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魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-

 世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記

ドイツ表現主義と「頽廃芸術」

2011-11-12 | 月影と星屑
 

 ドイツ表現主義は20世紀初頭、フォーヴィスムやキュビスムと並んでドイツで起こった、絵画を中心とした芸術運動のこと。
 一般に表現主義(Expressionism)というのは、外界の印象を表現しようとする印象主義(Impressionism)に反抗する形で起こった流れで、外界の印象によって引き起こされる内面の感情のほうこそ表現に値する、という思想にもとづく。ドイツでは特にそれが社会を席巻する一大運動として広がったために、絵画史上、「表現主義」というタームは「ドイツ表現主義」と同義で扱われることも多い。

 ドイツ表現主義の代表的なグループとしては、キルヒナー率いるドレスデンの「ブリュッケ(Die Brücke 橋)」、カンディンスキー率いるミュンヘンの「青騎士(der Blaue Reiter)」の二つがある。このうち前者は、キルヒナー色が圧倒的に強すぎる。不協和音のようなぎすぎすした、神経に残る線描と色彩は、キルヒナーなしでは多分あり得なかった。
 一方、後者のほうは、画風の幅に広がりがある。理由としては、国際的に多くの前衛画家たちが多彩に参加していたから、男性画家だけでなく女性画家もいたから、何より、主催画家カンディンスキーよりもその周辺画家たちのほうが才能豊かだったから、等々。なので、画壇への影響としては、より大きいものがあった。

 急速に発展し、第一次大戦へと突入していった当時ドイツの世相を反映して、人間社会の危機、頽廃、崩壊、喪失といった予感への不安や疑念、焦燥、苦悩等々、こうしたものが、描き手の内面を通して描かれたドイツ表現主義の絵。あるいは意図的に主情的に表現され、あるいは自然と表出した、それらの絵が、既存社会への叛逆と映ったとしても、まあ不思議ではない。
 原色を多用した激しい色彩にも関わらず暗影を帯び、非現実的な造形のなかに暗喩を込め、実際にその前に立つ人々を動揺させるビジュアル・イメージというのは、考えてみれば凄いものがある。

 大時代的で狭量な古典美しか理解しないヒトラーは、そりゃあ毛嫌いするだろう。ナチス権力はこれらの絵を、ドイツ民族感情を害する「頽廃芸術」とレッテルを貼り、大々的なキャンペーンを張って一掃した。
 古典美以降の著名な画家たちが晒しものにされた「退廃芸術展」。その歪んだ意図を捨象すれば、豪華絢爛な展覧会だっただろうな、と思う。

 画像は、シェーンベルク「赤い凝視」。
  アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schönberg, 1874-1951, Austrian composer)
 他、左から、
  カンペンドンク「横たわる裸婦」
   ハインリヒ・カンペンドンク(Heinrich Campendonk, 1889-1957, German)
  マルク「二人の立つ裸婦と緑の岩」
   フランツ・マルク(Franz Marc, 1880-1916, German)
  キルヒナー「日本傘の下の若い女」
   エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー
    (Ernst Ludwig Kirchner, 1880-1938, German)

  ミュラー「横たわる女」
   オットー・ミュラー(Otto Mueller, 1874-1930, German)
  ペヒシュタイン「鏡のある静物」
   マックス・ペヒシュタイン(Max Pechstein, 1881-1955, German)

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     Bear's Paw -絵画うんぬん-

叙情の信仰

2011-08-06 | 月影と星屑
 
 
 ミハイル・ネステロフ(Mikhail Nesterov)は、クラムスコイ率いる移動派に参加した画家の一人。なのだが、その絵を観るとどうも、移動派のイメージよりもはるかに先を行っている。実際、ネステロフはロシア画壇における象徴主義の先駆者として評価されているらしい。

 彼が描くのはロシア以前のロシア、中世ルーシの宗教的な世界。
 若くして結婚するが、その翌年に出産で妻を亡くした彼は、後に、妻の死によって自分は芸術家となった、と回想している。自分の絵には感情がなかった、と。こうして彼は、宗教のシーンではなく、そのムードを描くようになる。

