オランダ絵画によせて:レンブラントの光と影

 
 
 フランス絵画の次は、神戸の「アムステルダム国立美術館展」へ。南大阪を脱出したときの安堵感、もう筆舌に尽くせない。
 この展覧会は、フェルメール「恋文」が呼び物。でもこれって、観るのは三度目。「フェルメールはもう観たから、こっちの美術展には行かなくてもいいよね?」なんて言ってた相棒が、金券ショップで、フランス絵画展のと一緒にオランダ絵画展のチケットも、ちゃんと買っていたのを見たときには、ほっとした。

 こちらの展覧会は、バロック期のオランダ絵画を一通り観ることができた。レンブラントやフェルメール、ハルス、ヤコプ・ファン・ライスダールといった有名どころはもちろん、ホーホやテルボルフやメツー、ファブリティウス、ダウやステーン、ヘダ、ヘーム、等々、とにかく、有名な画家はほぼ誰でも揃っていた。
 オランダ・バロックは、以前勉強しただけあって、分かりやすかったな。

 さて、バロックと言えば、ルーベンスがフランドルで絶大な影響を誇っていた。だからフランドル・バロックの絵はどれも、ルーベンス風の華美さ、大仰さがある。
 が、オランダにはルーベンスほどのマンモス巨匠が現われず、オランダ絵画最大の巨匠、レンブラントですら、せいぜいナウマン象と言ったところ。黄金時代と評されるだけあって、さすがに層が厚い。

 レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt van Rijn)の絵で思い浮かぶのは、何と言っても、独特の明暗対比。フェルメールが、窓からの陽光に光源を取っているのに比べると、レンブラントの光源ははっきりしない。光と陰影の対比自体はかなり強烈なのだが、光そのものは柔らかで温かい。
 この独特の光は、闇に浮かび上がる人物たちを照らすだけでなく、その内面をも照らし出す。レンブラントは、モデルの微妙な表情を描写するのに長けている。加えて、かなり大胆な粗い筆捌きが、激しい明暗効果と、人物の表情の機微と相俟って、絵に、人間ドラマという雰囲気を与えている。

 レンブラントは若くして、ヘリット・ダウを含む最初の師弟を取り、その後も工房で数多くの師弟を教えた。が、彼らはみな、初期にはレンブラントに酷似した明暗対比の絵を描きはしたが、次第に色調はより豊かに、筆致はより滑らかに、全体の雰囲気はより優美になっていった。
 結果として、ハルスと同様、レンブラントにも、その様式を継承した画家はほとんどいない。レンブラントが、オランダ絵画において傑出しているのは、そのせいもあるのかも知れない。

 レンブラントは、イタリア・ルネサンスの巨匠たちに模して、自分をファースト・ネームで呼ばせていた。野心満々、アムステルダムに赴き、サスキアと結婚。妻の伝で画商から絵の依頼を得、名声も得た。
 が、一方、サスキアを早くに亡くし、息子ティトゥスの乳母からは婚約不履行で提訴され、さらに、習作すら買い手があったというのに、どういう派手な生活をしていたのか、50歳のときに破産。晩年には、愛人ヘンドリッケとティトゥスに相次いで先立たれ、哀しく淋しく人生を閉じたという。

 画像は、レンブラント「青年期の自画像」。
  レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt van Rijn, 1606-1669, Dutch)
 他、左から、
  「夜警」
  「ユダヤの花嫁」
  「フローラに扮したサスキア」
  「水浴する女」
  「画家の息子ティトゥス」

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夭逝の印象派画家

 

 冬休みになったから、恒例の青春18切符で美術館に行ってきた。私自身、ずっと風邪を引きずっていた上に、相棒もまた風邪やら締め切りやらで、最近までやたらと腐っていたので、よい気分転換になった。
 
