ノルウェー・リアリズムの旗手

 

 私みたいな極東人の眼からすれば、近代北欧の絵は多かれ少なかれ、どの時代のどの画家の絵も、民族主義(Nationalism)の芳香がする。ノルウェーの絵もそう。氷食によるフィヨルドや湖、その鏡のような水面、針葉樹の森や山野草の花畑、赤く塗った木造小屋、白夜と夏至祭、薄い金髪に黒、赤、白の民族衣装、……などなど。
 が、解説によれば、19世紀後半、写実主義の時代には、ノルウェー絵画は激しく対立する二つの流れがあって、そのうちの一つは民族主義に対して強く警鐘を鳴らしていたのだとか。へー、そーなんだ。

 詳しくは調べていないが、一方はクリスティアン・クローグの流れで、こちらは過激で国際派。もう一方はエリク・ヴェレンショルの流れ。こちらは逆に、リベラルで民族派。
 絵を観るかぎり、取り上げるテーマやそこに籠めた主張が違うだけのようにも思える。が、リアリズムという時代が時代だけに、対立の激しさには、ま、政治的背景もあるのかも知れない。

 このうち、ノルウェー写実主義の画家として有名なのは、前者、クリスティアン・クローグ(Christian Krohg)のほう。
 彼のほうが有名なのは、彼がかのムンクの師匠であるとか、国際主義だったとか、そういう事情もあると思う。が、やはり多くは、クローグのクールベ的な、リアリズムに対する自負と直進的なスタイルとに拠るのだろう。

 クローグは法律の学位を取得後、本格的に絵を学び、やがてベルリンへ。ベルリンでは総じて、哲学的、社会的、政治的な問題意識を強くする。この時期、極貧の生活を送ったことも手伝って、都市の下層民の日常生活の現実を記録することが、社会批判の立場に立つことだという、リアリストの思想を会得。
 パリではヴェレンショルら、他のノルウェー画家たちと合流するが、ミュンヘンから移ってきた彼らとは反りが合わなかったのだろうか。帰国後は、ノルウェー農村の伝統的な風景や生活を描く彼らの民族主義を批判する。
 ヴェレンショルらの絵が牧歌的なムードを持つからと言って、彼らが無告の民の生活苦を見ていないわけではないと思うのだけれど。……クールベ的な傲慢、視野を広く持てと説教する側の視野の狭さを、感じないでもない。
 
 が、クローグはクローグで一貫していて、自己の信念のもとに絵を描いていた。彼はジャーナリストでもあったし、作家でもあった。娼婦をテーマに小説を書いてスキャンダルを巻き起こし、警察沙汰にもなっている。
 明るい色彩にも関わらず、彼の絵は暗い。そこには嘆息と諦観、そしてささやかな喜びが描かれている。

 画像は、クローグ「眠る母と子」。
  クリスティアン・クローグ(Christian Krohg, 1852-1925, Norwegian)
 他、左から、
  「三つ編み」
  「身繕い」
  「病める少女」
  「ロフォーテンからの手紙」
  「レイフ・エリクソンのアメリカ発見」

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日本のバルビゾン画家

 

 相棒は何かにつけて、親父ギャグを考案する。で、相棒の考えた謎々を一つ。
「ディープ・キスしそうにない画家は誰?」
 ……答えは、「浅井忠(=浅いチュー)」。ははははは。寒。

 今年の五月頃(だったと思う)、デパートで開催されていた「浅井忠展」に行った。デパートのギャラリーは、こじんまりとまとまっている点が良いのだが、時間つぶしに買い物にやって来たオバサン集団が、ついでにギャラリーまで足を運んで、ペチャクチャ喋るのでコマルトフ。寒。
 日本の洋画には疎い私だけれど、それでも何人か好きな画家がいる。浅井はその一人。

 浅井忠(Chu Asai)は黒田清輝とともに、近代日本洋画界の先駆者と言われる。佐倉藩士の長男で、幼少時には武芸や儒教など武士道を仕込まれ、花鳥画の手ほどきを受け、父亡き後は家督も継いでいる。が、時代は明治維新前夜。
 近代化の流れのなか、浅井は工部美術学校の1期生として入学。指導にあたったのは、バルビゾン派画家らと交流のあったアントニオ・フォンタネージ。浅井はフォンタネージから、本格的な美術教育を受けると同時に、自然観察にもとづく写実描写、そこに漂う、自然への回帰としての農村生活に対するロマンティックな憧憬、というバルビゾン派の特徴をも受け継いだ。

