電脳筆写『 心超臨界 』

あなたが犯す人生最大の過ちは
過ちを犯すことを常に恐れることである
( エルバート・ハッバード )

生きるための杖ことば 《 曹源一滴水――松原泰道 》

2024-11-16 | 03-自己・信念・努力
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日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
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明治のはじめ、この曹源寺に儀山(ぎさん)という高僧がいた。ある日、修行中の少年僧宜牧(ぎぼく)が手桶の底にあったわずかの水を捨てたのを見て、「それを拾え」と宜牧に命じる。拾えとは「捨てた一滴水に参ぜよ」ということだ。一滴水を捨てて省みぬ粗雑な心を、一滴水を拝む高次のこころに転じろ、と嚙んで含める教えだ。宜牧が成長するにつれ、拾え・参ぜよとは、水に同化せよ、成りきれとの命題だと深められる。水を捨てるとは自己を捨てるのだ、水を拾うとは自分を拾うことだ。


◆曹源一滴水(そうげんのいってきすい)――碧眼録

『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p64 )

8世紀の中国の禅僧、慧能(えのう)は広東省の曹渓(そうけい)の宝林寺に住していた。「曹源」は、曹渓の谷の水源の約。中国の禅は慧能を源流として栄え、曹洞(そうとう)・臨済(りんざい)等が分かれたから、のちには禅流の源泉の意味で、曹源といえば慧能を指す。

さらに慧能の禅の命脈を「曹源一滴水」と展開する。この由来から「曹源」の二字を冠した寺が各所にある。とくに岡山の曹源寺は領主池田家の菩提寺として著名だ。

明治のはじめ、この曹源寺に儀山(ぎさん)という高僧がいた。ある日、修行中の少年僧宜牧(ぎぼく)が手桶の底にあったわずかの水を捨てたのを見て、「それを拾え」と宜牧に命じる。

拾えとは「捨てた一滴水に参ぜよ」ということだ。一滴水を捨てて省みぬ粗雑な心を、一滴水を拝む高次のこころに転じろ、と嚙んで含める教えだ。宜牧が成長するにつれ、拾え・参ぜよとは、水に同化せよ、成りきれとの命題だと深められる。水を捨てるとは自己を捨てるのだ、水を拾うとは自分を拾うことだ。

師の儀山の「一滴水を拾え」の一語で、宜牧は禅の道奥を極めた。一滴水と師恩にむくい、一滴水をも粗末にせぬとの誓いから、自らを「敵水」と号した。それは目に見える少量の水だけではない。遠く慧能の禅の命脈の継承であり、永遠の無限のほとけのいのちに通じる。それは師の臨終の詩に明らかだ。

――「曹源一滴 七十余年 受用不尽(じゅようふじん) 蓋地蓋天(がいちがいてん)」

滴水禅師の法を継いだ峨山(がさん)にも、水の教えがある。

夏の暑い日に、一人の雲水が縁近くのつくばいの水を無造作に捨てるのを見て、静かに教える。「なあ、物は生かして使うものだ。お前が捨てるその水を草花にそそいでやれ、草花も生きかえる。お前も生きかえるぞ」と。

節約とは物を生かして使うことだ。ケチとは違う。物を生かして使えば、その人自身も生きかえるのだ。新しい価値がその人の内がわに創造されるのだ。
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