goo blog サービス終了のお知らせ 

オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
since 2007.4.16
写真など一切の転用、転載を禁止します

最初で最後の北陸遠征 史跡巡り篇

2019-03-28 01:31:36 | 日本史

 

早朝に到着してナイターまで時間があり、かと言ってさほどに遠くに行けるわけでもないので、富山駅周辺に絞っての史跡巡りです。
行きたいところはいくつかあったのですが徒歩圏内を5キロとすればあまり選択肢は多くはなく、やはり旅人向けのレンタサイクルが整備されていないのは痛すぎました。
そんなこんなでまず向かったのは富山城跡、立派な天守閣がありますが史実に基づかない模擬天守は鉄筋コンクリート造りで、それでもやはり城は城、心が浮き立ちます。

富山城は越中西部の守護代だった神保氏が築きましたが、神保氏が没落後は佐々成政が、その成政が肥後に移った後は前田氏の持ち城となります。
前田氏の加賀藩から分封されて富山藩ができてからはその居城となり、初代の利次から13代利同まで在城しました。
しかし例によって明治維新に際して廃城、建築物は払い下げられたり解体をされたりで跡形も無くなってしまったのが寂しくもありますが、時代の流れですので仕方がありません。
ちなみにそんな天守閣風博物館ではありますが城跡としては続日本100名城に指定されて、栄えある一個目のスタンプを押したのですが、見るからにロッテファンな出で立ちでレプリカユニを着た同好の士がやはりスタンプを押していたのがちょっと嬉しかったりもして、ニヤリと笑みを贈らせていただきました。
また博物館の学芸員の方に神保氏にかかる史跡について尋ねたのですが、そういったものは遺されていないとのこと、敗者には厳しい現実です。

そんな天守閣とは違い、こちらの千歳御門は当時ものです。
当時、とは言っても10代利保のときに建てられましたので時代はかなり下ってからのものですが、民間に払い下げられていたものを2007年に移築をしたとのことです。
これだけの城門を100年以上も維持してきた民間の方とはどれだけの金持ちよ、なんて思ったりもしますが、ただただ感謝、それしかありません。

こちらは前田正甫像です。
2代藩主の正甫は立藩まもない富山藩を自立させるための新田開発、産業奨励などで経済的基盤を築いた名君、と讃えられているとのことでした。
なぜか前田氏の通字である「利」がついていないのですが、別名として利勝、利義、利虎などと名乗っていたときもあったようで、それでもやはり気になります。

次に目指したのは真国寺、前田氏の廟所があります。
ここまで3キロぐらいありますので1時間弱のウォーキングはそれなりにありましたが、夜行バスで一緒になった知り合いが「どうせやることないし」と史跡に興味があるわけでもないのに付き合ってくれたことで、廟所に向かいながら野球の話をするという異次元の体験をしつつ時間を感じることなく到着をしました。

その長岡廟所には富山藩主、前田氏の歴代の墓があります。
二カ所に分かれていて本堂を左手に見た突き当たりはそこそこ手入れがされていましたが、しかし右手奥は木々が生い茂って放置されているかのような状態で正面から見ることができないところもあり、あまりに残念、とは旅人目線でしかありませんが、経済的なものも含めていろいろと事情もあるのでしょう。

初代藩主の利次は、加賀藩2代利常の次男です。
利常が隠居の際に10万石を利次に与えて富山藩を、三男で利次の次弟の利治に7万石を与えて大聖寺藩を、そして自らは20万石を隠居料としました。
跡を継いだ光高は利常が没するまでは加賀100万石ながらも実態は80万石余で財政的にかなり苦しかったようで、分封をされた弟たちに含むところもあったかもしれません。

利次の跡は次男の正甫が継ぎ、正甫の次男が3代利興、利興に継ぐべき子がなかったために弟で正甫の五男の利隆が4代、利隆の長男が5代利幸と続きます。
ここまではほぼ真っ直ぐでしたが利幸が没したときに長男の利久が幼かったために弟で利隆の四男の利與が6代、成長した利久に跡を譲って7代、しかし利久は子宝に恵まれずに従兄弟で利與の長男の利謙が8代と交互に相続をし、利謙も次男の利保が幼いときに病没したことで大聖寺藩から利幹が9代となりました。
しかしあくまで繋ぎでしかないため次男の利民には継がせずに10代を利保に、利保の六男が11代となるも早世したことで弟で利保の七男の利聲が12代、利聲には子がありながらも13代には加賀藩から利同が入ったのは利保の代から続くお家騒動に加賀藩が介入したことも理由なのでしょう。
それぞれの藩主はそれなりの事績もあったようですが入れ替わり立ち替わりの襲封などお飾りの印象は否めず、このあたりは江戸期では他家も似たようなものです。
写真は上段左から正甫、利興、利隆、利幸、利與、利久、利謙、利幹、利保、利友、利聲、利民です。

血筋が分かりづらく、加賀藩をそこまで入れるとややこしかったので13代利同は端折りましたが、ざっと系図をこしらえてみました。
四男や五男、七男などが相続をしていますがこれは兄が早世をしたためで、嫡庶の区別はあったにせよ基本的には年齢で継いでいったのは太平の世だったからでしょう。
家臣からすれば優秀で藩政にいらぬ口出しをされるぐらいであれば、無能であってもお飾りでいてくれた方がよかったのかもしれません。
凡例は赤字が富山藩の当主、線が引いてあるのが写真でご紹介をしたものです。


ブログランキング・にほんブログ村へ
一日一クリック応援をお願いします


【2018年5月 富山の旅】
最初で最後の北陸遠征
最初で最後の北陸遠征 旅程&旅情篇
最初で最後の北陸遠征 富山アルペンスタジアム篇
最初で最後の北陸遠征 グルメ&スイーツ&おみやげ篇

コメント (2)    この記事についてブログを書く
« 最初で最後の北陸遠征 富山... | トップ | いや、助かるわ »

2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ひふみんJAPAN)
2019-03-28 09:58:18
必然なのか?

城でも遭遇するという、同好の士(笑)
人が考える事は一緒…との事でしょうかね。

前田家のみなさんも、後に野球の談義をしながら、
自らの墓に参ってくる後世の者が居るとは、想像も出来なかったでしょうね。
いや、人の世とはそんなもんなんでしょう。そうですよね。

家系図も相変わらずの熱量。

「やっぱ、家系図無いとダメっしょ。」という事なのか、
こういうのを作るのが好きなのか。見る者の心理を想像し、「わかりやすく」を心がけてらっしゃるのか。
一言では言えないくらいにそれらは混ざりあってらっしゃるのでしょうけど…村長さんは面白い方です。
返信する
お返事 (オリオン)
2019-03-29 03:41:15
いや、系図は趣味なんです(笑)
ハードディスクが死んだら一番痛いのは、撮りためた写真ではなく書き連ねてきた系図、学生のときからですので30年以上もいろいろな文献から引っ張ってきてまとめています。
自己満足の世界ですな、今回もまとめたものから引っこ抜いてきたのですが、時間を忘れます。
ロッテと同じぐらい人生を賭けていますので、今回は両方が相まっていい墓参りになりました。
返信する