電脳筆写『 心超臨界 』

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( 中国のことわざ )

読む年表 戦国~江戸 《 大政奉還・小御所会議——渡部昇一 》

2024-05-24 | 04-歴史・文化・社会
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席上、山内容堂が「この会議に慶喜を呼ばないのはおかしい」と発言した。さらに容堂は、「ここに集まっている者たちは、天皇がお若いのをいいことにして自分が天下を取り、天下をほしいままにするつもりか」と言った。(中略)このとき岩倉は、「天皇はお若いとはいえ聡明でいらっしゃる。何たる失礼なことを言うのだ」と怒ってみせた。何しろ天皇の御前だから恐悚(きょうしょう)した山内容堂はかしこまってしまい、それ以上発言できなかった。


◆大政奉還(たいせいほうかん)・小御所会議(こごしょかいぎ)

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p170 )

1867(慶応3年)
《 大政奉還(たいせいほうかん)・小御所会議(こごしょかいぎ) 》
「公武合体(こうぶがったい)」から「倒幕親政(とうばくしんせい)」に
急転した小御所会議の歴史的意義

われわれが子供の頃に習った日本の歴史では「維新の四大偉人」として、西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)、木戸孝允(きどたかよし)、それに岩倉具視(いわくらともみ)の名があげられていた。それが子供心にはわからなかった。西郷は総大将だからわかる。大久保もわかる。長州の代表であるから木戸も当然だろう。しかし、なぜそこに岩倉のような公家(くげ)が加わっているのかが不思議だったのである。

徳川慶喜(よしのぶ)が慶応3年(1867)10月に大政奉還を申し出た。これは徳川幕府にとっては致命的なことだった。幕府が諸大名に対して権威を持っていたのは、すべての武家を支配する者として、徳川家康が慶長(けいちょう)8年(1603)に従一位右大臣(じゅういちいうだいじん)・征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、さらに後には太政大臣(だじょうだいじん)となって公家(くげ)を支配する地位を与えられたからである。それを奉還してしまえば徳川家と他の大名家との差はなくなり、徳川幕府は「公儀(こうぎ)」でなくなるのだ。

これを受けて同年12月9日、王政復古(おうせいふっこ)の大号令(だいごうれい)が発せられたのと同日に京都御所(きょうとごしょ)内の小御所(こごしょ)で「小御所会議」が開かれた。

有栖川宮熾仁(ありすのみやたるひと)親王などの皇族、正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)、岩倉具視などの公家、土佐の山之内容堂(やまのうちようどう)、薩摩の島津忠義(しまづただよし)、越前(えちぜん)福井の松平春嶽(まつだいらしゅんがく=慶永(よしなが))などの前・旧藩主たち、それに大久保、後藤象二郎(ごとうしょうじろう=土佐藩)ら、新政府の要人となるべき人々が集まって会議をしたのである。公武合体(こうぶがったい)の名の下に、代表的な大名と公家が集まっていた。そのとき初めて明治天皇が、御簾(みす)の奥にではあったが、お出ましになった。近代日本における最初の御前(ごぜん)会議である。

席上、山内容堂が「この会議に慶喜を呼ばないのはおかしい」と発言した。さらに容堂は、「ここに集まっている者たちは、天皇がお若いのをいいことにして自分が天下を取り、天下をほしいままにするつもりか」と言った。

これに対して、長く蟄居(ちっきょ)の身だった岩倉具視が反論した。岩倉は公武合体論者だったから、尊皇攘夷(そんのうじょうい)派に狙(ねら)われ、京都岩倉村に身を潜めていたが、攘夷(じょうい)論者だった孝明(こうめい)天皇が亡(な)くなったのを機に、薩長と密(ひそ)かに手を結び、再び表に出てきていたのである。

このとき岩倉は、「天皇はお若いとはいえ聡明でいらっしゃる。何たる失礼なことを言うのだ」と怒ってみせた。何しろ天皇の御前だから恐悚(きょうしょう)した山内容堂はかしこまってしまい、それ以上発言できなかった。それを受けて大久保が以下のように論じた。「慶喜がここに列席するためには、まず慶喜自身が恭順(きょうじゅん)の意を表さねばならない。徳川が領地を差し出し、官位を蠲退(けんたい)する(きれいさっぱり捨てる)ならば出席を認めよう」と。

そこからは岩倉の思惑どおり、天下は討幕に向かって一直線に突き進む。「領地をすべて差し出さない限りは徳川家を討つべし」ということになって、新政府軍と旧幕府軍が京都郊外で衝突(しょうとつ)した鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いが起こるのである。

『近世日本国民史(きんせいにほんこくみんし)』の著者徳富蘇峰(とくとみそほう)が「小御所会議こそは徳川幕府を終らせるための、“関ヶ原の戦いの裏返し”だった」と言ったのはまさに当たっていると思う。小御所会議の話を読んで、私はなぜ岩倉が維新の元勲(げんくん)たちの間で尊敬されていたかがよくわかった。維新の元勲たちは討幕にいたる本当の動きをよく知っていた。あのとき、岩倉がああいう発言をしなかったら討幕は成らなかったということを維新の中心人物たちは誰もが知っていたということである。

その後は怒涛(どとう)のごとく歴史が流れる。小御所会議は「(土佐の)山内容堂・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)と岩倉具視・大久保一蔵(いちぞう=利通)四人の決闘だった」とも蘇峰は言っている。幕末の状況の中で、最も穏当で無難と思われていた政治論は公武合体論だった。尊皇の運動は朝廷(公)が加われば(武)が集まって合議すればよいということだった。小御所会議もその主旨の集まりだったのである。それが山内容堂の発言、それに挑みかかった岩倉と大久保の論駁(ろんばく)で、一挙に「公武合体」は「倒幕親政(とうばくしんせい)」に変わったのである。蘇峰も、小御所会議で無記名投票が行われれば公武合体のほうに動いたろうと推測している。

それがちょっとしたきっかけの議論が出て突如、歴史の趨勢(すうせい)は奔流(ほんりゅう)と化したのだ。維新に至る経過は、「あれよ、あれよ」という間であって、維新の元勲と言われる人たちが、「誰かがあらかじめ計画したようなものではなかった」と語っているのもよくわかる。
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