縦横無尽の風景

 
 
 「フョードル・ワシリエフ」と検索すると、同名の18世紀ロシアの農夫なる人物がずらりとヒットする。その妻が、27回の出産で69人の子供を産んだ、とある。
 う、う、いくら風景画家フョードル・ワシーリエフが有名じゃないからって、こりゃちょっとあんまりなんじゃないの? アルファベット表記だとトップでヒットするワシーリエフなのにさ。女性は子供を産む道具じゃないぞッ!

 フョードル・ワシーリエフ(Fyodor Vasilyev)は何と言っても、移動派の創立メンバーに名を連ねるロシアの風景画家。で、私の知っているロシアの最早世画家。23歳で結核で死んでいる。
 ワシーリエフの絵は、トレチャコフ美術館展(だったかな?)で来日し、以来、知名度も上がってくれて、素直に嬉しい。私が、ロシアの大地の縦横無尽さを一番感じるのが、このワシーリエフの風景画なんだ。どこまでも広がる空、どこまでも続く地平線。ああ、いつか必ずこの眼で見るよ!

 豊かな詩情をもって、茫漠たる祖国の自然に対する愛情を描き出したワシーリエフ。光と影のうつろい、大気の揺らぎを感じさせるその風景画は、バルビゾン派を思わせる、と解説にはあるけれど、いやいや、バルビゾン派よりも躍動感があって、なのに繊細で、北国らしい、明るい陽光や気温の緩みに対する沸々とした喜びがみなぎっている。
 移動派以降のロシア風景画がリリカルなのは、多分にこのワシーリエフの影響なのだという。

 貧しい下級官吏の家の庶子(両親は彼を出産後に結婚)。生活のために子供の頃から働いて、しかも父親が早くに死んでしまったものだから、一家の養い手としてますます働いた。
 が。美術学校の夜学に在学中、彼の姉と恋仲になった“森のツァーリ”シシキンが(二人は後に結婚している)、義弟のために直々に風景画を教えるようになる。このときワシーリエフ16歳、シシキン34歳。
 ……シシキンの最初の奥さんて、結構早くに死んでるんだよね。う~、夭折の一家だな。

 シシキンやクラムスコイらに連れ出されて戸外で制作し、めきめきと上達する“天才少年”ワシーリエフ。自分を凌駕する勢いのワシーリエフに、シシキンは、コンクールで彼に勝とうと何度もちんけな策謀をめぐらして、ワシーリエフに責められっぱなしだったとか。……意外に姑息な“森のツァーリ”。
 移動派の創設にも参加し、瞬く間に人気の出たワシーリエフだったが、結核になってクリミアへ療養に。最初は馴染むことができなかった、その山がちの風景を、ようやく描くようになった矢先に、死んでしまった。

 ああ、私の拙いロシア文学の表象に、果てしない大地の具象イメージを植えつけたワシーリエフ。せめてシシキンくらいに知られて欲しい。

 画像は、ワシーリエフ「雷雨の前」。
  フョードル・ワシーリエフ(Fyodor Vasilyev, 1850-1873, Russian)
 他、左から、
  「雪解け」
  「川にて、風のある日」
  「ボルガの荷舟」
  「サンクトペテルブルクの灯火」
  「クリミアの夕べ」
       
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雪の祖国の追憶

 
 
 ロシアではポスト革命期以降、芸術に対して、芸術そのものとは別の、ある外的な、平たく言えばイデオロギー的な、意義が付与されるようになった。
 文化というのは過去から現在へと連綿とつながっているもので、外からブチッ! と切断されたりすれば、文化の担い手たちはどうしていいやら訳が分からず、ただ右往左往するばかりだろう。
 突如持ち出された新しい美意識に、器用に適応できた者もいれば、そうでない者もいて……ソ連時代の芸術家は、収容所に送られたくなければ、作品を発表しないか、指導部の要求と折り合いをつけながら作品を追求するかだったという。

 そんなソ連で出世した画家が、イーゴリ・グラバーリ(Igor Grabar)。画家というより評論家で修復家。ソ連美術界のエスタブリッシュメントのトップに君臨した重鎮で、社会主義リアリズム(socialist realism)を代表した。

