観念と心像の世紀末耽美

 
 
 古典絵画では、死の擬人化は、骸骨の姿を取っていることが多い。「死と乙女」というようなテーマでは特にそう。
 象徴主義の時代になると、死の擬人化表現にも幅が出てくる。死はただの大人の天使だったり、黒い布を全身に纏った塊だったり、美しい女性だったりする。象徴主義において女性は、抽象的なものから具象的なものまで、さまざまな観念を表わす姿となるのだが、“死”という観念もまた女性の姿を取って表わされるわけだ。

 で、女性の姿をした死は大抵、乙女とではなく、老人(老婆ではなく老爺)とともに描かれている。

 シュヴァーベ「墓掘り人夫の死」もそうした絵。生命を刈り取る大鎌の形をした翼の死の天使が、墓を掘っている老人を迎えに来るシーン。天使は、死の呪文“アバダ・ケダブラ”と同じ緑色をした光(蝋燭?)を手に持っている。
 「お前はもう死ぬのだよ」……突然の死の宣告に対する畏怖と驚愕。けれども、墓穴が用意された今、死が訪れるのは道理に適っているではないか。そうした、己の死に対する得心と諦観。青年時代に画家を見舞った親友の死が、死の表現をきわめて自然なものにしている。

 カルロス・シュヴァーベ(Carlos Schwabe)。ドイツ、アルトナの生まれだが、幼少時にジュネーヴに移り、スイスに帰化。ジュネーヴの美術学校で絵を学んだ後にパリへと渡り、以降、生涯をフランスで過ごした。
 パリにて象徴主義サークルに加わり、まもなく、神秘主義的なイラストレーションで好評を得る。自身、文学通でもあった彼の古典的な、そのくせモダンで垢抜けた挿画は人気絶大で、ボードレール「悪の華」を初め、ゾラやメーテルリンク、アルベール・サマン、カチュール・マンデスらの挿画を手がけた。

 流麗で、純潔な透明感にあふれた、霊的な耽美。象徴派特有の理想主義が、画家個人の孤独な夢想と内省にマッチして創り出す、はっとするような、ぞっとするような、特異な心像。
 それが、世紀が変わると、あっさりと流行遅れとなって捨て去られていく。そこに普遍的な美があるなら、世間では廃れようと、画家がその美をまっとうすればよいはずなのに、流行とともに、画家の観念のイメージもまた、甘美というよりはただ感傷的に甘ったるいだけの、陳腐な戯画へと変わっていくのは、なぜだろう。そうなればますます世間も、その戯画を新鮮味のない、見当違いのステレオタイプと見做すのだ。

 こうやって、画家が画家自身によって真に時代遅れとなっていくのは、ちょっとつらい。

 画像は、シュヴァーベ「墓堀人夫の死」。
  カルロス・シュヴァーベ(Carlos Schwabe, 1866–1926, Swiss)
 他、左から、
  「晩鐘」
  「苦悩」
  「百合の聖母」
  「憂鬱と理想」
  「波」

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わが青春のヴォルプスヴェーデ

 
 
 パウラ・モーダーゾーン=ベッカーを知って、ようやく、ヴォルプスヴェーデ画派のことも知るようになった私。が、ドイツではヴォルプスヴェーデは、詩人リルケゆかりの有名な芸術家村なのだそう。当時、トーマス・マンやハウプトマンらも訪れたという。
 世界は多様で、裾野が広く、マイナーと思われているものですら奥が深い。

 北ドイツ、ブレーメン北西の小村ヴォルプスヴェーデ(Worpswede)は、“トイフェルスモーア(Teufelsmoor、「悪魔の湿原」の意)”と呼ばれる湿地帯に囲まれている。19世紀末にはなお渡し舟が唯一の交通手段で、雨が降り続くと増水し、外界から遮断された。この孤立した泥炭地で、人々は泥炭を採掘して生活していた。
 この森と湿原のなかに打ち捨てられた、白樺の樹木と泥炭小屋が点々と佇む貧しい僻村は、そこに集った、デュッセルドルフで学んだ若い画家たちを、リルケが紹介したことで、一躍、芸術家村として知られるようになる。