 前面に、ロシアらしい衣装を着た人物がすっくと立っている。そして人物の向こうに、白樺の木立や森や湖、古風な木の教会など、ロシアらしい開けた風景が広がっている。人物たちは大画面の風景のなかに埋もれながら、ほとんど動くことなく、隠遁し、思索し、自然の声に耳を傾け、音楽を奏でる。形は単純で、色は緩弱。そんな人物は風景と溶け合って、繊細で叙情的な雰囲気を漂わせている。
 この独特の詩的な趣は、中世ルーシの信仰の芸術的な解釈なのだという。

 ウラルの商人の家に生まれ、技能教育のために両親に連れて来られたモスクワで、絵画に出会い、すっかり魅了されてしまったネステロフ。以来、絵を学び、やがてアカデミーに入学、移動派や、鉄道王マモントフの支援する芸術家村、アブラムツェヴォに参加した。
 敬虔な正教徒だったので、宗教美術の復興を願うのだけれど、彼が惹かれたスタイルは中世ロシアのイコンよりも、むしろフランスのモダニズム。
 好きなんだから仕方がない。彼はモダニズムの手法でロシア正教を描き、ロシアにおける現実(=世俗)風景のなかの宗教像、という絵を作り出す。これは、従来の宗教画の克服でもあった。

 しばしばロシア辺境へと旅をし、いかにも聖者や隠者が住みつきそうな修道院や草庵などに身を置いたというネステロフ。彼が内的に描きたかった信仰の表現というのは、こうしたいにしえの時代の形見にその名残を感受し得る、古いロシアの精神性・叙情性のイメージそのものだったのではないかと思う。そうしたイメージにフィットしたのが、宗教という形だったのではないかと思う。

 百花繚乱の世紀末ロシア芸術界で、社会悪を克服する力としても、美を創造する力としても、リアリズムがかつての意味を持たなくなったとき、精神性・叙情性そのものを尊重してきたネステロフの絵は、ロシア象徴主義へと引き継がれていく。
 が、彼自身は革命以降、完全に宗教画を捨て去って、肖像画だけを描いて暮らした。どういう心境でだったのかは、よく分からない。あるいは単に、想像力が枯渇しただけなのかも知れないけれど。

 画像は、ネステロフ「聖なるルーシ」。
  ミハイル・ネステロフ(Mikhail Nesterov, 1862-1942, Russian)
 他、左から、
  「若きヴァルフォロメイの幻視」
  「ヴェールを着けて」
  「皇子ドミトリイ」
  「丘の上」
  「池のほとりの娘」

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麗しのジナイーダ

2011-07-16 | 月影と星屑
 

 ジナイーダ・セレブリャコワ(Zinaida Serebriakova)は最初のロシア女流画家の一人とされている。

 ロシアの女流画家と聞いて私が思い出す名前はほとんどなくて、まず「青騎士」のヴェレフキン、それからナターリヤ・ゴンチャロワと、このジナイーダ・セレブリャコワ。
 このうち、ゴンチャロワとセレブリャコワの二人はぴったり同世代なのだが、ゴンチャロワが未来派に感化されたのに対して、セレブリャコワは未来派には見向きもしなかったという正当な理由で、また、ゴンチャロワの名が「静かなドン」のナターリヤを想起させるのに対して、セレブリャコワの名は「初恋」のジナイーダを想起させるという不当な理由も手伝って、私のなかではセレブリャコワの評価のほうが断然高い。

 セレブリャコワが生まれたのは、現ウクライナ、ハリコフの芸術家の家系。「芸術世界」の発起人の一人、レオン・バクストは彼女の叔父に当たる。
 彼女もまた女学校を卒業後、レーピンのもとで絵を学び、若くして結婚、4人の子供たちを授かる。「芸術世界」にも参加した。

 彼女が芸術世界派のなかで目立った存在だったのは、もちろん彼女が女性だったからだろうが、彼女の美意識のせいでもあった。彼女が描いたのは、一昔前に移動派が取り上げたような、ロシアの大地に生きる農民(と言うより農婦)たち。
 彼女の絵には、自画像や、娘をモデルにしたヌードも含めて、一貫して女性が描かれている。後に彼女は祖国にて、ルノワールを凌ぐと絶賛されたというが、なるほど、そういうところがある。大胆で官能的な裸婦像でさえ、明朗で、率直で、健全で、外連味がなく、自然としての人間への讃歌、生への主張に満ちている。
 芸術世界派の理念は“美の崇拝”だったが、セレブリャコワにとっての“美”は自然の生、人間の生であり、そうした“美”を彼女は確かに愛していたと思う。

