精神を病んでいるのかよく分かりませんでした。母親が死んでいくのを歌を歌いながら見ていたのですから正常ではないのでしょうけど。
そして、彼が一度だけ会ったハンターである父親と象狩りに行った話もなんだか唐突過ぎて、彼の妄想なんだか現実だったのかよく分からず。
結局なんだか分からないことだらけでしたが、スーザン看護師長はマイケルのことを本当の子どものように心から心配している様子が伝わってきました。キャサリンキーナーは都会のキレる女も演じられるし、このような母性溢れる役も演じられる役者さんですね。ハスキーヴォイスが素敵です。
最後に答えを教える代わりにチョコレートを頂戴とマイケルが言ったときには、はぁ?10歳の子どもじゃあるまいし。それとも精神的にはそれくらいの年齢ってことか?と思ったけど、そういうオチだったのね。それは納得。だからグリーン医師にカルテを読むなと言っていたのですね。スーザン看護師長が心配していた通りになってしまって、それは悲しかったです。
戯曲の映画化ということで楽しみにしていたのですが、ちょっとよく分からなかったのはシャルルビナメ監督が悪いのかワタクシが悪いのか…
ブログを書く時間が取れず1か月以上ご無沙汰してしまいました。書きたい作品はたまっているので時間を見つけてアップしていきます。少し間隔が開いてしまうかもしませんが続けていきますのでよろしくお願いいたします。
字幕版を見てきました。
今度のピクサーの作品は頭の中の5つの感情が主役。いままで色々な奇想天外なシチュエーションを考え出してきたピクサーが挑むのは今度は頭の中か~、どんな作品になるのかなぁとずっと楽しみにしていました。
しかしその5つが「喜び」「悲しみ」「怒り」「嫌悪」「びびり」だと知った時、え?ポジティヴな感情は喜びだけで、あとは全部ネガティヴな感情なんやー、となんだか腑に落ちない気持ちでいました。しかし、フタを開けてみて納得。ライリーという現在11歳の女の子の頭の中にいるこの5人が非常にうまく機能していることが分かりました。確かにポジティヴな感情はヨロコビエイミーポーラーだけなのですが、ビビリビルヘイダーは危ないことからライリーを守る役目だし、ムカムカミンディカリングも嫌い物を食べさせないことで毒物からライリーを守ったり、イカリルイスブラックも不公平なことに立ち向かう感情として非常に大切な役割を果たしていたりする。ただ、カナシミフィリススミスの役割だけは仲間内でもいまいち分からず、触れる物触れる者ブルーに変えてしまうカナシミのことを持て余している感があった。
それでも5人の望むことはただひとつ。ライリーの幸せ。5人は力を合わせて日々ライリーが幸せでいられるように司令部で頑張っている。5人はライリーの感情を左右するとともに「記憶」や「思い出」といったものの管理をしており、色々な記憶を整理する中で特に重要な記憶は「コアメモリー」というボックスに入り、それが少しずつライリーという人間の人格を形成していく。そしてそのコアメモリーが貯まるとさらに人格の島が出来上がっていく。このコアメモリーから人格の島ができて、という設定が非常にうまくできているなぁと思いました。
ライリー11歳のある日、家族は父親カイルマクラクランの仕事の関係でミネソタからサンフランシスコに引っ越すことになり、これがきっかけで11歳のライリーのコアメモリーから作られた人格の島々が初めて大きく揺れ始めることになる。引っ越し先の学校で初めての挨拶のとき、カナシミがうっかり感情のボタンを押してしまいライリーは挨拶途中で泣き出してしまう。このコアメモリーがライリーの人格形成に影響を与えることを恐れたヨロコビはこのメモリーが人格の島に行くのを止めようとして事故が起こり、ヨロコビとカナシミが司令部から長期記憶の倉庫へと飛ばされてしまう。
コアメモリーだの、人格の島だの、長期記憶の倉庫だのってちょっとこのアニメの独特な世界観過ぎて読んでいるだけでは見ていない人には分かりにくいかもしれませんね。
とにかく司令部からヨロコビとカナシミがいなくなったことでライリーの頭の中にはビビリ、イカリ、ムカムカという感情しかなくなってしまい、家族や学校の友達とも全然うまくいかなくなってしまう。残されたビビリ、イカリ、ムカムカも懸命にライリーを幸せにしようとするがやっぱりヨロコビがいないとどうにもうまくいかない。
ヨロコビが落ち込んでいるカナシミを連れてなんとか懸命に司令部に戻ろうとするこちら側の冒険とライリーの現実とが交互に描かれることになる。ヨロコビたちはライリーの長期記憶の倉庫にいた昔の空想のお友達ビンボンに出会い、協力してもらうことに。このビンボンがまた可愛かったなぁ。小さい頃はあんなにライリーと仲良しだったのに、大きくなったライリーの記憶の片隅でひっそりと生きていたビンボン。もう一度ライリーと一緒に遊びたい。その気持ちがとても切なかった。
ビンボンは頓珍漢なことばかりで助けになっているのやらなんやらよく分からないのですが、ライリーを思う気持ちだけはヨロコビやカナシミと同じ。最後に自分を犠牲にしてヨロコビを助けてくれた時は涙が出ました。
ヨロコビはこの冒険を通して、いままで存在意義が分からなかったカナシミの重要な役割に気付きます。カナシミがなければヨロコビもない。カナシミを受け入れ人の優しさを受け入れることがライリーにとってどれほど重要なことなのかを知ることになるのです。
5つの感情とビンボンがライリーを思う気持ちがなんだか切なくて可愛らしくてとても愛おしかったです。この冒険が終わって司令部はリニューアルし、ライリーはいよいよ本格的に思春期に突入していくようでした。物語の始めのほうでカナシミがよく分からないまま台頭してきていたのはライリーが思春期の入り口に立ったことを示していたのかもしれません。
ピクサーの作品だけに笑えるシーンも多く、ライリーだけでなく他の人や犬猫などの頭の中の5つの感情たちも面白かったし、なぜか口ずさんでしまう古いCMのメロディが記憶係のいたずらだったりするのもウケました。全体的に非常にうまくできた設定だなと思いました。
エンドクレジットの途中に"This film is dedivated to our kids. Please don't grow up. Ever."というメッセージが出るのですが、字幕になっていなかったのが非常に残念でした。これを見つけたときとてもジーンときました。どうしてちゃんと字幕にしなかったんだろう?見落とし?子供たちへの温かいまなざしを感じるメッセージでした。