 最初に村を見つけ、住み着いたのは、フリッツ・マッケンゼン(Fritz Mackensen)で、続いて、オットー・モーダーゾーン(Otto Modersohn)とハンス・アム・エンデ(Hans am Ende)、さらにフリッツ・オーファーベック(Fritz Overbeck)、ハインリヒ・フォーゲラー(Heinrich Vogeler) 、カール・フィンネン(Carl Vinnen)、パウラ・ベッカー(Paula Becker)、彫刻家クララ・ヴェストホフ(Clara Westhoff)らが加わる(後にパウラはモーダーゾーンと、クララはリルケと結婚)。
 彼らは1894年、「ヴォルプスヴェーデ芸術家協会」を結成。翌年のグループ展で成功を収め、全国的な認知を得た。

 行き過ぎた文明から逃れ、手つかずの自然へと回帰し、そこで生きる素朴な人々に立ち混ざって暮らすことで、自然と生活と信仰とを自らの創造の糧としようとした、若き芸術家たち。バルビゾン派を目指したという彼らの絵の、その土臭い、広漠としたナイーブな風景は、あまりにバルビゾンとは相違していて、私なんかはいささか驚いてしまう。が、これが北ドイツの自然観であるらしい。
 世紀を跨げば表現主義の台頭するこの時代、彼らの絵はインパクトに欠けるかも知れない。が、自然回帰が生命への讃歌でもあり内面への探求でもあった、ヴォルプスヴェーデの若い息吹は、見落とすことのできない重要なものだと思う。 
 
 数年後には協会は解散し、派の活動は短命に終わる。
 今日最も評価の高いパウラは出産後に夭折、フォーゲラーも霊感が雲散霧消してしまった。
 第一次大戦でアム・エンデは戦死。同じく従軍したフォーゲラーは反戦思想から社会主義思想へと飛躍し、戦後はソ連に移住、第二次大戦では赤軍に加わって戦った。
 一方、美術界に社会的地位を築いていたマッケンゼンは、ナチスに入党している。

 こういう後日譚を知ると、「泥炭や、若画家どもが夢の跡」って感じがする。

 画像は、F.オーファーベック「花咲く蕎麦畑」。
  フリッツ・オーファーベック(Fritz Overbeck, 1869-1909, German)
 他、左から、
  マッケンゼン「母子像(湿原の聖母)」
   フリッツ・マッケンゼン(Fritz Mackensen, 1866-1953, German)
  アム・エンデ「春の日のヴォルプスヴェーデ」
   ハンス・アム・エンデ(Hans am Ende, 1864-1918, German)
  アム・エンデ「ハンメ川の帆かけ舟」
  モーダーゾーン「雲の山」
   オットー・モーダーゾーン(Otto Modersohn, 1865-1943, German)
  モーダーゾーン「ヴァイヤーベルクを望むハンメの牧草地」
  
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春と愛と夢と憧憬と

 

 19世紀末、新時代の装飾様式として国際的に広がったアール・ヌーヴォー。そのドイツ語圏での呼称をユーゲント・シュティール(Jugendstil 青春様式)という。
 私は、「ドイツ語圏の世紀末」という響きからなら、クリムトやらホドラーやらが浮かび上がるのだが、「ユーゲント・シュティール」という響きだと、誰も浮かばない。言葉というのは怖ろしい。

 唯一、ユーゲント・シュティールという言葉から私が連想する名が、ハインリヒ・フォーゲラー(Heinrich Vogeler)。なぜこの画家が出てくるのかというと、多分、彼が“春”をテーマにした絵を多く描いたからだろう。それが“ユーゲント(青春)”という言葉とつながるからなんだ。

 と言っても、私はこの画家のことをあまりよく知らない。彼は画家人生の一時期、それは彼の青春の時期に属するのだが、春、愛、憧憬、夢、等々をテーマに、自然のなかに身を置く女性を、うっとりするほど甘美に、メルヘンチックに描いた。銅版画はもちろんモノクロだが、それに色彩が伴うと、画面は青、緑、そして曙光のような薔薇色を帯びた金色が主色となる。 
 アール・ヌーヴォー的な装飾美と評されるフォーゲラーだが、この、春をテーマとした偏好と狷介は、私にはラファエル前派のロセッティを想起させる。

