見るまえに跳べ

 
 大江健三郎「見るまえに跳べ」を読んだ。これ、前にも読んだ記憶がある。

 外国人相手に娼婦をする年上の太った女の情夫として暮らす鬱屈した東大生が、同年代の愛人の妊娠をきっかけに、突然、自分の不毛な生活から抜け出そうとする。が、果たせずに自失と挫折……という物語。
 初期の作品によく感じられるグロテスクさとスピーディさ、イメージの奔放さが、ここにもある。

 「政治と性」の主題を初めて取り上げ、屈服感と自己欺瞞の意識に苛まれた同時代の青年の内面を文学に定着させた、というのが表紙のコピー。
 若者がどういう形であれ政治というものに対峙しなければならなかった時代(現代もそうなのだろうが)。政治に対して無関心、社会に対して無気力な若者が、母性的な性のもとで自己の判断と行動を保留し、脱却を望むも失敗する。
 対米従属の戦後日本は、ある意味、外国人相手の娼婦である母性的な情婦なわけで、これらから逃れることはできないのだ、と考える若者の閉塞感には、もし共感を感じないなら、やりきれない虚脱感を感じることだろう。焦燥と煩悶と恥辱とルサンチマン。自らの意志で断念した、というのではない諦めの、なんと曖昧模糊なことか。

 主人公の若者は何度も、こう考える。俺は見るばかりして跳ぶまい。決して跳ぶ決意をできそうにない。二十一年のあいだ一度も跳んだことはない。これからも決して跳ぶことはないだろう。云々。
 この表題の「見るまえに跳べ」というのは、W.H.オーデンの“Leap before you look”という詩からの引用なのだそう(これは英語のことわざ“Look before you leap”「跳ぶ前に見ろ(=転ばぬ先の杖)」をもじったもの)。

 The sense of danger must not disappear:
 The way is certainly both short and steep,
 However gradual it looks from here;
 Look if you like, but you will have to leap.

 危険の感覚は失せてはならない
 道は疑いなく短かく険しい
 ここからはなだらかに見えるけれども
 見るのもいい、だが跳ばねばならない

 ところで、主人公が愛人の堕胎手術を待つ空き地で、猫が二匹現われて、交尾を始めようとするシーンがある。オスのほうは三毛猫。
 三毛猫のオスというのは染色体の理由からほとんど生まれてこないし(出生率は数万分の一)、もし生まれたにしても生殖能力がないものがほとんどだというのは、よく知られた事実なので、多分、若い大江も知っていたと思う。
 で、この三毛のオスのありえない登場には、何か暗示があるんだろうか? ……いろいろ考えてみたが答えが出ないので、分かる人が教えてくれると嬉しい。

 画像は、クレー「跳ぶ人」。
  パウル・クレー(Paul Klee, 1879-1940, Swiss)

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宙返り

 
 大江健三郎「宙返り」を読んだ。相棒が、大江ならどれこれ構わず、読め読め読め読めとせっ突くので読んだのだが、これは私にはハズレだった。思想のために作った物語のようで、物語自体として面白くない。
 私には物語が面白くなきゃダメなんだ。

 テーマは、世界の危機と救済の展望。
 とある教団。指導者は、瞑想によってあちら側に行き、直接に神と繋がることで神の示すヴィジョンを見る「師匠(パトロン)」と、そのヴィジョンをこちら側の言葉に直す「案内人(ガイド)」。世界の終わりが近づいている。そのことを深く認識し、悔い改めよ。……というのが、彼らの教義。
 ところが教団内部のエリート急進派が暴走し、原発を占拠、爆破して、民衆に世界の終わりを実感させ、教義を押し出そうとする計画が浮上。それを阻止するため、「師匠」と「案内人」は全国中継のテレビで声明する。……自分たちは救い主でも預言者でもない。これまで説いてきた教義は冗談だった。自分たちは教団を放棄する。
 これが「宙返り」と呼ばれ、以後、二人は「地獄降り」の苦悩のなかでひっそりと暮らしていた。

 物語は「宙返り」の十年後、「師匠」と「案内人」のもとに、曰くある巡り会いの過去を持つ、二人の世話をする「踊り子(ダンサー)」、犬のような顔と美しい眼の青年育雄、初老の画家木津らが集まって、教団を再建しようとする、というもの。

 一つの宗教活動を扱っているわけだが、神の存在は非常におぼろ。しかも、かつて瞑想によって神と交流した「師匠」が、今ではその交流を断たれ、やがて“古い人”として、幾分弱い単なる人間として死んでゆく。
 その「師匠」が、物語の展開のなかで、
「神とはこの世界を作り上げている自然の総体だ」と言う。
「“対立する双方を独りの新しい人に作り上げて平和を実現し、両者を一つの体にして神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼす”……自分たちの教会は、そうした“新しい人”の教会となるだろう」と言う。