オマケ1映画が始まる前にこの作品の日本語吹替え版の主題歌であるドリカムの曲のプロモ(?)が流れるのですが、あれはいらなかったなぁ。ドリカムの曲を聞きたい人は吹替え版を見に行ってると思うんですよね。
オマケ2いつもディズニーやピクサーの映画の前にある短編を楽しみにしているのですが、今回の「火山」はちょっといまいちだったな。女の子の火山がこけしみたいでちょっと怖かったです。
「チャイルド44」と同じ日に見ました。偶然主演がどちらもトムハーディ。こちらは2013年の作品なので「マッドマックス」でトムハーディが日本でも広く認識されたと踏んでの公開なのかな。
ワタクシは「ダークナイトライジング」でトムハーディを認識したので、それ以前の出演作は見ているものもありますが今から振り返って、あ、出てたんだって感じです。「ダークナイトライジング」以降の4本は全部見ていますが、この作品のトムハーディには少しびっくりしました。いままでワタクシが知っているトムハーディってほとんどセリフがないか、あっても"mmmmm...."とかそういうのがやたらと多くて。ところがこの作品は一人芝居。一人芝居で黙っているわけにいきませんよね。というわけでトムハーディ一人で出ずっぱりのしゃべりっぱなしです。あ、この人こんな普通の役もできるんやって感じ。しかもそのしゃべりっぱなしが彼本来のイギリス英語のまんまだったので、これも彼の作品では珍しかったです。
夜仕事を終えて一人の建築作業員アイヴァンロック(ハーディ)が車に乗り込む。BMWの高級車。ん?一介の建築作業員にしてはえらいええ車乗ってんなぁ。と思ったら、しばらくすると彼がただの建築作業員ではなく大手建築会社の現場監督だということが分かる。しかも、核施設を除けばヨーロッパ最大規模の工事になるであろう今回の建物の監督だから、相当優秀な現場監督なのだろう。
アイヴァンは一本の電話を受け、家に向かう道とは反対方向に車を走らせる。仕事仲間には明日仕事に行けなくなったことを伝え、家で待っている子供たちには今晩は一緒にサッカーの試合を見られなくなったと伝える。彼の向かう先は病院。身内に何かあったのか?86分間ずーーーーっと運転しながら電話で話しているアイヴァンだけが映し出され、彼の半生が見えてくる。
電話の相手は次々に変わる。一度切ってはまた別の相手からかかってくる。こちらからまた別の相手にかける。職場の部下ドナルアンドリュースコット、上司ガレスベンダニエルズ、子供たち(エディトムホランドとショーンビルミルナー)、妻カトリーナルースウィルソン、そして彼が車を飛ばす先にいる女性。この女性がアイヴァンの人生を180度変えてしまった人。数か月前出張先で一度だけ浮気した相手が今晩彼の子どもを産もうとしている。彼には浮気相手への愛などない。たった一度の過ちだった。それでもその女性ベッサンオリヴィアコールマンは子供を産むと言ったのでせめて生まれてくる子には誠実でいようと出産に立ち会うことにした。
そのせいで明日は仕事に行けない。彼の住む町からベッサンの住むロンドンは遠い。夜中に車を飛ばして出産に立ち会い明日仕事に出るのは無理だ。明日はその核施設を除けばヨーロッパ最大規模の建物の基礎となるコンクリートを入れる大事な大事な日だ。アイヴァン自身もこの日のために様々な準備をしてきた。だが、アイヴァンは自分の信念に基づいて生まれてくる赤ちゃんを最優先にすることを選んだ。自分の父親のようにならないために。部下ドナルが自分の代わりを果たせるように事細かに指示を出すアイヴァン。上司からはクビを言い渡されたがそれでも明日の作業だけはきちんと成功させると意気込んでいる。
一緒にサッカーの試合をテレビ観戦できなくなった子どもたちに謝りつつ、妻カトリーナに今回の事態を電話で説明するアイヴァン。いままで何か月も言いだすチャンスはあったが、こんなギリギリまで言いだせずにいた。たった一度の過ち。妻は許してくれると思っているアイヴァン。しかし、ゼロと1の間には大きな隔たりがあるとカトリーナは言う。
電話と電話の合間に彼が一人で話す空想の相手は父親。自分はそうはなりたくないと思っていた不誠実な父と同じようになってしまっているのか。いや、違う。自分は3人の子すべてに誠実に生きていくつもりだ。お前とは違う。お前とは違う。呪文のように自分に言い聞かせるアイヴァン。
ってーーーーー無理。もう妻を裏切った時点で子供も裏切ってるんだし、愛人の子供に誠実であろうとすれば妻の子を裏切ることになるし、逆もまたしかり。都合よく八方まあるくなんて無理よ。まぁそれでもできる限り誠実でいようとするアイヴァンは少し憐れにも見えましたが。
結局物語自体は大したオチはないんだけど、最初仕事を終えて車に乗り込んだときのアイヴァンは一般的に男性が望むようなものをすべて手にしていたのに、最後にはすべて失くしていたということかな。とはいえ、ここでアイヴァンの人生が終わったわけではなくここからまたアイヴァンの人生の再構築が始まるんだなと感じました。
終わったときは、はぁ?なんじゃこりゃ。ソリッドものならソリッドものらしく、もうちょっと大どんでん返しとかびっくりするようなオチとかにしてよ。と思ったのですが、後から考えてみるとトムハーディ以外の役者さんはフラッシュバックや写真すら何も登場していないのに、全員の見た目のイメージとかアイヴァンに言われたことへ反応するときの表情とかそういうのまでちゃんと情景としてこちらの頭に浮かんでいたっていうのはすごいなぁと思い直しました。それってやっぱり演出のすごさなのかな、と。そういう意味では結構やるやん。ってな作品だったのかもしれません。ただお話そのものは特にどうってことはないのでトムハーディが嫌いな人にはきつい作品だと思います。
若年性アルツハイマーと診断された言語学者のアリスジュリアンムーアの葛藤を描く作品。ジュリアンムーアがついにオスカーを獲りましたね。「ショートカッツ」で認識してからもう20年以上が経つんだなぁ。ずっと彼女の演技と赤毛とそばかすが好きでファンだったのでアカデミー賞受賞はとても嬉しかったです。