 朝5時に出発して電車を乗り継ぎ、天王寺の「魅惑の17-19世紀フランス絵画展」へ。が、私は大阪の難波以南が大々々の苦手。これは、過去に私にひどい目に会わせた輩が蟠踞している地だから、また、かつてそれら輩に具現されていた、その地のごみごみとした景観、行き交う人々の雰囲気、汚らしい言葉使いなど、あらゆるものが、私に俗悪、醜悪な抑圧の空気を思い出させるから、らしい。
 大阪に突入すると、相棒はいつも、「僕がついてるから」と言ってくれる。が、この一言を取ってみても、私たちがいかに互いの二者関係だけに追い込まれてきたかがよく分かる。昔の彼はそういう、相手を甘やかす台詞を言うような人じゃなかったのだから。

 さてさて、絵の話。

 展覧会ではフランス絵画が、バロック期のシモン・ヴーエから、後期印象派以降のマティスまで、通史の形で観ることができた。比較的古い絵が多かったが、クールベやバジールあたりになると、やっぱり来てよかった~、と思えた。
 特に、夭折の画家バジールの絵を、こんなにたくさん、いっぺんに観たのは、初めてだった。

 フレデリック・バジール(Frederic Bazille)は、モネやルノワール、シスレーなどとともに、のちに印象派と呼ばれるグループに参加した画家。絵画史では印象派に括られるけれど、厳密にはバジールは印象派画家ではない。
 普仏戦争で若くして戦死してしまったために、印象派に特有の画風には到ってはいない。どちらかと言うとマネに近い、陰影の少ない平坦な面で描いた絵が多い。
 
 バジールは医学を学ぶ傍ら、グレイルのアトリエに通って絵を描くようになり、そこでモネらと知り合った。若いバジールは大いに感化されたのだろう。彼の絵には、他の画家のような際立つ個性は現われず終まいだったけれど、何か、若い息吹のようなものを感じる。
 新しい絵画の方向を模索し、啓発し合う若い画家たちは、共同生活も営んだというが、実際のところ、この共同生活とは、裕福な家のボンボンのバジールが、無一文のモネらに、自分のアトリエを提供したり、物品を与えたりと、援助しっぱなしのものだったらしい。芸術を愛し、豊かな教養を持つバジールは、多分、モネやルノワールの才能を見取め、誇りとし、新しい絵画の流れを信じていたのだと思う。
 
 普仏戦争に従軍し、前線でのプロイセン軍との戦闘で死んだとき、バジールはわずかに29歳。第一回印象派展には参加できなかった。

 もしバジールが生きていたら……と、よく言われる。彼の絵には人物画が多かったから、羽のような筆致のルノワールの人物画とは異なる、もっと別の印象派人物画が、もしかすると現われていたかも知れない。

 画像は、バジール「芍薬を持ったアフリカ女」。
  フレデリック・バジール(Frederic Bazille, 1841-1870, French)
 他、左から、
  「即席の野戦病院」
  「村の眺め」
  「網を持った漁師」
  「ムーア女」
  「パレットを持つ自画像」

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ギリシャ神話あれこれ:ニオベ一族の最期

 
 身内自慢というのは、私には理解できない感性の一つ。子供自慢は特に、子供を親の私物としているようで、胸糞が悪くなる。自慢はせいぜい、自分自慢に留めるべき。
 私の父は、私が進学したいと言ったとき、「女が大学なんか行かんでええ!」と一顧だにしなかったくせに、いざ進学してみると、それが自慢で、やたら周囲に言い振らしてまわっていた。アホ丸出し。我が親ながら、もー、やー、恥ずかしー。
 
 私はと言えば、幸か不幸か、坊は自慢し得る子供像からは程遠い。子供というのは当然、自然な個性をもって雑草のように勝手にぐんぐんと伸びていく。私も一応親として、絵や音楽や本に触れる機会を与えてはいるけれど、坊の本性は、どうやらコメディアン。せっかくの絵も音楽も、ギャグのネタにしてしまう。
 天性がコメディアンなら、それも仕方がないんだろうか……