 フォーゲラーは感受性が強く、思い込みの激しい人だったのだと思う。ブレーメンの裕福な商家に生まれ、デュッセルドルフのアカデミーで絵を学ぶ。卒業後間もなく、故郷ブレーメン近郊の小村ヴォルプスヴェーデに滞在し、そこで活動する画家グループに合流、「ヴォルプスヴェーデ芸術家協会」結成に加わった。
 村外れに藁葺の農家を購入して手を加え、白樺の並木を植えて、自邸を“バルケンホフ”(低地ドイツ語で“白樺小屋”の意)と命名。ここが、同地のアートシーンの中心となった。そのせいかどうか知らないが、彼は日本でも、雑誌「白樺」にて早くから紹介されている。
 詩人リルケと知り合い、彼をヴォルプスヴェーデに引っ張り込んだのもフォーゲラーで、リルケの詩集の挿画や舞台美術なども手がけている。

 その後、フォーゲラーのロマンチック、メルヘンチックな作風は、彼の左傾化とともに跡形もなく消え去ってゆく。

 第一次大戦が勃発すると、フォーゲラーは志願兵として従軍。東部戦線に送られた際、革命ロシアの地でボリシェヴィキのビラに共鳴し、反戦思想に転ずる。ドイツ皇帝に宛てた書面で平和を嘆願し、ブレーメンの精神病院に収容された後、除隊となった。
 戦後は社会主義に接近し、ドイツ共産党に入党。以降は画家というよりは活動家で、その絵はプロレタリアのためのプロパガンダ絵画へと変貌。バルケンホフも政治集会、労働者共同体の場となる。
 やがてドイツ当局の迫害を逃れてソ連に移住。独ソ戦では赤軍の宣伝部門にて戦うが、ナチス・ドイツのモスクワ侵攻が迫るや、カザフスタンへと逃れ、その地で客死した。70歳の爺さんだった。

 画像は、フォーゲラー「春」。
  (Heinrich Vogeler, 1872–1942, German)
 他、左から、
  「夢Ⅱ」
  「戯れる子供たち」
  「マルタ・フォン・ヘンブルク」
  「春の宵」
  「夏の宵」

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世紀末ミュンヘンの王

 
 
 絵画史に革命をもたらした印象主義の興隆とほぼ同時期に、描き手の内面世界を表わそうとする象徴主義が起こったのは、興味深い。

 眼に見えないものを尊重し、必ずしも現実的ではない神秘的、暗示的、観念的な象徴世界を、現実世界に存在するものの姿を借りて具象化して描くことで、精神の優越性を表現しようとする姿勢は、それ自体、自然なものだと思う。
 ただ、写実派や印象派など、外界を素直に表現する様式とは違って、それが内的世界を表わす様式である以上、実際の表現は画家の数だけ異なっており、うっとりとなるものもあれば、オエッとなるものもある。

 ところでドイツ語圏では、印象派と象徴派は、ともに旧来の伝統的なアカデミー画壇に反撥し、タッグを組んで分離派を形成した。その象徴派の側の代表的な画家に、フランツ・フォン・シュトゥック(Franz von Stuck)がいる。
 クリムトやクノップフ同様、私はちょっとオエッとなる。

 バイエルンの貧しい粉屋の家に生まれるが、家業を継がせようとしていた父親が死ぬと、画家を志してミュンヘンに移り、苦学してアカデミーで学んだ。
 アカデミー時代以降、彼はミュンヘンを離れなかった。クリムトが世紀末ウィーンを体現する画家なら、シュトゥックは世紀末ドイツの芸術の都ミュンヘンを体現する画家だった。ミュンヘン分離派を主導し、アカデミー教授に就任すると同時に、貴族の称号をも得たシュトゥックは、美術界の王として君臨。自ら設計し、内装まで手がけた新古典主義様式の邸宅、ヴィラ・シュトゥックは、社交界の中心となった。

 世紀末的な頽廃美を描き続けたシュトゥックの絵は、徹底的に耽美的。象徴主義に典型な、神話や宗教に取材した寓意的、暗示的な“ファム・ファタル(宿命の女)”のテーマ。その女の裸体の白い肌が、彫刻を想起させるほど画面いっぱいに、挑発的、誘惑的に浮かび上がる、どこまでも暗い表現。……この類は、やはりインパクトがある。