ニューヨーク。アリスの50歳の誕生日。医学博士の夫ジョンアレックボールドウィン、弁護士の長女アナケイトボスワースとその夫チャーリーシェーンマクレー、医者の長男トムハンターパリッシュがレストランに集まりお祝いしてくれた。役者を目指してロサンゼルスに住んでいるリディアクリステンスチュワートは来られなかった。長女、長男が順調に弁護士や医者になったというのに次女は役者なんかを目指していてアリスの悩みの種だ。この日チャーリーがアナとリディアのことを「君たち姉妹は仲が悪いね」と言ったときアリスは事故で亡くなった自分の姉のことを言われたと思い「姉とは仲良かったわよ」と答える。思えばあの時から少し異常が出ていたのか。
言語学の講義の途中で言葉が出てこなかったアリス。その場はなんとかごまかしたが帰りのタクシーの中で思い出す。「“語彙”だったわ」ただの物忘れかとも思ったが、今度は何年も暮らしている大学のキャンパスの中でランニングをしていたときに道に迷ってしまう。これはさすがに何かおかしいと感じたアリスは病院へ行き、若年性アルツハイマーと診断される。しかも家族性であると。つまり子どもたちに遺伝している可能性が50%。もし遺伝していたら発病の可能性は100%だと言う。
そこでアリスとジョンは子どもたちに話をすることにし、それぞれ遺伝子検査を受けるかどうかを選ばせる。次女のリディアは検査を拒否、長男は陰性だったが、長女のアナは陽性だった。人工授精を考えていたアナは受精卵の遺伝子検査をし、授かった双子がその遺伝子を受け継いでいないことを確かめてから出産することに決めた。
アリスはインテリジェントな人で、そんな人から自分の知識や記憶がどんどん抜け落ちていくというのは見ていて非常に辛い。賢い人じゃなくてもそうだけど、長女ともオンラインで単語ゲームをしたりする大学の教授だと余計に辛い気がした。アリス自身も「ガンなら良かった。それなら恥ずかしい思いなどせず戦えるわ」と言っていた。そんなアリスだからこそ、自分の行く先をきちんと見据えて、毎日携帯電話にメモしてある「長女の名前は?」とか「うちの番地は?」とかいう簡単な質問に答え、ひとつでも答えられなくなったらパソコンのとあるファイルを開けることと最後に書いておいた。
そのとあるファイルをアリスが開けるときのシークエンスがとても切なかった。その時のアリスはもうとっくに質問の答えなど分からなくなっていたし、それどころかその質問の存在も携帯電話の存在も分からなくなっていた。次女とスカイプで話していてその後たまたまそのファイルを開いたのだ。そこにはまだ診断が下ったばかりの自分の姿が写っていた。その中の自分は「これを見たら寝室のランプの置いてある引き出しを開けてその中に入っている薬を全部飲んでベッドに横たわるのよ」と言っていた。アリスは寝室に行く。引き出しを開ける。でもそこで何を探したらいいのか忘れてしまう。また階下に行き動画を見てまた寝室に上がるというのを何度か繰り返してからノートパソコンを持って行けばいいことに気付きパソコンを持ったまま階段を上がる。引き出しを開ける。薬を見つける。薬を飲むために洗面所へ。水を汲んだところでヘルパーさんが玄関でアリスを呼んだ。
診断が下ったばかりの時のアリスには自分がどのような状態になるのかはっきり予想できていなかった。自分が設定した簡単な質問に答えられなくなるだろうということは予想していたものの、そんな質問が存在していることすら分からなくなって、質問に答えられなかったときどうするかの指示を見るということすらないというところまでは分かっていなかった。たまたまアリスが予想していたのとは違う展開でファイルを開くことはできたものの、最初のアリスが望んだ結果は得られなかった。
アリスの自殺が遂げられなかったというシーンではほっとした人が多かったのかもしれない。でもワタクシは少し違った。最初にアリスが望んだことを叶えてあげたかったという気もするのだ。もうあの段階でアリス自身が何を望んでいるのかなんて分からなくなる前にアリスがした決断を全うしてあげたかった気がする。
リディアの芝居を見に行ってもそれが娘とは分からず、双子を出産したアナに会いに行ってアナがどうして疲労困憊しているのか理解できず、自分がいつも頼んでいたアイスクリームのフレーバーも忘れ夫の注文を繰り返すだけになってしまったアリスを見ているのが非常に切なかった。
ジュリアンムーアが徐々に病に侵されていくアリスを非常にリアルに演じていた。ただお話自体は少し単調でもう少しパニックになる家族の姿とかも描いても良かったかなという気もする。アナなんてアルツハイマーの遺伝子を持っていて発症率100%って言われているのに冷静過ぎる気がした。
最終的にリディアがアリスの面倒を見ることになり、戯曲「エンジェルスインアメリカ」を読んで聞かせたあと、「何の話か分かった?」と聞くリディアに「愛」とだけぎこちなく答えるアリスの内面はどのようになっていたのか。アリスの中に「愛」という記憶だけは残っていたと思いたい。
予告編を見て良さそうだと思ったので見に行きました。1948年のアメリカ映画「山河遥かなり」のリメイクということは最後のクレジットロールまで知りませんでした。原題は「The Search」で1948年版と同じです。
「山河遥かなり」は1948年の作品ということで第二次世界大戦後の世界が舞台だったようなのですが、それをチェチェンに移し「アーティスト」のミシェルアザナヴィシウス監督がリメイクしました。
1999年のチェチェン。ロシアが侵攻してきて両親が殺されるのを隠れて見ていた9歳の少年ハジアブドゥルカリフマムツィエフは姉も両親と一緒に死んでしまったと思い、まだ赤ん坊の弟を連れて自宅から逃げる。逃げる最中に赤ん坊は育てられないと思ったハジは民家の玄関に弟を捨て、そこの家の人が拾ってくれたのを見届けてから自分は国境を目指した。途中車で逃げる一行に助けられ車に乗せてもらって難民キャンプに行くハジだが、両親を亡くしたショックからか、誰が話しかけても言葉が出なくなってしまっていた。
赤十字に保護されたハジだが、銃を持った警備の人を見て怖くなりそこから逃げ出してしまう。町をさまよっていたハジはフランスから人権の調査に来ていたEUの職員キャロルベレニスベジョに出会う。初めは食べ物を渡し去ろうとしたキャロルだったが、ハジのことが気になり結局アパートに連れ帰る。