 画家としては幸運なスタート。だが、日本の伝統美術を否定する欧風化の反動で、今度は日本の伝統美術が称賛され、洋画のほうは否定される苦難の時代がやって来る。行き場を失った浅井は、日本各地を転々としながら風景をスケッチし続けた。

 やがて、日本の洋画界も徐々に認知されるようになる。この時期浅井は、日本の農村風景を瑞々しい印象で描いている。浅井が本領を発揮した絵は、虚飾がなく、さり気がなく、地味で渋くて、さらりとしている。
 東京美術学校の洋画科の復活に伴い、浅井は教授に任命される。が、すぐにフランスへと留学。このとき、スカンジナビア画家たちの芸術家コロニーとして知られる小村、グレー・シュル・ロワンにも滞在し、その風景の数々を残している。

 帰国後は、隠遁の気持ちもあったのだろうか、東京には戻らず京都へと移り住み、後進の育成に努めた。

 この夏、ロンドンがボツになったので、代わりにどこへ行こうかと、いろいろ調べてみたら、日本にも絵になりそうな風景が結構あった。日本にいるあいだに、旅してまわっておこうと思う。

 画像は、浅井忠「春畝」。
  浅井忠(1856-1907, Japanese)
 他、左から、
  「グレー風景」
  「グレー風景」
  「収穫」
  「秋郊」
  「小丹波村」

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いじめの蔓延

 
 最近、いじめによる自殺が話題になっている。自殺に到るのがごぐ一部であることを考えれば、いじめ自体は蔓延していると見ていい。
 抑圧は抑圧を再生産する。抑圧を断ち切るには、時間をかけないほうが効率がよい。つまり子供に、抑圧の意味を理解させ、抑圧を断ち切る力を(その条件も含めて)与えるのが、一番早い。……というのが、世界の見識者たちの共通の結論。
 
 相棒に教えてもらったことだが、人間社会の自由の発展は、その抑圧の領域を狭めていくことで自由の領域を広げることによって、得ることができる、というアマルティア・センの考え方が、どうやら正しいらしい。人間社会には常に抑圧が存在することを前提すれば、そういう考え方に落ち着く。
 同様にいじめ問題も、いじめは必ずあるという前提に立ち、いじめが生じた時点で一つ一つ対処していくことによってしか、改善の道はないように思う。もし、いじめの事実を確認していない、などと学校側が言おうものなら、その時点で、学校もまたいじめを黙認し、いじめに加担するわけだ。

 もう一つ、どんな理由であれ、いじめる側に非があること。英語では、いじめられる側は「被害者(victim)」という。

 いじめを受ける人が自殺に到る理由の一つは、いじめられる社会関係、人間関係だけを、すべての世界だと思い込んでしまう、視野の狭さにあるのだろう。が、自殺にまで追い詰められる心理というのは、視野の狭さだけではないと思う。
 例えば、犯罪被害には「二次被害」というものがある。直接の被害を受けた後に、その加害行為について社会的な解決がなされない時点で、「加害者の酌量の余地」や「被害者の非」などを第三者から持ち出されることで受ける、精神的苦痛のことをいう。この「二次被害」による精神的苦痛は、私自身の経験で言えば、最初の被害におけるそれとは比べものにならないくらい甚大となる。

 周囲がいじめを、加害・被害関係としてはっきりと捉えないなら、いじめを受ける人の心理は多分、「二次被害」に似たものとなるだろう。そうだとすれば、苦痛は無限大だ。
 いじめが必ずあるという前提に立つ時点で、同時に、いじめる・いじめられる関係は加害・被害関係であるという前提をも周知とすれば、それだけでも、対処の方向性ははっきりすると思う。

 けれども、刑事犯罪行為を含むいじめなら、対処は比較的容易かも知れないが、集団ネグレクトのようないじめだと、多分、根絶はできないだろう。
 弱い者が、より弱い者へと抑圧を転嫁させていく。子供は最も多く皺寄せを受ける。加えて、集団性、共同性とは、人間の最も原始的な属性だ。知力の発展途上では、まだまだそれが前面に出る。そして日本の場合、社会自体がいじめ社会なのだから……
 
 いじめ社会は、うわさ社会にねたみ社会。総じて抑圧社会。そしてストレス社会、喫煙社会。リアリズムの欠落した、間主観的なイデオロギー社会。ついでに、サル社会に最も近しい社会。
 ゲロゲロゲ~。

 画像は、ジェローム「日本の神仏への祈願」。
  ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Leon Gerome, 1824-1904, French)
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ファウストのメッセージ

