いらち(続)

 
 でも、坊の理性が当てになるわけじゃない。自制心のなさは、まだまだ相当なもの。坊の自制心喪失がポピュラーに現われるのが、カッとなると咄嗟に吐く暴言。
「死ね!」
 
 死ね、か。これまた誤解を有する厄介な言葉。学校じゃ、未だに「死ね、なんて言葉、絶対に口にすべきじゃない」とかいう道徳的な説教をしているよう。
 が、私にはその手のモラリスティックな説教はできない。実際、今の社会には、死んだほうが世の中ずっと良くなる人間て、たくさんいる。

 だから、取りあえずこう教えている。……仮に、死ね、と思っても、もちろん殺しちゃいけない。それに、カッとなったときに口にしちゃいけない。死ねという言葉を口にするときには、もっと理性的に、理性の上で、責任を持って、口にしなくちゃいけない。
 ……こんなふうに教え諭して、いつかは理解してもらえるのだろうか。

 先日、坊はベランダに出て、なんだかんだと怒鳴っていた。おいおい、また例の、いらち、じゃないだろうねえ。……耳をそばだてて聞いてみると、「やめろ! 糞爺い! 警察に通報するぞ!」と叫んでいる。
 それから、ドドドと部屋に入ってきて、私に訴えた。
「どっかの爺いが、嫌がってるのに、ちびこい孫の頭つかんで、がつんと殴ってから、車に叩き込んでたんだ! 死ねばいいんだ、あんな爺い!」
 そして付け加えた。
「よく考えて、死ね、って言ったもん」
 
 う~む。正義感を持ってくれるのは嬉しいし、間違ったこと言ってるわけでもないが、世の中、逆恨みされて、リベンジされる可能性もあるんだから、もちょっと理性を働かせて欲しいなあ。
 
 カッとなったら口に出す習性なんて、そうそう治るもんじゃない。とほほ。

 画像は、モリゾ「薔薇園の子供」。
  ベルト・モリゾ(Berthe Morisot, 1841-1895, French)

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いらち

 
 うちの坊は、京都の言葉で言うところの「いらち」。短気で、すぐに怒り出す。
 これは父親譲りだから、坊にとっては不運だった。本人、かなり自覚していて、なんとか大脳新皮質を発展させて、持って生まれたこの気質を制御しようと、涙ぐましい努力をしている。

 保育園の頃は、いつも身体に歯形をつけて帰ってきた。保育園では、坊に限らず、すぐに手を出し足を出しの喧嘩が起き、最後の最後には噛み合いとなる。
 で、子供たちの腕にはちっちゃな歯形が残る。坊もよく噛み合いの喧嘩をした。

 が、小学生になると、徐々に知能が向上し、すぐに暴力に訴える行動は減ってくる。うちの坊も、1年生の頃にはまだひどく手が出ていたが、その都度言い聞かせ、今じゃ一応手は出なくなった。
 こういうことは、本人自身がその意味を納得し、認識化しなければ、直るものではない。子供が暴力に出ても、親は殴ってはいけない。脅してはいけない。が、これにはかなり忍耐が必要。
 
 で、うちの坊も、3年生頃までは、相手を殴らずとも「殴りたい」気持ちは多々あったが、最近じゃ、「殴りたい」気持ちそのものも、あまり起こらなくなってきているらしい。
 ……普通の人には当たり前のことだけれど、これは、坊のような気質を持った人間にとっては、おそらく物凄い進歩なのだろう。

 To be continued...

 画像は、カサット「麦藁帽子をかぶった子供」。
  メアリー・カサット(Mary Cassatt, 1844-1926, American)

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奔放な女画家

 

 シュザンヌ・ヴァラドン(Suzanne Valadon)は私と同じで、未婚のまま非嫡出子のユトリロを産んだ。この点、なんだか親近感がある。が、恋多き女性で、誰がユトリロの父親だか分からないほどだと言う。このあたり、私とは随分と違ってるな。

 ヴァラドン自身、未婚の洗濯女の娘で、貧しいためにサーカスの曲芸師をやって暮らしていたという。眼を見張るような美人で、画家たちのモデルとなるうちに、画家にならって自分も絵を描き始めた。
 ドガやロートレック、ルノワール、シャヴァンヌなどのモデルを務め、彼らすべてと関係を持ったのだそう。ユトリロをほったらかして、いつも男性と、安酒場に足繁く通っていたのだとか。う~むむむ。

 ユトリロの父親については様々な憶測があるらしい。けれど、ヴァラドンが口をつぐんでたのだから、周囲には知りようがない。
 まるで子供なんていないかのように、女性として奔放に生きたヴァラドン。絵に恋に忙しく、ユトリロ坊やを構わず終いだったけれど、ユトリロに対する愛情だって、ま、彼女なりにあったのかも知れない。ヴァラドンは、ユトリロ少年のデッサンをたくさん残している。

 ヴァラドンの絵は力強さを感じる。明るい色彩を用いるが、タッチのせいか、印象派のようなきらめきはなく、その分、絵には色彩本位の鮮やかさがある。
 どういうわけか私は、ヴァラドンのようになら描けそう、と思ってしまう。