一方、実は生き残っていたハジの姉ライッサズフラドゥイシュビリは村で捨てられた赤ん坊がいるというウワサから一番下の弟と再会し、赤ん坊を連れてハジを探しに赤十字まで来ていた。赤十字のヘレンアネットベニングはハジと会っていたが、彼が逃げ出してしまってからどこにいるのか分からずにいた。
声を失ったハジと仕方なくハジの面倒を見つつ徐々に愛着が湧いてくるキャロルとの交流は心温まるものがありますが、やはりチェチェンの過酷な状況に胸が痛みました。キャロルもEUの人権委員会でスピーチなどしつつも世界がチェチェンの状況を無視していて苛立ちが募ります。そんなキャロルに対して赤十字のヘレンは人権委員会なんて口先だけで実際の行動をしているのは自分たちだという苛立ちがあり、キャロルに当たってしまうシーンがあります。それぞれがそれぞれの立場で状況を良くしようとしているのだけど、世界に置いて行かれ悪くなるばかりの状態でやるせない精神状態にあることがとても辛いです。
ハジを演じるアブドゥル君がすごく良かったなぁ。大きな瞳で少し困ったような眉で言葉を発しなくてもすべてを表現してみせる演技がとてもナチュラルでした。そして、おそらくお父さんに教えてもらったのであろう魂のダンス。詳しくは分からないけどきっと民族の伝統のダンスなんでしょう。セリフなどなくとも彼の悲しみや情熱がものすごく伝わってくる素晴らしいシーンでした。ハジが捨ててきた弟のことを語るシーンもワタクシはとても好きでした。僕は小さ過ぎて赤ん坊の弟を育てられないから、よその人任せてきた。弟はそれを許してくれると思うとハジは言うんです。陳腐な後悔の念を語られるよりもこの状況で最善のことをしたと分かっているハジがとても愛おしかった。一度話し出すと堰を切ったように話し始めたハジ。語っても語っても語り尽くせない気持ちがあったのでしょう。
終盤お姉ちゃんと再会できて無邪気に喜ぶハジを見て嬉しいんだけど、少し寂しいという表情をしていたベレニスベジョの演技も印象的でした。自分が養子にしようという決意までした子が生き残った肉親に会えてそちらで生きていくことを喜んであげないといけないんだけど、そう単純な気持ちではいられないというキャロルの気持ちがとても伝わってきました。
ハジとキャロルの交流やハジがお姉さんに無事会えるのかというスリルとともに、敵側のロシア兵の訓練の様子も描かれていきます。未成年なのにタバコを吸ったとか軽微の罪で刑務所行きを免れるために兵役につかされる少年コーリャマキシムエメリヤノフ。訓練では理不尽な暴力や先輩からのいじめに耐え向き、どこにでもいるちょっと生意気な少年が殺人マシーンに仕立て上げられていく様子が描かれていくのですが、こちらの話は一体どこへ向かっているのだろうと思っていると、作品の冒頭にあったハジの両親が殺される様子を楽しそうに撮影していた兵士が実はこのコーリャだったということが最後に分かり身の毛がよだつのです。不謹慎な言い方だと思いますが、映画的には非常にうまい作りです。
こういうふうに作ることによって侵攻される側だけではなく侵攻する側にとっても悲劇的な出来事である戦争を引き起こす国家を批判しているのでしょう。
監督がフランス人だからということもあるのでしょうが、世界市場を考えてやたらと不自然に英語を話す映画が多い中、キャロルが独り言のように話せないハジに話しかける時はちゃんとフランス語を使っていたり、チェチェン人なのに英語が話せるハジのお姉ちゃんにヘレンが「どうしてそんなに英語がうまいの?」と聞いたりするところがとても自然に感じました。
ヘヴィですが、たくさんの人が見るべき作品だと思います。
劇場で公開したときに見に行こうと思ったのですが、見逃していた作品です。レンタルで見ました。
ウォルトディズニートムハンクスの長年の夢だった「メアリーポピンズ」を映画化することについての話をするために原作者のパメラL.トラバースエマトンプソンがイギリスからロサンゼルスのディズニースタジオへやってきます。
このトラバース夫人という人はとても偏屈で移動の飛行機の中で赤ちゃんを抱いた女性に「長いフライトの間泣かせないでよね」とかはっきり面と向かって言ったり、迎えに来たドライバー・ラルフポールジアマッティが一所懸命会話をしようとしていても愛想のひとつも言おうともしません。
とにかくトラバース夫人はディズニー版の「メアリーポピンズ」のストーリ変更もミュージカル仕立ても何もかも気に入っていません。新作を書いていない彼女はエージェントにもうお金がないと言われ仕方なく交渉にやってきたのでした。
頑固で偏屈で人の気持ちを考えないトラバース夫人。でもそんな偏屈おばさんの過去が同時進行で紐解かれていき、彼女がどうしてこんな態度を取るのか、どうして「メアリーポピンズ」のストーリーを守ることに必死なのかというのが少しずつ分かっていく構成が良いです。
ワタクシ、実は映画「メアリーポピンズ」を見た記憶というのはないのですが、ストーリーや劇中に流れる曲は知っています。もし、まーーーったく「メアリーポピンズ」を知らない人がこの作品を見たら何のことか分からない部分もあると思います。
シリアスなお話の中でも結構笑えるシーンもたくさんありました。手始めにオープニングの1曲を聞かされて歌詞にある造語に「そんな言葉は存在しないわ」とトラバース夫人にピシャリと言われてしまった音楽担当のリチャードシャーマンジェイソンシュワルツマンとドンダグラディブラッドリーウィットフォードが「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」の楽譜をそっと隠すシーンなんかはとても笑えましたが、「メアリーポピンズ」を知らないと何のことか分からないと思います。
始めは頑なにダメ出しばかりしていたトラバース夫人が、自分の要求を受け入れながら作業を進めてくれるウォルト以下スタッフに対して、少しずつ心を開き始め「Let's Go Fly a Kite」を一緒に歌いだしたときには涙があふれてきました。それまでに彼女の過去を垣間見て、どうして彼女がそこまで頑なに物語に登場するミスターバンクスを酷い父親として描きたくなかったのかということが分かって来ていましたから、凧を直す優しいお父さんという設定になったミスターバンクスと一緒に「Let's Go Fly a Kite」を歌って踊る彼女にじーんときました。