 そうならもう、わざわざ宗教を介する必要はないわけで、そんなことは最初から分かっていたわけで……
 だって人間は、神がいなくても、魂を持っているのだから。

 大江が“新しい人”の思想を打ち出しているのはよい。が、それが結局、地域の自然に根ざした農業を営む共同体のような形でしか実現しないと展望しているなら、私としては大いに期待外れの感がある。

 画像は、ワッツ「ヨナ」。
  ジョージ・フレデリック・ワッツ(George Frederic Watts, 1817-1904, British)

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遅れてきた青年

 
 相変わらず大江健三郎を驀進中の相棒、今や自分が大江のファンであることを公言して憚らない。大江を休んで、ムーミン・シリーズなんかを読んでいた私は、「何を退行してんの!」と叱られた。
 うう、ムーミンのどこがダメなの。手塚治虫は、アトムの番組を観ない眞を、「パパの番組を観なさい!」と叱った悦子夫人に、「子供が観たがる番組を観せなさい」って言ったんだぞ。

 「遅れてきた青年」は、幼くして終戦を迎え、天皇の赤子として戦死する道を絶たれた少年が、自分は“戦争に遅れてしまった”のだという苦悩に苛まれて青年となり、アイデンティティを喪失したまま戦後の時代に翻弄されてゆく物語。これもまた、大江特有のフィクショナルな自伝。

 この話、終戦直後の山村を舞台とした前半の物語は面白かったのだが、後半の、東京に出てからの物語は、一貫してダウン・ビート(=下向きの拍子)。
 主人公が、子供らしい正義感と純真さから、谷間の村に入ってきた進駐軍に卑屈に阿諛し、追従し、屈服する村民たちを憤る一方、高所の「原・四国人」(相棒は「四国原人」と言う)に一目置き、その巫女を探して夜の山林へと入っていくシーン、さらに朝鮮人の少年、康と共に、村を出てゆくシーンは、快い共感がじわりと広がる。

 が、東京の大都会で、エスタブリッシュメントへの冷めた野心と、社会にノーと言うべく理想に対する諦観と、現実との妥協と、等々のなかで、次第に時代の波に飲まれて降伏してゆく過程。外面上は社会的になんら破綻しておらず、逆に成功してすらいる、もはや中年になろうとしている主人公が、実は真実を恐怖し、だが真実が暴かれるはずのないことに安堵し、ただ自己嫌悪だけしている結末。これには本当にげんなりする。
 この、げんなり気分を助長するのが、かつて少年だった主人公と手を取り合って、勇んで村を出て行った朝鮮人、康もまた、主人公と共に、行くべき道が分からずに涙を流すというところ。

 大いに時代性を持った物語なので、私には同情も共鳴もできなかったのかも知れない。ジェリー・ルイスも、アルファルファ爺さんもピンと来なかったし。

 相棒に聞くと、戦後のこの時代は、国家権力以外のすべての人々が、体制を批判していたのだという。だから知識人たちはみな、多かれ少なかれ左翼だったのだという。……だから昔の人は画家ですら、相手をブントだ、革マルだと罵り合うんだな。
 この小説、組織のために暴力や虚偽を容認する左翼活動(特に学生運動)の、無能で権力志向的な性格を露骨に当てこすっている。体制批判は、必ずしも優れた人権感覚を伴うわけじゃないもんね。

 とにかく、ダウン・ビートな小説。

 画像は、クストーディエフ「ボルシェヴィキ」。
  ボリス・クストーディエフ(Boris Kustodiev, 1878-1927, Russian)

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個人的な体験

 
 今、すっかり大江健三郎にハマっている相棒、次から次へと読んでは私に回してくる。日本人と生まれたからには、大江くらい読め、とこうくる。
 うう、大江は論理的なくせにイメージがストレートに、執拗に膨らんでくるから、私はちょっと苦手なんだけど。

 相棒曰く、大江の良いところは、人間のケイパビリティをそのまま体現している点なのだという。出発点で主人公はまだ歪んではおらず、途中、行く方向を誤ったり、前に行くのを諦めようとしたりするにせよ、そのたびに自分なりの答えを出し、普遍から外れずにいる。つまり主人公は人間普遍を体現しているわけだが、それを一般受けしない、むしろ汚らしい、偽悪な文章で表現するものだから、同じ普遍を持つ読者にしか、その意味が分からない。だからいい、のだそう。
  この前、大江のノーベル賞基調講演を聴いたが、本人自身、自分は悪文と言われ、今日までそうだが、日本に伝統的な綺麗な文体ではなく、情感のイメージ豊かに書こうと思ってきた、という旨のことを言っていた。あー、あの書き方は、だったら意図したものなんだな。