 デメテルと同じく、レトもかなり温厚な女神なのだが、やはり怒ると怖い。

 レトは出産後も、双子神を育てさせまいとするヘラ神の執拗な妨害のせいで、諸国を放浪していた。
 あるとき、両腕に双子を抱えたレトは、リュキアという地で、渇いた喉を潤そうと、池の水を飲もうとする。すると村人たちは、意地悪く拒む。レトが丁寧に頼んでも邪魔をし、とうとう、よせばいいのに、池の底を足で掻きまわして泥を立て、水を飲めないようにしてしまう。
 さすがにレトも、喉の渇きを忘れてプチ切れる。で、お前たちは一生をこの池で送るがいい、と呪い、村人たちをみな、カエルに変えてしまう。以来、彼らは水のなかで暮らし、濁声で罵り続けるのだという。

 もう一つ。タンタロスの娘で、テバイの王アンピオンの妃ニオベは、7男7女に恵まれて、子供自慢が度を越えてしまう。あるとき、レト神を侮辱して言ったことには……
 レトにはたった二人しか子供がいない。しかも娘は男みたいだし、息子のほうは女みたいだ。

 腹を立てたレトは、アポロンとアルテミスに命じて、アポロンにはニオベの息子たちを、アルテミスには娘たちを、片っ端から遠矢をかけて射倒させる。彼らの矢は百発百中の正確さで、ニオベの罪のない子供たちを次々と射抜く。
 アンピオン王は悲しみのあまり自殺してしまう。ニオベも子供たちの死を嘆いて泣き続け、とうとう石に姿を変えてしまう。ニオベの化した石塊からは、なお涙が流れるのだという。

 ギリシャの神さまは、絶対にナメたらあかん。

 画像は、ブルーマールト「ニオベ一族の最期」。
  アブラハム・ブルーマールト(Abraham Bloemaert, ca.1564-1651, Dutch)

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ギリシャ神話あれこれ:レトの出産

 
 出産というのは、ホントに痛い。痛いとは聞いていたけど、実際に経験すると、もう二度と産めるものか、と思うくらい痛い。
 私の場合、受験勉強の無理な姿勢が祟って、3ヶ月も入院する切迫早産となり、そのせいで超安産だったのだけれど、それでもバカ痛かった。例えると、でっかい漬物石がお腹のなかに入っていて、それがだんだんに膨張してくる感じ。
 
 分娩室に入る前の浣腸が痛い。陣痛はもちろん痛い。赤ん坊の頭が出てきた頃に、麻酔なしで、ハサミで産道の出口辺りをチョキンと切られるのも痛い。産まれた直後に、その切り込みを麻酔なしで縫うのも痛い。その抜糸がまた痛い。おまけに、母乳を多く出すために乳腺を開く、そのマッサージまで痛い。痛いことずくめ。
 よく、お腹を痛めて産んだ子だから可愛い、と言うが、これは真っ赤な嘘だと思う。そんなら虐待なんて、起きるはずがない。象というのは超難産で(でっかいもんね)、産んだ途端に母象は、自分を苦しめた赤ちゃん象を踏み潰そうとするらしい。それを止めるために、象は群れで暮らすのだとか。 

 私は、痛いのがイヤなので、もう二度と産まないだろうな。坊はブーブー言うけれど。
 
 あるとき、例によってゼウス神は、ティタン神族である夜闇の女神レト(ラトナ)を見初めて、口説き落とす。結果、レトは身籠るが、このときゼウスは、「最も輝かしい双子神を産むだろう」と予言する。
 この予言を耳にしたヘラ神は猛烈に嫉妬し、そんなものを産ませてなるものかと、凄まじい出産妨害に出る。

 ヘラは、一度でも太陽の当たったことのある地は、レトに産所を貸してはならない、と厳命を下す。ヘラのこの呪詛によって、レトは産褥の地を奪われ、身重の身体でさまよい歩く。
 もうダメポと思われたとき、産所を与えるため、浮島であるデロス島が海から浮上する。