始めは心を閉ざしていたドライバーのラルフに対しても、ラルフがとても娘思いのお父さんということが分かってからは「私が唯一好きなアメリカ人」と言っていました。ラルフの娘さんが障害を持っていることを知り、「アインシュタイン、ゴッホ、フリーダカーロ」という障害を持っていたけれど立派なことを成し遂げた有名人というリストを渡してあげるシーンも泣けたな。そこにウォルトディズニーも加えていたのはちょっと笑えてけど、それについては最後までウォルトには内緒だったのかな。
最初からアニメは絶対に使わせないと言っていたトラバース夫人でしたが、ウォルトがアニメと人間の合成でペンギンを登場させようとしていることを知り、怒ってイギリスに帰ってしまいました。この時、ウォルト自身がイギリスまで出向いて行ったっていうのは本当の話なのかな。ウォルトは「子供のころ毎日毎日新聞配達をさせられて時間内にできなければベルトで殴られていた。それを思い出さない日はない。でももうそんな自分を許してあげよう」とアルコール中毒の父コリンファレルとの辛い思い出を持つトラバース夫人に自分の経験を重ねて語りかけるシーンもとても感動しました。
ロサンゼルスでの完成披露会にウォルトがトラバース夫人を招待しなかったのは、マスコミの前で原作者に映画を酷評されることを恐れたためかな。「私は映画を守る」と言っていたしね。それがたとえ原作者からだったとしてもウォルトは映画を守る気だったんだろうね。それでもトラバース夫人は勝手に来ちゃったけど(笑)
映画を見て号泣するトラバース夫人に声をかけたウォルトに「酷いアニメーションに耐えられないだけよ」と意地を張るトラバース夫人が可愛らしかったですね。
「メアリーポピンズ」の製作秘話であり、原作者トラバース夫人の半生の秘話であり、ウォルトとの友情を描いた笑いながら泣ける感動のストーリーでした。上に書いたシーン以外にも結構泣けるシーンがあって実は後半泣き通しでした。原題は「Saving Mr. Banks」邦題は的外れな気がします。作品を見ればどうしてこんな原題なのかということがよく分かると思います。
以前から楽しみにしていた作品。たくさんの賞レースにかかっていました。
第二次世界大戦時、ドイツの解読不可能と言われた暗号エニグマを解く任務についた天才数学者アランチューリングベネディクトカンバーバッチのお話。
アランは数学の天才らしく言葉で人を理解することは苦手で、他人といわゆる普通の会話というものがうまくできないタイプ。彼が仲間たちから高慢に思われるのも自分が優秀だということを鼻にかけているのではなく、自分が優秀だという事実を事実として発言することの普通でなさというのを理解できないからだ。
チームには彼の他にチェスプレイヤーのヒューアレグザンダーマシューグード、学者(だったかな?何分野の人か忘れてしまった)のジョンケアンクロスアレンリーチ、クロスワードパズルのテストで合格したピーターヒルトンマシュービアードがいた。そしてもう一人、重要な人材が。同じくクロスワードパズルのテストに合格したが、男性ばかりの中で働くことを両親が許さず女性ばかりの別の部署に配属という形で実はアランを助けているジョーンクラークキーラナイトレーがいた。
ジョーンが現れるまではあからさまにアランのことを嫌っていたチームのメンバーだったが、アランがジョーンからの忠告を受け入れメンバーに好かれる努力をし始めてからはチーム内の人間関係もうまくいくようになっていった。ジョーンとアランの素敵な関係が全編を通してとてもうまく表現さえています。
アランが取り憑かれたようにエニグマを解くための機械を作る過程と、アランの過去の話、チーム内で築かれていく友情・信頼関係、そしてアランの現在の話を非常にうまく絡めて1本の映画にしてある。たくさんの賞レースにかかりながらほとんどがノミネートに終わっている中、脚色賞は色んなところで受賞しているのがとても納得の脚本だと思う。
暗号解読という難解で緊迫したお話の中にありながら、アランの世間ずれしていない性格が笑いを誘うシーンも多くあったのが意外だった。それが物語の邪魔をするということもなく演出としてとても成功している。
ついにエニグマ解読!というシーンはもちろん超感動のシーンであるんだけど、いまいちエニグマ解読の内容まではバカな頭がついていかなかった。まぁそんなこと詳しく分からなくても十分に楽しめたし、十分に感動できるシーンでした。そして、ついに解読したっていうのに、もうすぐドイツ軍が一般市民の乗った船を攻撃すると分かったというのに、それを軍に知らせて阻止させてはダメだというアラン。はぁぁぁぁ???なんでー???とまたしてもバカなワタクシには分からなかった。そうなんだよねー。エニグマを解読したからって簡単に敵の攻撃をばかばか止めちゃったらエニグマを解読したことがドイツにバレてすぐにまた改良されちゃうんだよね。だからこちらが解読したということは分からないように止める攻撃、止めない攻撃を決めなくちゃいけないなんて、ものすごくつらかっただろうな。でも結局はそのほうが終戦を2年早めたとのちには言われているということです。
アランの戦前の学生時代と戦中、戦後の逮捕が紐解かれていく中でアランのクリストファー(エニグマ解読機にアランがつけた名前)への愛着(というか執着と言うべきか)の理由が徐々に分かって行き、とても悲しい結末へと向かっていくことが分かってしまうところが非常に胸が痛い。救いと言えばまだ彼を逮捕したノック刑事ロリーキニアが彼の性的嗜好などどうでもよくて、本当の彼の秘密は何なのかということを知りたがってアランの話をきちんと聞いてくれたことかな。
任務が極秘だったことで彼の功績は後世になってやっと評価されたということなんだけど、それにしてもね、、、ここまで国、というか世界に貢献した人の人生がこんなにも悲しいものだったなんてね。不遇の天才といったところなのかもしれないけど、こんなの「不遇」だけでは済まされないよね。あの時代同性愛で罰せられた人たちがたくさんいて、彼のようにそのせいで命を落とした人もたくさんいた。所変わればいま現在でもそういう人たちがたくさんいることも忘れてはいけない。
カンバーバッチ、ナイトレー、グードと主要メンバーの演技も素晴らしい作品でした。見に行こうか迷っている方にはぜひオススメいたします。