 「個人的な体験」は、大江特有のフィクショナルな自伝。主人公、鳥(=バード)に初めての子供が産まれようとする日、彼は念願のアフリカ行きのための地図を買う。子供の誕生自体、憂鬱なバードだったが、産まれた子は頭に瘤を持つ、脳ヘルニアの障害児だった。
 仮に治療しても、子供は生涯正常には育たないだろう、と医師たちに宣告され、当惑するバード。彼は、義父に貰ったウイスキーを一緒に飲もうと、ふと思い出した大学時代の女友達、些かエキセントリックなところのある火見子を訪れる。
 そして、奇怪な赤ん坊に将来を脅かされ、それから眼を背け赤ん坊の衰弱死を願いながら、火見子との関係にのめり込んでゆく。……という話。

 自身の責任で悪人として行動するか、あるいは善人として行動するかを決めず、他人に自分の悪事を任せて、自分は善人だと、あるいは悪人ではないと、言い聞かせる、そうした自己欺瞞は、やがて自己崩壊へと通ずる。なぜなら、欺瞞によって守られるものは、何もないから。
 自分に向って到来した困難。その困難が自分の責任によるものでないにせよ、その困難に真正面から立ち向かうのは自分の責任だ。そして、その困難から逃げ回ることなく、受け止めるのは、困難によって直接に困っている人々のためではなく、自分自身のためなのだ。……そういうことを描いた物語。

 ところで相棒は私を実存主義者だと言う。う~、実存から出発して普遍にたどり着く人だって、いるよね。

 画像は、ブーシェ「眠る赤ん坊」。
  フランソワ・ブーシェ(Francois Boucher, 1703-1770, French)

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芽むしり 仔撃ち

 
 大江健三郎「芽むしり 仔撃ち」を読んだ。
 すっかり文学にハマッている相棒、大江を読んで大感激し、これを読め、読め、読めと百回もせっ突く。ので、読んだのだが、確かに、詳しい評価抜きに、これは物凄い小説だ(多分)。

 舞台は戦争末期の僻村。感化院の少年たちが集団疎開のために到着したその村では、折りしも疫病で死者が出る。疫病を避け、村人たちは少年たちを放ったまま村を出る。取り残された少年たちは、閉ざされた村で、朝鮮人の少年や脱走兵とともに一途に暮らし始めるが、やがて村人たちが舞い戻り……、という物語。

 戦争という狂気の状況が、戦場だけではなく、戦場から離れた人々の日常の隅々にまで浸透している事実が、鋭く淡々と描かれている。
 感化院の少年たちという、社会から疎外された位置にある彼らは、大人たちのいなくなった村で、原始共産制のような生活を始める。少年たちの自由の謳歌、粗い友情と連帯感。そこに、朝鮮人少年と脱走兵とが加わる。彼らは皆、社会から烙印を押されて拒絶された者たちなのだが、その彼らが、人間の本来あるべき最も単純な社会性を体現しながら暮らしていく。

 隔離された村で共同生活を営む少年たちは、子供特有の動物的な純粋さ、残酷さを持っている。なかでも主人公の少年は、疫病で母を亡くして村に置き去りにされた少女と、感化院とは関係のない弟と、弟が可愛がる犬との存在によって、その純真さが際立つ。
 狩猟と、それを祝う祭りとによって、この崇高な原始性はピークを迎え、主人公を取り巻く少女、弟、犬を見舞う出来事とともに、一気に粉砕されてゆく。人々は終始、疫病という形のイデオロギーに翻弄される。……読みにくい文体で綴られる重くて暗い物語が、韋駄天のテンポで進むのは圧巻。 

 少年たちの無垢な理想は、帰還した大人たちによって、呆気なく踏み潰される。大人たちは無知で臆病であるのに狡猾で、少年たちは傷つき、飢餓に、人情に屈服しなければならない。一人、すべてを失った主人公だけが反抗を続けるが、その先に展望はまるで見えない。逃れ得ない権力というものへの服従に、やるせなさだけが残る。
 社会の縮図のような少年と村人との関係。特異な舞台設定なのに、そこで起こる出来事は妙に身近に感じられる。

 ところで相棒は、性をドライに捉えるべきだという大江の主張に、大いに賛成するのだが、私は、大江の性の描写は、あんまり好きじゃないな。あまりに動物的で、ちょっと醜い。

 画像は、ムリーリョ「サイコロ遊びをする少年たち」。
  バルトロメ・エステバン・ムリーリョ
   (Bartolome Esteban Murillo, ca.1617-1682, Spanish)


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