 父母も祖父母も、オーストリア=ハンガリー帝国でスラブ解放運動に身を投じた活動家。一家でロシアに亡命後、ここがグラバーリの祖国となった。しかし、何という祖国だっただろう。
 大学で法律を学んだ後に絵に転身。アカデミーではレーピンに師事し、生涯敬愛し続けたというが、画家としては別のスタイルを模索した。パリを旅行し、同時代のヨーロッパ絵画を知ると、アカデミーの無味乾燥な教育にもはや耐えられなくなり、ミュンヘンへと旅立つ。仲間は、アカデミー同窓のヤウレンスキーたち。

 頻繁にパリを訪れ、パリのモードを吸収した彼が、最も影響を受けたのは、印象派、さらに新印象派。
 ピサロを思わせる陽光の冬景色。忘れがたい雪原の情景。これがあるから、彼はロシア絵画史に画家として名を刻むことができた。 

 この間、美術評論家としての地位を確固とし、画家兼評論家として「芸術世界」に参加。が、リーダーのディアギレフとはお互い、ビジネスライクな、都合の好い存在同士だったという。
 いろいろあっても、グラバーリが画家として輝いていたのはこの時期までで、革命前後、絵を描くのプッツリとやめてしまう。ロシア美術史の本や論文を執筆し、トレチャコフ美術館の館長、モスクワ大学の絵画修復の教授を務め、中央修復工房を監督し、云々。
 そうした分野では個人的にスターリンに助言するだけの位置にあり、画業復活後の精彩を欠いた肖像画や歴史画を称えられて、ソ連人民芸術家に認定された。

 どこにたどり着いたのだろう。偉くなっても、描けただろうか、あの頃のような祖国の風景を。

 画像は、グラバーリ「霜」。
  イーゴリ・グラバーリ(Igor Grabar, 1871-1960, Russian)
 他、左から、
  「湖にて」
  「光線」
  「冬の朝」
  「九月の雪」
  「朝のお茶」
       
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現代のイコン

 
 
 クジマ・ペトロフ=ヴォトキン(Kuzma Petrov-Vodkin)は、私に“ソ連絵画”のイメージを最も髣髴とさせる画家。私の稚拙なペトロフ=ヴォトキン知識と、私の偏狭な社会主義理解とが合わさると、そうなる。

 画風から言えば彼は、若い頃から象徴主義の画家だった。それが、世界観がガラリと変わった革命後ソビエトの社会でも、そのまま通用した。
 が、スターリンのイデオロギーには合致せず、その死とともに忘れ去られた。

 ペトロフ=ヴォトキンの絵にはイコンの美学がある、と言われる。デコラティヴでモニュメンタルで、その上、病的に思索的で、同性愛的にエロチック。……別に彼は、特に病気というわけでも、同性愛者というわけでも、なかったらしいのだが。

 サラトフ地方の靴職人の家の生まれ。父親が靴職人というのは、よく眼にする。クインジもそうだったし、スターリンもそうだった。
 幼い頃から絵を描くのが好きで、イコン画家になるつもりでいたところ、母親の雇い主が招いた建築家に紹介され、そのデッサンを感心されて、サンクトペテルブルクに絵の勉強においでなさい、と誘われて……という、なぜかよくある幸運のパターン。
 サラトフ在住のボリーソフ=ムサートフに会いに行き、絵の勉強を続けるよう激励された彼は、地元の商人たちから寄付を募り、出立する。が、君はイコン職人ではなく画家になるべきだよ、と教師に勧められ、すぐにモスクワの美術学校へと転校。

 なのにときどきためらった。画家になろうか、それとも作家になろうか。彼は小説を書いていた。彼の絵が思索的なのは、彼が著述する人間だからかも知れない。
 ミュンヘンに留学し、イタリア、パリを周遊して、当然ながら結局絵の道に進んだが、それでもやっぱり迷っていた。

 ペトロフ=ヴォトキンという画家は、滅多に自己を規定しなかった。探求の姿勢も成果も誇示せずに坦々と探求し、あとは周囲が解釈、議論するに任せた。
 彼が描いた「夢」という絵は、一方でレーピンが、これぞ最新のデカダンだ! と叱責し、他方でブノワが、古典美の表現主義的解釈だ! と称賛したことで、当時の画壇を二分して激しい論争を引き起こした。結果、当のペトロフ=ヴォトキンには名声が転がり込んだ。
 が、彼自身は何の弁明もしなかった。いや、僕はただ風変わりなだけなのだ、と言って。

