プラチナ世代のマラソン旅行

時悠人chosan流処世術

★chosan流の般若心経(番外編)

2019-09-22 07:54:54 | 日記・エッセイ・コラム
 一部の宗教家は、「般若心経は虚無思想」との批判に対し、素粒子物理学で説明したり、ニュートリノ理論やDNAをもちだすが、難しい理論はどうでもよい。

 物体は分子の集合体だから、例えば、ギターをバラバラに壊せば、木と金属と弦になる。逆に、木と金属と弦を使ってギターが出来上がるので、ギターという物体自体は、唯一無二の存在とはいえない。

 禅問答のようだが、これが「色」と「空」の関係であり、これを理解すれば、「色」に対する執着心が消える。言い換えれば、実体のない仮の物から解き放たれ、平安な世界へと導かれる気がする。

 日常生活において、文明の利器を追い求めず、知恵を尽くせば、豊かな生活を送ることが出来ると思う。

★chosan流の般若心経(後編)

2019-09-21 08:06:13 | 日記・エッセイ・コラム
 高邁な目標を持って修行する人でなければ、基本知識を理解したうえで、自己流の仏教哲学を創り上げれば、日々の生活のよすがや糧になる。

 般若心経を選ぶなら、その基本として、「色即是空 空即是色」と「五蘊」(ごうん)を理解したい。

 経文中、何度も「受想行識」が出てくるが、「色」を加えて「五蘊」という。「色」を人間とすれば、外からのものをどう受け止め(「受」)、どう考えるか(「想」)、どう行動するか(「行」)どう認識するか(「識」)で、合わせて「五蘊」になる。

 これらは、実体のないもの(「空」)であり、もともとないものに迷ったり、苦しんだりする必要はない。心のぜい肉(煩悩・執着等)を捨てれば、苦しむことが無くなると解釈している。

 そして、般若心経を復唱しながら、物への執着心を忘れようと、日々を送ることにした。

★chosan流の般若心経(前編)

2019-09-20 08:03:49 | 日記・エッセイ・コラム
 「般若心経」を読み始めて1か月を過ぎ、おぼろげながら教えのポイントが私なりに分かってきた。

 お経が僅か262文字なので、反復し易く、なんとか暗記した。数あるお経の中で「般若心経」が多くの人に親しまれる理由もここにありそうだ。

 散歩しながら、般若心経を唱えると、雑念が消え、心理状態としては、まさに「空」になる。ジョギング中に、思考力が低下する現象と同じだ。

 さらに進めば、「ランナーズ・ハイ」で、肉体は疲れているのに、苦しい気持ちを超越し、一種の陶酔感を味わうように、「空」の状態に達すると、心の安らぎを感じる。

 宗教学者は、難しい定義を並べるが、chosan流解釈は、何事にも無執着な心理状態に昇華することだと受け止めている。

★新たな道標(後編):同行二人

2019-09-19 08:05:42 | 日記・エッセイ・コラム
 私は、若い頃から、日本各地の神社仏閣や外国の教会を訪ね歩いたが、それは観光名所としてであり、信仰の対象としてとらえたことはなかった。

 ところが、58歳の時、旅行先のブタペストで倒れ、死線をさまよって以来、私は特異な死生観と予知能力を持つようになった。正確を期せば、予知能力というよりも幻覚や妄想に近いものだが、良い方は外れるが、悪い予感は、かなり、的中する。

 さて、後期高齢者になってからは、従来と異なる感慨を持って、寺社に参拝するようになった。自分でもその理由が分からないが、死期が近づいた予感が心理的に作用しているのかもしれない。

 76歳を機に、「般若心経」を学び始めたので、小豆島のレース後に訪ねる1番札所霊山寺で、お遍路さんと一緒に読経出来れば有難いと思っている。(^^♪

★新たな道標(前編):レース→観光

2019-09-18 08:45:01 | 日記・エッセイ・コラム
 ここ20年来、「マラソン旅行」を夫婦共通の趣味としてきたが、近年、旅行が主眼にシフトしつつある。

 これは、自然の流れであって、決して悲観することではなく、新たな道標を発見した積もりでいる。

 さて、4月7日の新潟ロードレース(10㎞)後、半年間空いたが、9月29日に塩尻10㎞、10月須坂5㎞と11月の小豆島10㎞をもって、今年の全レースを終える。

 最終レースの小豆島は、連続11年目を迎えるが、起伏に富み、私にはかなり厳しく、毎年、これが最後と思って参加している。しかし、妻は、移住を考えたほどお気に入りの土地なので、レースを止めたら、避寒旅行先にしようと提案している。

 私は、レース後、四国八十八カ所霊場の1番札所霊山寺を訪ねるのを楽しみにしている。