 画像は、ヴァラドン「マリー・コカとその娘」。
  シュザンヌ・ヴァラドン(Suzanne Valadon, 1865-1938, French)
 他、左から、
  「コントラバスを弾く女」
  「布の上に座るラミノー」
  「捨てられた人形」
  「ソファに横たわる裸婦」
  「花のある静物」

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       アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック

 
     Bear's Paw -絵画うんぬん-
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背後霊

 
 この数日間、へこんでいた。理由は、坊が万引きをしたからだった。

 なんだ、万引きくらい。子供の頃、誰でも一度やったことのある経験じゃないか。
 ……と、言われそうだが、実は私は、万引きをしたことがない。だから、万引きした子供のスリル、羞恥、後悔などの気持ち、それら全部がよく分からない。

 が、私は万引きしなかったのではない。できなかったのだ。別に、常に清く正しくありたい、という信念を持っていたわけじゃない。犯罪を犯してはならない、というモラルや規範が強かったわけでもない。両親や兄弟に迷惑をかけたくない、という家族愛でもなければ、厄介事は避けたい、という保身でもないし、曲がったことはしたくない、という良心ですらない。
 私が万引きできなかったのは、どちらかと言えば恐怖からだった。私は子供の頃、自分の背後には強力な守護霊がいて、私を常に見張っていると思い込んでいたのだ。

 私が生まれたとき、父だか母だかが占い師に私を見せ、こう言われたとか。
「この子は、最強の守護霊に護られている」

 多分、偶然なのだろうが、実際に私は生まれてこの方、悪運だけはとてつもなく強かった。神さまに願ったことは、ほとんどなんでも実現した。
 私は頻繁にではないが、安易に神さまをこき使った。例えば、クラス替えの前日、「あの人とこの人と、一緒のクラスになれますように」と頼めば、その全員と同級になれたし、「あの人が私を好きになってくれますように」と頼めば、そうなった。……だから私は自分でも、本当に自分が最強の守護霊に護られているのだと思っていた。

 姓名判断をすれば、これまた最強の運勢が返ってきた。手相を見てもらえば、とてつもなく強運だと言われた。ただしその運とは、私が生きる上で、どう生きようと「生き延びる」、「援助者に困らない」、「誰からも倒されない」、というもので、「有名になる」とか「金持ちになる」とかの世俗的な成功ではないのだそう。

 で、話を戻すと、私が万引きをできなかったのは、常に背後に見えざる監視者がいたせいなのだ。だからあまり自慢にならない。
 坊の教育に力を割かなきゃならない。子供は、懲罰を与えても同じことをより巧妙に繰り返す。だから、子供自身の認識化を進めなきゃならない。

 画像は、ドルチ「守護天使」。
  カルロ・ドルチ(Carlo Dolci, 1616-ca.1686, Italian)
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高慢と偏見

 
 オースティン「高慢と偏見」は、田舎町の淑女リジーが金持ちのハンサムな貴公子ダーシーと、誤解や曲折を経た後めでたく結ばれる、一種のシンデレラ・ストーリー。
 
 ロンドン郊外ロングボーンに住むベネット一家の隣りに、青年貴族ビングリーが引っ越してくる。
 ベネット家の美しく優しい長女ジェーンと気さくで朗らかなビングリーは互いに恋に落ちる。一方、才気あふれる次女リジーは、ビングリーの親友ダーシー、彼は名門の当主、資産家、ハンサムと三拍子揃ってはいるけれど、気位が高く気難しいため、彼に反感を抱く。すれ違い続ける二人だが、結局は互いの偏見や自分の自尊心に気づき、結ばれる。

 2、3の家族同士の交流という狭い世界で物語が展開するくせに、登場人物がやたらとうじゃうじゃ動きまわって、ちょっと騒々しい。ジェーンとビングリーの恋模様はよしとして、低俗な母親、行儀の悪い妹たち、自惚れの過ぎる従兄あたりになると、げんなりする。

 面白かったのは、リジーが、いけ好かない、高慢ちきの気取り屋と思っていたダーシーに、寝耳に水の唐突さで告白されるシーン。そう言えば、それまでダーシーについては、リジーらの眼線から描写されていたので、この思いがけなさは読んでいる側もリジー同様なわけ。

 突然ダーシーが不器用に切り出す。言わなきゃいいのに、いくら好きでも家柄が違う以上、そう簡単に結ばれるわけにはいかない、とまで説明し始める。
「随分抑えに抑えたんですが、駄目なんです。ねえ、どうか言わせてください、どんなにあなたを熱愛しているか」
 リジーのほうは開いた口が塞がらないが、真っ赤になって怒り出し、ぶしつけに断る。
「こうした場合、同じ気持ちはお返しすることができませんにしても、受けた愛の告白に対して、一応お礼を申し上げますことが世の作法だくらいのことは、私だって分かっていましてよ。もし本当にありがたいとさえ感じましたらね、でもそれが駄目なんですの」
 
 こういうカップルって、上手くいくもんなんだよね。はははー。

 画像は、ボニントン「髪を結う貴婦人」。
  リチャード・パークス・ボニントン(Richard Parkes Bonington, 1802-1828, British)
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