 が、1917年に勃発した十月革命で、突如、彼女の人生は変わってしまう。夫はボリシェヴィキに逮捕され、獄中で病死。ハリコフの地所は略奪され、蔵書や絵画まで焼かれてしまって、一家は極貧に追い込まれた。
 流行していた未来派の画風も取り入れず、コミッサール(人民委員)らの肖像画も引き受けず、細々と絵を描いて一家を支えるセレブリャコワ。革命から7年後、装飾壁画を依頼されパリへ行く機会を得て、そのまま祖国には帰らなかった。
 子供たちとの再会を願って保ち続けたソビエト市民権も、ナチス・ドイツによるフランス侵攻の際に放棄、上の二人の子とは生き別れることになる。

 再会を果たしたのはフルシチョフの「雪解け」時代。彼女が長生きしていなかったら、二度と会えなかっただろう。
 長く生き娘に会いたい母心。……チマルトフ、心の俳句。

 画像は、セレブリャコワ「化粧台の前の自画像」。
  ジナイーダ・セレブリャコワ(Zinaida Serebriakova, 1884-1967, Russian)
 他、左から、
  「収穫」
  「眠る娘」
  「モロッコ娘」
  「眠る裸婦」
  「自画像」

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ロシアの耽美

2011-07-15 | 月影と星屑
 
 
 ロシア絵画と聞いて、私が移動派の次に思い出すのが、いわゆる「芸術世界派」。「芸術世界(ミール・イスクーストヴァ、Mir Iskusstva)」という文芸雑誌の刊行と、雑誌主宰で開催された展覧会とによって、ロシア画壇をリードした。

 19世紀末のペテルブルク。かつてアカデミーに叛逆した移動派は、今や画壇の主流を占め、アカデミーにも復帰。が、もはや往年の輝きは失せていた。
 そこへ颯爽と「芸術世界」が創刊される。主宰者セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev)は、学生だったアレクサンドル・ブノワ(Alexandre Benois)、レオン・バクスト(Leon Bakst)とともに、その昔移動派がそうしたようにアカデミーに叛旗を翻し、凋落しつつある移動派を批判、芸術至上主義と芸術家の個人主義とを宣言する。

 ディアギレフというのは、裕福で芸術的な環境に育ち、その芸術の教養はずば抜けていたらしい(実際、頭もでかかった)。師リムスキー=コルサコフに「作曲の才能がない」と宣告されるまでは音楽を志し、かのチャイコフスキーとは遠縁でもあったという。
 同性愛者だった彼は、相手を一流の芸術環境に置くことでその資質を伸ばそうとしたのだとか。

 で、移動派の理念が、絵画を介してロシア民衆を啓蒙するという、ロシアに根差した運動だったのに対して、芸術世界派の理念は、ずばり“美の崇拝と祝祭”。
 移動派が西欧偏重の傾向を拒絶したのとは反対に、芸術世界派は西欧と直結している。彼らは西欧とロシアとの異文化交流の架け橋。一方で、西欧の新しい芸術運動だった印象主義や象徴主義をロシアに紹介し、他方で、ロシアの新進芸術家を西欧に紹介した。

 俄然、ロシア画壇には耽美な象徴主義の新風が吹き荒れる。後に「ロシア美術家連盟」に改まった芸術世界派は、すでに移動派によって十分培われたロシアの豊かな土壌で、あらゆる才能ある新ロマン派画家を発掘、糾合する流れとなる。

 ディアギレフが有名なのは、「バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)」のプロデューサーとしてだろう。私はバレエについてはよく分からないのだが、斬新な演出で当時のパリの度肝を抜いたという。
 彼にとって総合芸術だったバレエに、芸術世界派の画家たちも舞台美術において貢献した。

 質実で律儀なところに叙情を感じさせる移動派の絵に比べると、芸術世界派の絵は概ね、戯れるような、おどけるような、けれどもどこか滑稽な、刹那的な、そしてメルヘンチックな、ノスタルジックな絵。……あちらの絵もいいけど、こちらの絵もいい。観る側って浮気者だな。
 ロシア絵画の黄金時代が移動派だけで終わらなかったところに、ロシアの土壌の深さ、豊かさ、本物さを感じる。

 画像は、バクスト「ナルシス、バッカスの巫女のためのデザイン」。
  レオン・バクスト(Leon Bakst, 1866-1924, Russian)
 他、左から、
  ブノワ「中国の阿舎」
   アレクサンドル・ブノワ((Alexandre Benois, 1870-1960, Russian)
  ブノワ「イタリア喜劇、下品な道化師」
  ブノワ「“ペトルーシュカ”のための舞台装置」
  バクスト「土砂降り」
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ロシアより愛をこめて