 さてさて、この浮島の正体は実は、レトの妹、星の女神アステリア。ゼウスはその昔、レトに手を出す一方で、アステリアにも求愛した。彼女は拒絶し、ウズラに変身して逃げたが、ゼウスも鷹になって追いかける。逃げられなくなった彼女は、海に飛び込み、今度は岩に姿を変えてしまった。
 以来、海中を漂っていたこの島は、今まで太陽が当たったことがない。で、レトは出産の地をここに決める。

 が、ヘラの妨害はそれだけでは終わらない。今度は自分の娘、出産の女神エイレイテュイア(ルキナ)を、オリュンポスの金の雲のなかに閉じ込めてしまう。エイレイテュイアが来なければ、世の女性は誰も出産することができない。で、レトは9日9晩も陣痛に苦しみ続ける(痛いだろーな)。
 レトを囲んでいた女神たちが、見かねて、虹の女神イリスを使いにやって、エイレイテュイアを呼ぶ。エイレイテュイアがヘラの眼を盗んで、デロス島にやって来ると、ようやくレトは、無事赤ん坊を出産できた。

 これが、光明の双子神アポロンとアルテミス。彼らはゼウスの予言どおり、輝かしい、優秀な神となった。

 超難産に耐えて双子を産むなんて、レトは偉いねえ。

 画像は、ヤン・ブリューゲル(父)「レトとリュキアの農民」。

  ヤン・ブリューゲル(父)(Jan Bruegel the Elder, 1568-1625, Flemish)
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メロンのババロア

 
 坊がまだちっちゃかった頃、保育所の入所資格を得るために、実家の隣町にアパートを借りて、坊と二人で住んでいた。が、最初の1、2年は修論やら何やらで忙しく、食事や風呂の手間を省くため、しょっちゅう実家に帰っていた。その距離、自転車で20分。
 実家からアパートまではほとんど一直線の道で、途中に公園やら図書館やらスーパーやらがあった。で、夏になるとその道路脇に、メロンの屋台が出るのだった。
 
 このメロンの屋台、道々に、50メートルくらいごとに、立て看板を置いて宣伝している。この文句が結構笑える。
 まず、「この先300メートル、美味しいメロン販売!」なんて看板があって、次に50メートル先に「キスより甘いメロン!」、さらに50メートル先に「美人には半額!」と続く。一直線の道路を自転車で走っていると、面白い看板が次々と出てきて、けらけらと笑ってしまう。
 そして最後に、ミニバンにメロンを詰め込んだ、茶髪でロン毛のにーちゃんが、汗をかきかき、メロンを売っているのに出くわす。「買ってって~」と声をかけられるのを、笑いながら、スイーッと素通りする。

 ……メロンと言えば思い出す、夏のエピソード。

 さて、ババロアというのは、贅沢なお菓子として有名。アングレーズソース(カスタードソースのこと)と生クリームとで作るのが、ババロアの定義らしい。
 ゼリーの仲間かと思いきや、卵黄や生クリームのせいで、とても濃厚。ドイツのババリア地方発祥のために、その名がついたのだとか。

 緑系のメロンの果肉をたっぷりピューレにして混ぜれば、そのままメロンのババロアになる。キレイなグリーンのババロア、出来上がり。皮の近くまで果肉をほじくったから、ちょっと苦かったけど。
 
 ま、ババロアなんて滅多に作らないから、それはそれで好評だったけど、別にメロンでなくてもよかったかな、というのが正直な感想。メロンって、果物の王さまらしいけれど、わいわい喜んでメロンを食べるのは、実は坊だけ。
 私はもっと甘酸っぱい果物のほうが好きだし、相棒ときたら、「メロンって、所詮、瓜だろ」と言う始末。可哀相なメロン。
 で、メロンのババロアは、もう二度と作らないと思う。

 画像は、モネ「メロンのある静物」。
  クロード・モネ(Claude Monet, 1840-1926, French)
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