20年に及ぶブログ活動の集大成 → ★仏様の指
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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われわれは成功を給料の額や車の大きさで判断しがちだが、本当は
人類に対してどんな奉仕ができたか、どんな関わりを持てたかで判
断すべきなのである。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
◆きみも誰かにしてやってくれ
「こころのチキンスープ 7」
( ジャック・キャンフィールド他、ダイヤモンド社、p76 )
あれは、人里はなれた雪深いオレゴンのキャンプ場での出来事だった。20年も前の話だというのに、まるで一点の雲もないオレゴンの空のように、いまでも鮮やかに覚えている。私は妻と2歳の娘ととともに、エンストを起こしたレンタカーのなかで困り果てていた。病院での実習2年目を終えたことを記念して旅にでたのだが、私のマスターした医学知識は、このキャンピングカーには何の役にも立たなかった。
とりあえず電気スイッチをまさぐったが、真っ暗なままだ。エンジンをかけようとしても、だめだった。車から出ると、白く逆巻く早瀬のとどろきに、私の罵詈雑言はさいわいにもかき消されてしまった。
バッテリー切れが原因だとわかったので、娘を妻にまかせ、数マイル先のハイウェーまで歩いていくことにした。
2時間後、私はくじいた足をひきずってようやくハイウェーにたどり着いた。トラックを呼びとめて乗せてもらい、最寄りのガソリンスタンドで下ろしてもらった。しかし、そのガソリンスタンドに向かって歩いていくうち、きょうが日曜日だということに気がついて目のまえが暗くなった。やはり、店は休みだった。幸い、近くに公衆電話とボロボロの電話帳があったので、20マイル離れたとなり町のオートショップに電話した。
電話に出てくれたボブという男は、「もう心配ないよ」と言った。「ふだんは日曜は休むんだが、30分以内にそっちに行くから」。私はほっとしたものの、いったいどのくらいの料金を払うことになるのかと気が気ではなかった。
ボブが乗ってきたぴかぴかのレッカー車で、二人はキャンプ場に戻った。先に車からおりた私は、歩き始めたボブの姿を見て茫然とした。足には金属製のギブスをはめ、松葉杖までついているではないか!
彼がキャンピングカーまで歩いていくのを見ながら、私はまた彼への支払いを頭のなかで計算しはじめた。
「大丈夫。バッテリーが切れただけだよ。最初はちょっとがたつくけど、あとはスイスイ行けるからね」。ボブはそう言って、バッテリーを充電している間、娘に手品を見せてくれた。娘は、ボブが耳のなかから取り出した。25セント玉をもらって大喜びだった。
彼が充電に使ったブースターコードを積み込むのを見ながら、私はいくら支払えばいいのかと聞いた。
「いや、何もいらないよ」意外な答えだった。
「でも何か払わなきゃ」
「いらないよ」と彼は繰り返した。「ベトナム戦争でこの足をなくしたとき、ある人がおれを生死の境から助けてくれた。そのとき彼が、きみも誰かにしてやってくれって言ったんだ。だから、おれに気がねはいらない。その代わり、誰かが困っているのを見かけたら、その人を助けてやってくれ」
さて、話を20年後に早回しして、舞台は私の忙しい医局。ここで私は、しばしば医学生の訓練を行っている。シンディは州外の学校の医学生だが、この町に住む母親のところに滞在したいと、私のもとで1か月研修した。
その日は、ドラッグとアルコールのために身体がぼろぼろになった患者を診察したばかりだった。シンディと私は治療法についてあれこれ検討していたが、ふいに彼女の目に涙が浮かんできたのに気づいた。「こういう話し合いはいやかい?」と私は尋ねた。
「そうじゃないんです」と言いつつ、シンディは泣いた。「実は、私の母もこの患者さんと同じ問題を抱えているんです」
それから私たちは会議室の片隅で、シンディの母の痛ましい過去について話し合った。涙を浮かべ、シンディは一家を苦しめてきた怒り、恥辱、敵意の歳月を赤裸々に打ち明けた。私は彼女の母親が治療を受けるようすすめ、彼女を励まし、母親が経験豊かなカウンセラーと相談できるよう手配した。家族のほかの者たちの強いすすめもあって、シンディの母は治療を受けることを承知した。
母親は入院し、数週間後には別人のように生まれ変わって退院した。崩壊寸前だったシンディ一家に、初めて希望の光がさしてきた。「どうやってこのご恩を返したらいいのでしょう?」シンディが私に聞いた。
雪のキャンプ場に立ち往生したキャンピングカーとよきサマリア人ボブを思いおこせば、答えはたったひとつだった。「きみも誰かにしてあげなさい」