2011-07-13 | 月影と星屑
 

 エストニア、タリンにあるカドリオルク美術館。宮殿がこじんまりとした美術館になっていて、特別絵に興味がない人でも楽しめると思う。
 ここは別名、海外美術館。エストニア以外の美術が展示されている。絵画は西欧とロシアのもの。ロシア絵画がここ海外ジャンルに収蔵されているところに、エストニアの誇りを感じなくもない。

 数年前に「国立ロシア美術館展」で、ロシア絵画を代表する移動派の絵がまとまって来日してくれたときには感激したものだが、以来、ロシア絵画への憧憬は醒めやらず、その鑑賞への渇望は募るばかり。
 で、カドリオルク美術館に来た私の主な目当ては、ロシア絵画だった。移動派の絵があるだろうと踏んで来たのだが、やっぱりあった。しかもクラムスコイまで! ……ほんの二部屋ほどなんだけど。

 「移動派(ピリドゥヴィージニキ、Peredvizhniki)」というのは、19世紀後半におけるロシアの絵画運動。

 主導者はもちろんクラムスコイ。卒業制作に歴史画を強要するペテルブルクのアカデミーの因襲に抗議して、決然と退学したクラムスコイほか14人の若き画学生たち。人呼んで「14の叛乱」の後、クラムスコイらが牽引し、1870年に結成したのが、「移動美術展協会」。「移動派」の名はこれに由来する。
 学術的にいろいろと細かく掘り下げるべきなのだろうが、専門家でない特権で、そうしたものをすっ飛ばして言ってしまえば、移動派というのは、ロシア最初の国民画派、そして、絵画におけるナロードニキ運動。

 絵画に限らず、それまでのロシア文化は西欧文化の輸入・模倣だった。が、移動派は、西欧化(=近代化)の担い手だった帝政とそのアカデミーへの対抗と相俟って、西欧的な画題を拒否し、ロシアそのものを取り上げようとした。
 官展への対抗として開かれたのが移動展で、文字通り、ペテルブルク以外の諸都市を展覧会が巡廻。これは民衆への啓蒙も意図したもので、事実、民衆社会に対して多大なる影響を及ぼした。

 ロシアを描くという移動派の理念は当然、当時のツァーリの圧政に虐げられた民衆に寄り添ったもの。ロシアの文学に感じるあの感覚的な印象、……広大無辺な大地、その懐に生きる貧しく無学な、けれども大らかで力強い民衆たち、大酒を飲み、一つところに集まって、わいわいと自説を述べ立てる民衆たち、思想もあればメルヘンもある生活。そういった感覚的な印象の内実であるはずの、ロシア民衆の生活や伝統、彼らが生きる自然風景、彼らが生きてきた信仰や歴史、そうしたものを移動派の画家たちは、理想と共感と愛着とをもって、生き生きとした豊かなリアリズムで描いている。
 もともとの派の批判精神に加え、国じゅうの才能ある画家らがこの流れにくみしたことで、その表現の幅は一気に広がり、アカデミーも認めるロシア画壇を席巻する一大勢力となった。

 私は移動派を抜きに、ロシア絵画を想像することができない。ロシア文学に感じるヒューマニズムを、移動派の絵にも感じる。
 理屈は間違うが感覚は間違わない、とすれば、移動派のヒューマニズムも、私にとっては正しいわけだ。

 画像は、クラムスコイ「年老いた農夫」。
  イワン・クラムスコイ(Ivan Kramskoy, 1837-1887, Russian)
 他、左から、
  レヴィツキー「森のなかの橋」
   ラファイル・レヴィツキー(Rafail Levitsky, 1847-1940, Russian)
  クズネツォフ「讃歌」
   ニコライ・クズネツォフ(Nikolai Kuznetsov, 1850-1930, Ukrainian)
  カサトキン「孤児たち」
   ニコライ・カサトキン(Nikolay Kasatkin, 1859-1930, Russian)
  ミャソイェドフ「ライ麦のなかの道」
   グリゴリイ・ミャソイェドフ(grigoriy Myasoyedov, 1847-1940, Russian)
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    (Alexander Litovchenko, 1835-1890, Russian)


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