 ただ、私の個人的な感想を言えば、幾分ポルノチックに感じる。この場合、ポルノというのは、表現内容ではなく表現方法のこと。
 TVで人気の、タレント化した某バイオリニストの演奏を、相棒は「ポルノ・バイオリン」と評する。媚びるように艶かしく弾く、また弾き手もそう弾くことに酔っている、そういう演奏を「ポルノ」と呼ぶらしい。
 同様の意味で、シュトゥックの表現は、私にはポルノに感じる。

 さて、世紀末には新作の発表ごとにセンセーションを起こしたシュトゥックの絵だったが、世紀が明け、表現主義が台頭すると時代遅れとなり、人々が第一次大戦を生き抜かなければならなくなると、見向きもされなくなった。
 彼の名声は、門下のクレーやカンディンスキー、プルマンらの活躍のおかげで辛うじて保たれ、死後はとっとと忘れられた。20世紀後半、アール・ヌーヴォーが再び注目されるに伴って、再評価に到り、ヴィラ・シュトゥック(現在は美術館)が公開されるようになったという。

 画像は、シュトゥック「罪」。
  フランツ・フォン・シュトゥック(Franz von Stuck, 1863-1928, German)
 他、左から、
  「ユディト」
  「スフィンクスの接吻」
  「ルシファー」
  「炎の剣を持つ天使」
  「無垢」

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執拗な夢幻世界

 

 ドイツ象徴派にマックス・クリンガー(Max Klinger)という画家がいる。その、立小便する骸骨の絵を紹介した際、「私も死んだら、こんなふうにできるだろうか」と言ったところ、「こんなふうにしてみたいんですか?」と訊かれた。
 なので、一度くらいはしてみたい。女性と違って、男性は、自分がしているところを見ることができるらしい。しているときに、同じくしている人と、覗き合いながら、顔突き合わせて会話することができるらしい。そういうトイレ文化の相違が、男女の意識形成にどう相違を及ぼすのか……云々、と説明したところ、大爆笑された。

 クリンガーは絵画の他に版画や彫刻も手がけており、特に版画において高く評価されている。最も有名なのが、「手袋」という10葉の連作版画。その後青年が幻想世界へと入り込むきっかけとなった、女性が落とした手袋を拾う、斜め直線的な不可思議なシーンは、美術の教科書の類で一度くらいは眼にするんじゃないだろうか。
 自身の夢から着想を得たという、フェティッシュな対象から繰り広がるイメージの渦とライトモティーフ的な執着。生と死、愛と性をテーマとした、暗示や寓意に満ち満ちた、フロイト的に奇抜で夢幻的なクリンガーの絵は、20世紀シュルレアリスムの画家たちにたびたび言及され、その先駆とされている。

 そんなクリンガーの特異な世界の真骨頂は、やはり版画の分野で現われていて、絵画ではそれが曖昧になる。線描が影を潜め、色彩が主張するせいなんだろうか。
 けれどもクリンガーの油彩も、私には印象深いんだ。まだ夢うつつにある黎明を思わせる、黄金がかった淡い青が、私のなかでのクリンガー色。

 ライプツィヒに生まれ、カールスルーエで絵を学び、パリでゴヤやドレの銅版画を研究。自身、まもなくイマジネーション剥き出しの版画を制作するようになる。
 ヨーロッパの芸術都市を広く旅行し、親交のあったベックリンに同行してローマにも長く滞在。このときベルギー象徴主義グループ「11人会(Elf)」にも参加している。
 ……うん、クリンガーの古典的な具象はイタリア的だし、魔物めいた異形の表現はベルギー的だから、そういう都市でもしっくりきたんだろうな。

 帰国後は、ベルリン分離派に参加。以降は彫刻に没頭し、ウィーン分離派展にもベートーヴェン大理石像を出品している。

 やはりクリンガーのなかで、絵画には、夢中になれない何かがあったんだろう。

 画像は、クリンガー「青の時間」。
  マックス・クリンガー(Max Klinger, 1857-1920, German)
 他、左から、
  「連作“手袋”から、行為」
  「春の初め」
  「小便する死」
  「セイレン(トリトンと海の精)」
  「スケートをする人々」
  
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