トビーマグワイア版の「スパイダーマン」から10年しか経っていないのに、そしてそのシリーズが失敗したわけでもないのに、なぜわざわざリブート版を作ったのか全然分からないのですが、何か事情があったのかな。まぁ「バットマン」も「スーパーマン」もリブートされたし流行りなんですね。
今回はピーターパーカーをアンドリューガーフィールド、その彼女のメアリージェーン、じゃなくて今回はグウェンステイシーをエマストーンというどちらもアメリカでとっても旬な若手を持って来ました。「スパイダーマン」当時はトビーマグワイアもキルステンダンストも旬だったのかもしれません。
今回初回ということでピーターの生い立ちとかおじさんマーティンシーンが殺されるだとか、どうやってスパイダーマンになったかとか、語られてまぁだいたい知ってるよーってな感じで見ていました。おばさん役がサリーフィールドなのが良い感じ。
ピーターはカメラが得意でスポーツはそんなに得意じゃないようなオタクっぽい感じなんだけど、あっさりグウェンみたいな可愛い彼女をゲットする。グウェンは成績優秀で警察署長デニスリアリーの娘だから真面目ちゃんでピーターみたいなタイプが好きなのかな。
失踪後死んでしまった父キャンベルスコットの元共同研究者コナーズ博士リースエヴァンスの研究所で特殊な蜘蛛に刺されてスパイダーマンになったピーターだが、今回蜘蛛の糸は彼の作った装置から出ていた。これは原作の通りなんだそうで、以前のシリーズではピーターの手首から直接出ていたけど、それはあの映画のオリジナルな設定だそうだ。でもなぁ、原作がそうなんだから仕方ないけど、あの装置から蜘蛛の糸が出るならあれさえつければ誰だってスパイダーマンになれるよね。身体能力はそこまでないとしても少なくとも落ちていく人や車を助けたり、空中を駆け回ることはできるわけだ。それってなんだかなー。ピーター、あんなもの開発できるならスパイダーマンやってるよりあれの特許取ったほうが儲かるし、何かの役に立てることがいっぱいあるかも、なぁんて。
ピーターはスパイダーマンになって超浮かれて空中飛び回って嬉しそう。冴えない高校生がいきなりあんな能力を手に入れたんだから、浮かれて当然だと思う。おじさんを殺した犯人を突き止めるために夜の町を徘徊して悪人を次々に成敗していくところはなかなかに楽しかった。
コナーズ博士は左腕がなくて、それを再生させるためにトカゲのDNAと融合し、トカゲ男になってしまう。そして、これを全世界にばら撒いて弱者のいない世界にしようと考える。コナーズ博士良い人そうだったのにね。スパイダーマンの悪役はなんかもの悲しい人が多いな。
全体的にこちらバージョンのほうが明るくてワタクシは好きでした。トビーマグワイア版のピーターはうじうじうじうじしてメアリージェーンもはっきりしないし、イライラしてたんですよねー。作品自体が嫌いだったわけではないですが。
途中で助けた少年のお父さんがC・トーマスハウエルだったので、こんな一瞬の出番で終わるわけないよなぁと思っていたら最後に登場してスパイダーマンを助けてくれたので、やっぱりな、と思いました。
グウェンのお父さんがトカゲ男との戦いで死ぬ間際に、危険が及ぶからグウェンとは別れると約束させられて、一時はピーターもグウェンをあきらめようとしていたのでおいおいまたうじうじピーターの始まりかよーって心配していたら「守れない約束もある」なんて言ってくれちゃったもんだから嬉しくなりました。
これすでに「2」の公開もとっくに終わっていますね。近いうちに「2」も見てみようと思います。
地方公務員のジョンメイエディマーサンはロンドンの自分の担当する地区で身寄りのない方が亡くなるとその事後処理をする仕事をしていた。さっさと火葬を済ませ埋葬してハイ終わり、という仕事の仕方もできるが、彼は亡くなった人の身の回りの物を調査して家族や親せきがいないか、どの宗教を信仰していたか(葬儀の方式のため)などをきちんと調べ、調べ尽くしても最後まで身寄りが分からなかった、もしくは身寄りがいても葬儀をするほど親しくなかったなどが判明して初めて埋葬するというとても丁寧な仕事をしていた。彼は自分が埋葬した人々の写真をアルバムに丁寧に貼っており、その様子からも彼がいかに亡くなった方々に敬意を表しているかが分かる。
しかし、上層部は経費削減のため彼の仕事に不満で20年も務めてきた役所を簡単にクビにされてしまう。その直前に亡くなった男性の調査だけはさせてもらえることになり、少ない手がかりを持ってジョンは彼の人生を追って行った。
まぁぁぁぁ何とも地味ぃぃぃぃな作品です。ジョンメイの仕事ぶりや家に帰ってからの生活が描かれているのだけど、彼は独り暮らしで特に仕事の後に友人と飲み行くということもなく、食事もいつも決まったものを決まった時間に一人で食べて終わりだ。でも、ものすごく地味な雰囲気と展開のわりに退屈はしないというのが少し不思議な作品である。
ジョンメイは残された最後の仕事をやり遂げるため、様々な人に会いに行く。亡くなった男性の元妻、縁遠くなっていた娘ケリージョアンヌフロガット、元同僚、ホームレス仲間などなど。みんな長い間会っていなかった人が亡くなったと急に知らされてわざわざロンドンまで葬儀のために出かけるなんてしたくないと言う。いくら市が費用を負担してくれると言ったって仕事だって休まなくちゃいけないし遠いしな~といったところだろう。そりゃあそうだよね。
ジョンメイが会いに行く人々は葬儀に行くことはしないまでも、生前の男性について思い出を語り、服役していたこともあるし、決して立派な人間というわけではなかったらしいけど、それでもそれぞれがジョンメイのおかげでその男性について色々とまた考える機会を与えられてまた感慨深い思いもしているようだった。
ケリーとジョンがなんとなくいい感じになるという展開があって、えーーー?こんな歳の人と???と思ったけど、ジョンはまだ40代半ばの設定だった。(それでもケリーとは10歳くらいは離れているという設定だったと思うけど)ジョンって動きもゆっくりだしあまりにも地味ですごく歳取って見えていたので少しビックリしました。
激しくネタバレしてしまうけど、ケリーに次会うときの手土産を買ったジョンはバスにはねられて亡くなってしまう。途中からなぜだか分からないけど、この展開は予想していたので、やっぱりかーとは思ったのですが、この予想はあまり当たって欲しくはなかったかも。