ケネス・G・デービス医学博士
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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われわれは成功を給料の額や車の大きさで判断しがちだが、本当は
人類に対してどんな奉仕ができたか、どんな関わりを持てたかで判
断すべきなのである。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
◆きみも誰かにしてやってくれ
「こころのチキンスープ 7」
( ジャック・キャンフィールド他、ダイヤモンド社、p76 )
あれは、人里はなれた雪深いオレゴンのキャンプ場での出来事だった。20年も前の話だというのに、まるで一点の雲もないオレゴンの空のように、いまでも鮮やかに覚えている。私は妻と2歳の娘ととともに、エンストを起こしたレンタカーのなかで困り果てていた。病院での実習2年目を終えたことを記念して旅にでたのだが、私のマスターした医学知識は、このキャンピングカーには何の役にも立たなかった。
とりあえず電気スイッチをまさぐったが、真っ暗なままだ。エンジンをかけようとしても、だめだった。車から出ると、白く逆巻く早瀬のとどろきに、私の罵詈雑言はさいわいにもかき消されてしまった。
バッテリー切れが原因だとわかったので、娘を妻にまかせ、数マイル先のハイウェーまで歩いていくことにした。
2時間後、私はくじいた足をひきずってようやくハイウェーにたどり着いた。トラックを呼びとめて乗せてもらい、最寄りのガソリンスタンドで下ろしてもらった。しかし、そのガソリンスタンドに向かって歩いていくうち、きょうが日曜日だということに気がついて目のまえが暗くなった。やはり、店は休みだった。幸い、近くに公衆電話とボロボロの電話帳があったので、20マイル離れたとなり町のオートショップに電話した。
電話に出てくれたボブという男は、「もう心配ないよ」と言った。「ふだんは日曜は休むんだが、30分以内にそっちに行くから」。私はほっとしたものの、いったいどのくらいの料金を払うことになるのかと気が気ではなかった。
ボブが乗ってきたぴかぴかのレッカー車で、二人はキャンプ場に戻った。先に車からおりた私は、歩き始めたボブの姿を見て茫然とした。足には金属製のギブスをはめ、松葉杖までついているではないか!
彼がキャンピングカーまで歩いていくのを見ながら、私はまた彼への支払いを頭のなかで計算しはじめた。
「大丈夫。バッテリーが切れただけだよ。最初はちょっとがたつくけど、あとはスイスイ行けるからね」。ボブはそう言って、バッテリーを充電している間、娘に手品を見せてくれた。娘は、ボブが耳のなかから取り出した。25セント玉をもらって大喜びだった。
彼が充電に使ったブースターコードを積み込むのを見ながら、私はいくら支払えばいいのかと聞いた。
「いや、何もいらないよ」意外な答えだった。
「でも何か払わなきゃ」
「いらないよ」と彼は繰り返した。「ベトナム戦争でこの足をなくしたとき、ある人がおれを生死の境から助けてくれた。そのとき彼が、きみも誰かにしてやってくれって言ったんだ。だから、おれに気がねはいらない。その代わり、誰かが困っているのを見かけたら、その人を助けてやってくれ」
さて、話を20年後に早回しして、舞台は私の忙しい医局。ここで私は、しばしば医学生の訓練を行っている。シンディは州外の学校の医学生だが、この町に住む母親のところに滞在したいと、私のもとで1か月研修した。
その日は、ドラッグとアルコールのために身体がぼろぼろになった患者を診察したばかりだった。シンディと私は治療法についてあれこれ検討していたが、ふいに彼女の目に涙が浮かんできたのに気づいた。「こういう話し合いはいやかい?」と私は尋ねた。
「そうじゃないんです」と言いつつ、シンディは泣いた。「実は、私の母もこの患者さんと同じ問題を抱えているんです」
それから私たちは会議室の片隅で、シンディの母の痛ましい過去について話し合った。涙を浮かべ、シンディは一家を苦しめてきた怒り、恥辱、敵意の歳月を赤裸々に打ち明けた。私は彼女の母親が治療を受けるようすすめ、彼女を励まし、母親が経験豊かなカウンセラーと相談できるよう手配した。家族のほかの者たちの強いすすめもあって、シンディの母は治療を受けることを承知した。
母親は入院し、数週間後には別人のように生まれ変わって退院した。崩壊寸前だったシンディ一家に、初めて希望の光がさしてきた。「どうやってこのご恩を返したらいいのでしょう?」シンディが私に聞いた。
雪のキャンプ場に立ち往生したキャンピングカーとよきサマリア人ボブを思いおこせば、答えはたったひとつだった。「きみも誰かにしてあげなさい」
ケネス・G・デービス医学博士