遅れてきた青年

 
 相変わらず大江健三郎を驀進中の相棒、今や自分が大江のファンであることを公言して憚らない。大江を休んで、ムーミン・シリーズなんかを読んでいた私は、「何を退行してんの!」と叱られた。
 うう、ムーミンのどこがダメなの。手塚治虫は、アトムの番組を観ない眞を、「パパの番組を観なさい!」と叱った悦子夫人に、「子供が観たがる番組を観せなさい」って言ったんだぞ。

 「遅れてきた青年」は、幼くして終戦を迎え、天皇の赤子として戦死する道を絶たれた少年が、自分は“戦争に遅れてしまった”のだという苦悩に苛まれて青年となり、アイデンティティを喪失したまま戦後の時代に翻弄されてゆく物語。これもまた、大江特有のフィクショナルな自伝。

 この話、終戦直後の山村を舞台とした前半の物語は面白かったのだが、後半の、東京に出てからの物語は、一貫してダウン・ビート(=下向きの拍子)。
 主人公が、子供らしい正義感と純真さから、谷間の村に入ってきた進駐軍に卑屈に阿諛し、追従し、屈服する村民たちを憤る一方、高所の「原・四国人」(相棒は「四国原人」と言う)に一目置き、その巫女を探して夜の山林へと入っていくシーン、さらに朝鮮人の少年、康と共に、村を出てゆくシーンは、快い共感がじわりと広がる。

 が、東京の大都会で、エスタブリッシュメントへの冷めた野心と、社会にノーと言うべく理想に対する諦観と、現実との妥協と、等々のなかで、次第に時代の波に飲まれて降伏してゆく過程。外面上は社会的になんら破綻しておらず、逆に成功してすらいる、もはや中年になろうとしている主人公が、実は真実を恐怖し、だが真実が暴かれるはずのないことに安堵し、ただ自己嫌悪だけしている結末。これには本当にげんなりする。
 この、げんなり気分を助長するのが、かつて少年だった主人公と手を取り合って、勇んで村を出て行った朝鮮人、康もまた、主人公と共に、行くべき道が分からずに涙を流すというところ。

 大いに時代性を持った物語なので、私には同情も共鳴もできなかったのかも知れない。ジェリー・ルイスも、アルファルファ爺さんもピンと来なかったし。

 相棒に聞くと、戦後のこの時代は、国家権力以外のすべての人々が、体制を批判していたのだという。だから知識人たちはみな、多かれ少なかれ左翼だったのだという。……だから昔の人は画家ですら、相手をブントだ、革マルだと罵り合うんだな。
 この小説、組織のために暴力や虚偽を容認する左翼活動(特に学生運動)の、無能で権力志向的な性格を露骨に当てこすっている。体制批判は、必ずしも優れた人権感覚を伴うわけじゃないもんね。

 とにかく、ダウン・ビートな小説。

 画像は、クストーディエフ「ボルシェヴィキ」。
  ボリス・クストーディエフ(Boris Kustodiev, 1878-1927, Russian)

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アメリカの原風景

 
 
 「アンドリュー・ワイエス展」に行ってきた。

 アンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth)と言うと、日本では格段に有名で人気もある、アメリカの現代画家。ほんの一ヶ月ちょっと前まで生きていた。
 いわゆるフォト・リアリズムとは違って、現代アメリカのリアリズムに芸術性を見出すことができるのは(私の場合)、その絵に画家の内省的な世界が強く反映しているからのように思う。ワイエスの絵もまた、エドワード・ホッパーのような、アメリカの原風景という印象を持つ。ときにぞっとするほど寒々しい、寂寥とした叙情、個が分断されたような孤独を感じさせる。

 ワイエスはペンシルヴァニア州のチャッズ・フォード生まれ。父は有名な挿画家、ニューエル・C・ワイエス。幼い頃から父に絵を学び、緻密な描写力を身につけた。
 が、感嘆すべき高度な技法以上に、後に彼が何度も繰り返し描いた、アメリカ東海岸の片田舎の心象もまた、幼い頃に培われたものだったに違いない。虚弱なため学校に通えず、家庭教師から教育を受けた彼の世界は、独特だが貧弱ではなく、広くアメリカで(そしてなぜか遠く日本でも)共感を呼び起こす。
 人一人死ぬと、同時に世界が一つ死ぬ。人は内に世界を一つ持っている。ワイエスもまた、父のアトリエ、そして戸外の庭で、自然および自分自身と対話しながら、内的な世界を作り上げていったのだろう。

 ワイエスが描いた絵は、生家のあるチャッズ・フォードと、彼が夏ごとに家族と共に過ごした別荘のある、メイン州クッシングの情景がほとんど。彼はそこでの、日常見慣れた、ごくありふれたものに焦点を当て、それに意味を持たせる。
 なぜ意味を持たせるのかと言えば、それが彼の心に引っかかったから。彼は、その当たり前の情景を異化(Verfremdung)して描く。その情景は実在し、あくまで具象で、しかも徹底した写実で表現されているにも関わらず、ある種の抽象性を感じさせる。その抽象性は、ワイエスの感覚を通して外に現われた、彼の内面性。モティーフは、ワイエスがそこに見、感じ取った人生の物語を含んでいる。
 ワイエスが自身を抽象画家と呼ぶのも、こうした理由からのように思う。

 展覧会では、テンペラに先立って制作された、鉛筆による素描や水彩、ドライブラッシュなどの習作も一緒に展示されていた。描写の精密さが多分に目につくテンペラに比べて、習作は、対象に対するワイエスの関心の度合いや、筆の勢いなど、彼の感情が素直に表出している。画家のひたむきさ、真摯さまで感じ取れる。しかも作品として十分に観甲斐もあるものだから、へとへとに疲れるまで、長い時間へばりついて観てきた。
 特に好きというわけではないワイエスの、テンペラ約10点ほどの展覧会だったのに、翌日はパタンキュー。
 
 さすが現代絵画の巨匠、侮れん。

 画像は、ワイエス「アルヴィロとクリスティーナ」。
  アンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth, 1917-2009, American)
 他、左から、
  「クリスティーナの世界」
  「海からの風」
  「踏みつけられた草」
  「シリ」
  「松ぼっくり男爵」

     Bear's Paw -絵画うんぬん-
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