 彼は探求する。ロシア正教のイコンの美を、彼ふうの特異な解釈でもって表現する。赤、青、緑、白等の原色に近い衣装や背景。人間の肌だけが肉色をしていて、フレスコ画的な質感のよそよそしさが、却って不敬なほど艶めかしく色っぽい。
 彼はなお探求する。伝統的な遠近法とは異なる、ビザンチン遠近法(イコンにおける逆遠近法)から来る“球面透視図法(spherical perspective)”を用いた、コンポジショナルな歪んだ空間。状況を説明する遠景は、素粒子間の相互作用のような確かさで、独特のねじれによって、迫り来る近景とつながっている。そのつながりは観る者を巻き込み、彼らの視覚に世界を突きつけ、やがてすべてを崩壊させ消滅させる時間の不安さのなかに置き去りにする。

 革命後はプロレタリアートを描き、肺結核で絵から遠ざかると再び文筆に舞い戻って、自伝的小説を書いたという。
 1932年、スターリンは、現存するすべての文学・芸術団体を解散し、統一組織に改組するよう命令する。革命後芸術が終わりを告げ、ソビエト芸術の時代が到来するなか、ペトロフ=ヴォトキンは死に、忘れられていった。

 画像は、ペトロフ=ヴォトキン「ペトログラードの聖母」。
  クジマ・ペトロフ=ヴォトキン(Kuzma Petrov-Vodkin, 1878-1939, Russian)
 他、左から、
  「赤い馬の水浴」
  「水浴者たちの朝」
  「人民委員の死」
  「棺のなかのレーニン」
  「朝の静物」

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わが生涯は古都とともに

 
 
 ロシアって、金だの銀だの時代が続いたのだから、その間、もっと女性の画家が多くいてもいいように思うのだが、思うほど多くは見当たらない。

 アンナ・オストロウモワ=レベジェワ(Anna Ostroumova-Lebedeva)は、ナターリヤ・ゴンチャロワやジナイーダ・セレブリャコワら同様、ロシア女流画家の最初の一人。サンクトペテルブルクで生まれ、サンクトペテルブルクの風景を描き続けて、サンクトペテルブルク(=レニングラード)で死んだ。

 同地、高級官僚の家庭の生まれ。やっぱりこの時代、ロシアでは、良家の子女しか絵の道に進めなかったみたい。

 アカデミーで本格的な美術教育を受けた、れっきとした技術を持つ画家なのに、その作品が版画と水彩画ばかりなわけは、アレルギー体質の彼女は、油彩の画材(おそらく油)に接すると、命に関わるほどの喘息の発作を起こしたため。
 こういう画家にこれまで出くわさなかったのが不思議だった。私も油絵の油で、息ができなくなる症状が出たことあったんだ。くッ 油め!

 オストロウモワ=レベジェワは、ロシアで最初に日本の浮世絵を学んだ画家なのだという。アカデミーではレーピンに学ぶが、在学中のこの時期、サンクトペテルブルクで開催されたらしい、日本美術の展覧会に、彼女はドカンとショックを受ける。
 リズミカルな線とカラフルな色彩で描かれた簡略な平面に表わされた、神秘的で幻想的な浮世絵の世界。西洋の油彩画とは異なる造形。油を使わなくても、こんなふうに世界を表現できるんだワ!
 浮世絵に魅了された彼女は、そのせいかどうかは分からないが、アカデミーでの勉学半ばにパリへと旅立つ。パリではジャポニズムを愛する、かのホイッスラーに師事、初めて版画を制作した。
 さらにレオン・バクストのもとで水彩画の技法を磨き、芸術世界展に版画を出展。20世紀初頭、「芸術世界」が確かなものにしたジャポニズムの流れに先立った。