身寄りのないジョンの葬儀。教会の祭司以外には誰も参列者はいない。亡くなる前に最後に担当した男性に自分用に買っていたお墓の場所を譲ってあげていたジョンは合同墓地に埋葬される。そのバックで行われているその男性の葬儀。ジョンが会いに行っていた彼の身寄りの人たちが全員参列してくれていた。そして、その葬儀をきっかけに参列者たちが知り合いになり、そこから始まる人の縁もありそうな雰囲気だった。ジョンの地道な努力の成果が現れた葬儀の一方で一人ぽっちのジョン。
そんなジョンのお墓の周辺にこれまでジョンが埋葬した人たちが次々に集まってくる。というファンタジックな映像が流れてきてちょっと驚いたのだけど、ジョンが最後にみんなに感謝されていたということが分かって良かったと思う。
もちろん、これまでそんなに楽しみもなかった(であろう)ジョンがケリーと出会ってさぁこれからって時に死んでしまうという展開は悲しかったけど、映画の展開としてはアリかなとは思えた。ジョンがやり遂げてきたことが彼は死んでしまいはしたけれど報われたようなラストで良かった。
オマケ不謹慎かもしれませんが、この作品に登場する後ろが全部ガラス張りになった霊柩車がカッコ良かったです。
シンデレラが浮気されて~って面白そうやん、と思って見に行きました。
「イントゥザウッズ」というミュージカルは有名らしいのですが、ワタクシは全然知らなかったので、ミュージカルとどう違うからイヤだとかそういう感想もないし、シンデレラが浮気されるくらいなんだから夢のようなファンタジーじゃないだろうってことも分かっていたし、ジョニーデップ目当てで行ったわけでもない。それでもなぁ、、、豪華キャストのディズニー映画のわりにはいまいちだった。
「シンデレラ」「赤ずきん」「ジャックと豆の木」「ラプンツェル」などのお話のパロディミュージカル。あらすじとしては魔女メリルストリープに呪いをかけられて子供ができないパン屋の主人ジェームズコーデンと妻エミリーブラントは魔女から赤い頭巾、黄色い髪、白い牛、黄金の靴を手に入れれば呪いを解いてやると言われそれらを手に入れるべく森へと向かう。夫妻がそれぞれの物語の主人公からひとつずつアイテムをゲットしていきつつ、それぞれの主人公たちの物語がパロディとなって語られる。
前半はまぁ面白いです。うまいことできてるなぁ、と思いました。でも後半になるにつれてお話が無茶苦茶になってきてなんだかな、って感じでした。それが元々のミュージカルの脚本がそうだからなのか、ロブマーシャル監督の映画化がいまいちなのかは分かりません。
ただワタクシとしては、最近ほうぼうで歌いまくっているとウワサを聞いていたアナケンドリック(シンデレラ)の歌声を初めて聞くことができたし、予想もしていなかったエミリーブラントの歌のうまさにビックリしてまたまたさらに好きになってしまったし、アホな王子のクリスパインにも満足だったし、そういう面では良かったです。キャストにはほとんど満足なんですが、赤ずきんちゃんを演じた子リラクロフォードが可愛げがなくて嫌いでした。歌はうまいんですけど、声がなんか耳障り。パンも盗みまくりで感じ悪い。あれがもっと可愛い子だったらもうちょっと評価上がったんだけどなー。こういうブラックなお話だからわざとちょいと鼻につく子役にしたのか。
エミリーブラントが好きなワタクシとしては、彼女が急にあっけなく死んでしまって以降は、つまらんなぁ~となってしまいました。死ぬシーンもなくジャックダニエルハットルストーンがセリフで「彼女は崖から落ちた」って言うだけですもんね。このジャックが怒らせた巨人の妻フランシスデラトゥーア(「ハリーポッター」シリーズでも大きな女性を演じていました)のことをみんなでやっつけよう!ってさー、元はと言えばジャックが悪いんじゃんよ。まぁおとぎ話の主人公たちが自分勝手な行動を取るっちゅうのがこの「イントゥザウッズ」なのかもしれませんが。魔女も唐突にどっか行っちゃうしね。
ディズニー的なファンタジックミュージカルを求めて行かれた方はさぞがっかりしただろうなぁと思います。ワタクシはそれを求めて行ったわけではありませんが、それでもなんだかなぁなデキでした。あと、ジョニーデップ目当てで行かれる方は出番がかなり少ないので覚悟の上で行かれたほうがいいと思います。
アメリカでヒットした青春ゾンビ映画。ニコラスホルトもテレサパーマーも好きなので見たいと思っていました。
オープニングから革新的。なんとゾンビである「R」(ホルト)のモノローグで始まる。「僕はゾンビ。毎日空港をうろついてる。僕の周りの人たちもみんなゾンビ。僕の名前は、、、覚えていない。確かRで始まるってことだけは覚えてる。友達も家族も仕事も生きていたときのことは全部忘れてしまった。こんな服装してるんだから失業してたのかな」「あれは僕の親友のMロブコードリー。毎日見つめ合ってうなり合ったりする。食べ物の趣味は同じだ。生きた人間」「あいつらはガイコツ。僕らのなれの果て。なんだって食べちまう凶暴な奴ら。ああはなりたくないもんだ」
ゾンビは人間を喰らい、人間からすれば恐怖のやっつける対象でしかない。そんなゾンビの心の内を聞く日が来ようとは。
Rたちはお腹を空かせ狩りに出かける。そこへ安全地帯から物資の調達にやってきた人間の若者たちの一行にでくわす。とある青年デイヴフランコを食べながら、見上げたRの目に飛び込んできたのは、他のゾンビに銃を向けている美しい少女ジュリー(パーマー)だった。どっきーーーーん!一目惚れしたRはその子を他のゾンビから守り連れて逃げた。
空港の飛行機の中に作った自分のスペースにジュリーを連れ帰ったRだったが、ジュリーはなかなか打ち解けてくれない。(そりゃそうだ)Rは彼女を少しそっとしておくようにして、自分は持ち帰った青年の脳みそを食べることにした。実はゾンビたちは人間の脳を食べるとその人間の記憶を追体験することができる。眠らず夢を見ることもできないゾンビたちはこの追体験を楽しみにしていた。その青年の脳みそを食べたRが見た記憶は彼とジュリーのものだった。なんとその彼はジュリーの彼氏だったのだ。