 
 亡き友人からの影響で、私は高校のとき、ゲーテ「ファウスト」を読んだ。けれども、その意味はあまりよく分からなかった。
 
 メフィストフェレスは、理念や理想を理解しない悟性の存在だ、というふうな記述がある。「悟性」とは、対象を理解・把握する能力。それに対して「理性」とは、悟性による判断から総合的に論証・推論する能力なのだという。

 これら「悟性」、「理性」という概念は、どうもドイツ観念論のどえらい哲学者カントが展開したものらしい。が、学生のとき、院生のハーゲン氏に言われた。
「そりゃ、お前、カントじゃないぞ。ヘーゲルが展開して、エンゲルスが決着をつけた問題だぞ!」
 こうした成り行きで私は、唯物論だの弁証法だのを勉強するハメになった。
 だけど結局、「悟性」と「理性」については、今でもよく分かっていない。やっぱりカントのほうをやっとけばよかった。

 分からないから、私の小説のテーマに即した「ファウスト」の解釈をまとめておく。メフィストつまり悪魔の眼が「悟性」、神の眼が「理性」に重なる。

 悪魔は人間ファウストの魂を神に所望する。
 神はそれを許可する。
 
 悪魔は言う。――人間は常に苦悩する、弱く愚かな存在だ。
 神は答える。――苦悩は、歩みを止めた人間には、あり得ないものだ。

 悪魔は狡猾な眼で嘲笑う。――苦悩している。苦悩している。
 神は怜悧な眼で微笑む。――苦悩している。だが歩んでいる。

 悪魔は、今この瞬間に苦悩している人間ファウストに囁く。
 ファウストは答える。――私が、今この瞬間に、幸福を見出すことができたなら、私の魂をお前に捧げよう。

 ファウストは苦悩し続ける。が、人生の最期の瞬間に、悪魔との契約の言葉を叫ぶ。
 ――時間よ、止まれ。お前は美しい。

 悪魔は哄笑する。

 だがファウストの魂は、神のもとへと召される。
 悪魔は、苦悩する現在に幸福を見止めたファウストの魂を、手に入れることができなかった。

 悪魔の眼は、人間が苦悩する現実しか見なかった。
 神の眼は、人間が苦悩する意味を見ていた。

 画像は、レンブラント「ファウスト」。
  レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt van Rijn, 1606-1669, Dutch)

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神と悪魔 その2(続)

 
「じゃあ神さまは、本当になんにもしてくれないの?」
「なんにも」
 だが、そうした内的な太陽は、神という存在を拠り所にして、輝き続けるのではないだろうか。私がそんなようなことを反論すると、彼は「かもね」と、あっさり認めた。
「神の存在に頼ることで自分に忠実に生きていけるなら、それはそれでいいよ。でも神に頼らなくたって、自分に忠実に生きていける人はいる。そういう人は、もともと自分のなかに神を持ってるんだ」
「あなたのなかには、神さまはいるの?」
「分からない」

 こういうとき、彼の顔には不意に、青空のなかのひとはけの雲のように、慰めようのない影が浮かぶことがあった。そんなときの彼の横顔は大人びて見えた。そして私は、ああ、この人には自分などは太刀打ちできないのだ、と、いつも思うのだった。
 このときのことを思い出すたびに、私にはなぜか、川面と、彼の投げ込んだ小石の飛沫と波紋、それが流れに掻き消されていくさま、小石だらけの川床、そして流れに逆らって滑走するあめんぼ、という一連のシーンが、眼に浮かぶ。

 彼はこう言った。「神の眼は信じてるよ」と。
 
 神は悪魔と違い、もっと広く、深く、遠くを見通す眼を持っている。悪魔には現在しか見えない。人間もだ。
 が、悪魔は現在の人間を否定するが、人間は、最後にはそれを肯定する。「時間よ、とまれ。お前は美しい」と。
 そこが人間と悪魔の違うところで、神はそういう人間を愛することができるのだ。

 そして言った。僕には神の眼は持てない、と。それから唐突に付け加えた。君は神の眼をした少女なのだ、と。

 彼に何か言ってあげたかったが、言葉にならなかった。もしかしたら私は、彼の射込むような眼差しに、暗示をかけられただけなのかも知れない。
 けれども、彼が語った言葉の、その一つ一つが、不可思議な意味を持って、今までも、そしてたった今も、私の人生に常にちょっかいをかけてくる。

 画像は、ルドン「炎、火の女神」。
  オディロン・ルドン(Odilon Redon, 1840-1916, French)

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