 サンクトペテルブルクとその近郊の、古典的な建築群を取り上げた、ほとんどモノクロームの風景。壮麗で崇高で、しっとりとした静寂とノスタルジックな哀愁を伴う、半ば心象の古都の情景。
 西欧各国を頻繁に訪れ、遠い日本の趣向にも惹かれた女流画家は、故郷の街をこんなふうに彫り込んだ。思い切った構図と線描、淡彩のような柔らかな色調が絶妙な、版画でなければ表現できない詩的な絵があるものだが、オストロウモワ=レベジェワの絵もそういう絵。
 ああ、故郷サンクトペテルブルク。お前はこれからどこへ向かうのだろう。

 革命後はいろいろな美術学校で教鞭を取り、人民芸術家の栄誉称号を得ている。
 大戦中は包囲されたサンクトペテルブルク(=レニングラード)に留まり、制作を続けた。

 画像は、オストロウモワ=レベジェワ「春の主題」。
  アンナ・オストロウモワ=レベジェワ
   (Anna Ostroumova-Lebedeva, 1871-1955, Russian)

 他、左から、
  「エカテリーナ運河」
  「雪の海軍省」
  「冬の夏庭園」
  「鎖橋」
  「パリの花火」

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荒涼の大都市

 
 
 絵はもちろん何を描いても、どう描いてもいいわけで、美しいものよりも醜いものを主題として選択したり、美しい表現ではなく醜い表現で描出したりする画家もいる。その醜さは、自然的なものもあるし、社会的なものもある。
 ムスティスラフ・ドブジンスキー(Mstislav Dobuzhinsky)という画家は、ロシアには珍しい、モダンな大都市の風景を描き続けた画家。こういう絵を描く画家はアメリカ行きだな、と思ったら、やっぱり後年渡米している。

 陸軍士官の家に生まれたせいか、大学では法律を専攻しているが、もともと絵が好きでデッサン学校に通い、在学中も画塾に通い、さて、卒業するとやっぱりミュンヘンに留学する。
 同地で、ジャポニズムとユーゲントシュティールの洗礼を受け、ロシア芸術家コロニーの面々と交流し、サンクトペテルブルクに帰ると、ミュンヘンの同窓イーゴリ・グラバーリと同様、「芸術世界」に参加した。

 18世紀ロココの典雅なる美を崇拝する芸術世界派にあって、ドブジンスキーの美意識は随分と異質だった。彼が描こうとしたのは、20世紀初頭、産業化を経たロシアの大都会の風景。

 まるで怪物のように爆発的に出現、成長、拡張、発展し、堕落、腐敗、衰退、崩壊していく大都会。古典的な威容の建築群から成るコンポジションだったその大都市は、今や、都会化されたものが帯びる醜悪さ、不快さ、下品さ、物騒さを併せ持ち、その醜怪さを体現したような小鬼のような生き物どもが内に住まう。
 みすぼらしく見苦しく、惨めで痛ましく、気が滅入るように侘しい、現代の荒涼と不穏と孤独。同じ時代の同じサンクトペテルブルクの情景なのに、アンナ・オストロウモワ=レベジェワの詩的な世界とは似ても似つかない。
 あはッ、私、こういう類の絵って、良さがよく分からないんだ……

 革命前後もさまざまな美術学校や工房で教えたり、舞台美術を手がけたり、本や雑誌の挿絵を描いたり、美術見聞や個展開催のために外国を旅行したりしている。彼は優れた教育者で、その若き生徒の一人、“ロリータ”で有名なナボコフとは、数十年にわたって手紙をやり取りしたという。

 もともとリトアニアの家系だった彼は、やがてリトアニアへと去る。そこでも相変わらずの活動を続け、あんなアンチ資本主義チックな絵を描いていたのだからソビエト政権下でも特に迫害なんてなかったんだろう、と思いきや、1939年になってアメリカ合衆国に亡命している。これは、ナチス・ドイツのポーランド侵攻で第二次大戦が始まった年。
 大戦中は、包囲されたレニングラードの風景を、空想によって描いたという。ニューヨークで死去。

 画像は、ドブジンスキー「都会のしかめっ面」。
  ムスティスラフ・ドブジンスキー(Mstislav Dobuzhinsky, 1875-1957, Russian)
 他、左から、
  「サンクトペテルブルクの小さな家」
  「ビルノのバス」
  「ビルノのガラス職人通り」
  「サンクトペテルブルクの小屋」
  「床屋の窓」

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