Rが食べた青年ペリーはジュリーの彼氏だったとはいえ、もう2人はうまくいっていなかったというのはペリーが食べられる前にほのめかされています。だから、いいじゃんっていう問題ではないとは思いますが、一応、それで彼氏を食べたRのこともジュリーが受け入れてもおかしくないという設定になっています。
何度かゾンビに襲われそうになったジュリーをRが助けたことで信頼を得たR。ジュリーが少しずつ心を開いてくれるようになる。ジュリーとRのつかの間の楽しいひととき。ここでもRの心の声が可愛くて笑えます。「ほら、なんか気のきいたことを言え」とか「ほら、笑え」とか普通の人間のようにスムーズに動けないゾンビが頑張っている姿が健気で超可愛い。時々「こんな猫背の僕なんか相手にしてもらえるわけない」とかちょっと卑屈になっちゃうところもまるで普通の青春映画の主人公だ。
2人の心が通い始めると、Rや他のゾンビたちの体に変化が起こり始め、ゾンビと人間という種(?)を越えた愛が地球を救う!というべたな展開がまた青春してていい。そこにガイコツというもうひとつの種を加えることで人間とゾンビの共通の敵と闘うという設定がうまく機能していると思います。
Rとジュリーが恋に落ちたことでどうしてゾンビたちが人間に戻り始めたのかっていう理由は全然分からないけど、もうそんなのどうでもいいやーって思えるくらい2人が可愛らしかった。そして、Rが人間だったとき、どこで何をしていたかとかそういうまどろっこしい部分も全部うっちゃってしまってRはRのままでいいんだっていうのもそれで逆に良かったと思います。
全編を通してのRのモノローグが笑えるし、人間にばれないように人間風のメイクをしたりとかもウケました。まさかゾンビに胸キュンする作品に出会えるとは思ってもみませんでした。最近「ウォーキングデッド」をずっと見ているんですが、これからはゾンビの心象風景を想像してしまいそうだな。
以前から見に行くと決めていた作品です。クリントイーストウッド監督がブラッドリークーパーを主演にイラク戦争でのアメリカ兵最高のスナイパーについて描く。
ブラッドリークーパーは原作の映画化権を自分で買ったというだけあって、主人公に合わせて体重を相当増やし、筋肉もりもりでむちむちのいかにもアメリカの軍人といった風貌になっていて、いつものハンサムでセクシーな彼はどこへやらといった感じで彼の気合を感じさせた。
ネイビーシールズの隊員クリスカイル(クーパー)はスナイパーとしてアメリカ史上最高の160人という人数を狙撃し味方からは「伝説」と呼ばれ、敵からは「悪魔」と恐れられて懸賞金もかけられた。
彼は典型的な(とワタクシがイメージする)テキサスの家庭で育てられる。敬虔なキリスト教徒で父親が猟に連れて行き息子に銃の扱いを教え、羊をいじめる狼を徹底的にやっつける番犬たれと教えを受ける。彼がのちに妻となる女性タヤシエナミラーに出会い、どうしてシールズに入ったの?と聞かれたとき「世界で最も偉大な国アメリカを守るため」と答える。彼は100パーセントそれを信じている人なのだ。
クリスが戦場に向かうまでの彼の半生が前半にきちんと時間を取って描かれてあり、彼の人となりを知ることができるようになっていて好感が持てた。彼が狙撃をするシーンの緊張感はふんだんにあったが、戦場のシーンは少々長すぎるかなという気がした。最近戦場シーンがリアルに撮れるようになってきたせいなのかどうかは分からないが、戦場シーンが長くなる傾向を感じます。
4回の派兵の合間に妻と子供の元に帰ってはくるクリスですが、ポスターのコピーにあるように「心は戦場においたまま」でした。戦場で命をかけて戦っている仲間たちのことを思うと息子の試合の結果なんてどうだっていいし、それを重大ごとのように話す妻にイライラしてしまう。このころ帰還兵たちのPTSDというのはどれくらい理解されていたのかな。まだいまほどではなかったのかな。
4回の派兵を終えて、除隊したクリスは他のPTSDに苦しむ退役軍人たちと対話することで自らの心の傷を癒していったようなんですが、ちょっとその辺りの描写が少なくて物足りなかった気がします。カウンセラーに一度会い、退役軍人たちを紹介されて、彼らと話すシーンが2つくらい流れ、その後すぐに奥さんが「元のあなたに戻ってくれて嬉しいわ」と言うだけで終わってしまったので、クリス本人の心の中までは詳しく語られていなかった気がします。
結局彼はあの戦争に行っても「世界で最も偉大な国アメリカを守った」自分というものには満足していたのだろうなと感じました。イーストウッド監督は共和党ですが、イラク戦争には反対の立場を取っているし、これが戦争を賛美した作品とは思わないのだけど、クリス自身にとっては「狼」から「羊」を守った「番犬」の役割を果たせたということが一番大事だったのかなぁという気がしました。戦場に行っても戦争が無意味だとか、敵にも事情も家族もあるんだとか、そんなことを考えるようになったわけではなかったんだなぁと。いや、実際にクリスがそう思わなかったかどうか分かりませんが少なくともこの作品にはそういうふうに描かれていたと感じました。言い方は難しいですが、彼のような人は戦場という場所に合っていたのでしょう。
彼の弟や家族への手紙に弱気なことを書いていた仲間のグライムスマークリーはクリスに比べれば、戦場不適合者と言いますか、クリスは弟に「お前を誇りに思う」って言っていたけど、それは「羊」にしてはよくやった的な意味だったんじゃないかなぁと思えたし、グライムスは「あんな手紙を書くから死んじまったんだ」と言っていて、それはグライムスを馬鹿にしたとかそういうのではなくて、あんな弱気でいるから殺されるハメになるんだという悔しさだったんだろうけど、その辺は強者であるクリスには理解できなかった部分なのではないかなと感じた。
とは言え、そんな彼でさえPTSDに苦しむのだから、やはり戦場の狂気というものは異常であるとしか言いようがない。
シエナミラーが黒髪に染めていて誰だか分かりませんでした。申し訳ないのだけど、彼女にはちゃらちゃらしたモデルっていうイメージを持っていたので、ちゃんと演技できるんだぁと感心しました。そう言えばこないだ「フォックスキャッチャー」にも出てました。
イーストウッドっぽい静かな演出ですが、132分という長さは感じませんでした。それにしても彼はなぜ同じ退役軍人に殺されてしまったのだろう。犯人はPTSDによる心神喪失を訴えているようですが、実際の「理由」というものを知りたいです。