夢の話:暗黒の宇宙(続)

 
 地上にいる人間がそう感じるなら、それはその人が人間の普遍を知らず、普遍的な人間の実在を知らずにいるからかも知れない。が、宇宙にいる人間がそう感じるなら、宇宙という空間が、生身の人間にとって絶えがたい、怖ろしく孤独な、絶対的に孤独な、空間だからだ。
 
 宇宙空間の恐怖は、無際限の恐怖に似ている。ただ決定的に異なるのは、宇宙という空間は暗黒、真の闇だということだ。
 あらゆる方向に、どこまでも深く、暗黒の空間が広がる。地上では空を埋め尽くすかに見えた星々も、この宇宙では、最も近い場合でさえ、何光年も離れている。星は、自分が触れることのできない存在なのだ。
 地球もまたそうした星の一つだ。あまりにも遠く離れた地球から届く通信文は、それを送った人間がすでに死んでしまっていることを示唆する。自分を知る人間も、自分が知る人間も、誰一人いない。

 コンピュータ尽くめの頼もしい宇宙船は、安全を保障し、同時に、生きる孤独をも保証する。無機的この上ない白銀の宇宙船には、自分ひとりしか乗っていない。話す相手がいないので、もう言葉を忘れてしまったのだが、それでも脳は思考しなければならない。

 孤独の大波が狂気へといざなう。人類に対する使命。実際にそばにいなくても、必ずどこかに、自分と同じ、互いに理解し合える人間が存在するはずだ、という、普遍に対する信頼。……そんな認識は何の役にも立たない。理性でどうこうできる問題ではない。
 肉体を持ち寿命を持つ生身の人間には、同じ生身の人間が必要なのだ。体温と心臓の音とを持つ生身の人間が。

 宇宙の夢は私にとって、精神の我慢比べのような夢だ。私は発狂しないように、ありとあらゆることに思いをめぐらせる。私は夢のなかでいくつもの夢を見、その都度、何度も宇宙へと引き戻されて、やがて疲れ果てて、眼を醒ます。

 To be continued...

 画像は、チュルリョーニス「静寂」。
  ミカロユス・コンスタンチナス・チュルリョーニス
   (Mikalojus Konstantinas Ciurlionis, 1875-1911, Lithuanian)


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夢の話:暗黒の宇宙

 
 子供の頃は宇宙に憧れていた。古代の人々がイマジネーションを馳せた星座の世界。惑星間を旅し、異星人と遭遇する、神秘と冒険に満ちたスペース・オペラの世界。
 そして、亡き友人に出会ってからは、子供の頃の宇宙への眼差しそのままに、科学的な好奇心をもって、天文学の世界を知った。

 だから子供の頃、冒険に出る夢を見る、その舞台は、いつも夜だった。私は夜の星空のもと、夜影に乗じて、家族や学校のしがらみを捨てて、未だ知らぬ世界へと旅立つのだった。
 宇宙へと旅立ったこともある。スペース・オペラさながら、宇宙船に乗って。これからの冒険に心震え、心沸き立って。その頃、宇宙という舞台には、同じ宇宙船の仲間たちがいた。逆に、征服を企む宇宙海賊や宇宙人はいなかった。

 だが私は、亡き友人を失った頃から、宇宙の夢を厭うようになった。

 夜空を眺めると、心が澄んで純粋になる、と言う人は多い。日常の瑣末な事象に囚われなくなる、と言う人も多い。
 さらにもっと眺め続ければ、どうだろう。人は自分を、塵にも満たない存在だと感じるかも知れない。無に等しい存在だと、存在することの意味や理由や価値は無だと、感じるかも知れない。つまり、純粋とは無であり、根源的とは無であって、すべては存在するに値せず、有は無の前に意味をなさない、というわけだ。

 To be continued...

 画像は、プルシュコフスキ「流れ星」。
  ヴィトルト・プルシュコフスキ(Witold Pruszkowski, 1846-1896, Polish)

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ギリシャ神話あれこれ:蛇女ラミア

 
 私は赤ちゃんが大好きで、外で赤ちゃんに出会うと、つい、眼をパチクリしたり、相棒の背に隠れてからバアと姿を見せたり、手をグッパ、グッパしたりして、ちょっかいを出してしまう。が、赤ちゃんに触ることはしない。
 世の中には、赤ちゃんが欲しいのに産めず、そのせいで他の赤ちゃんに危害を加えようとする女性もいるという。これは極端な話だが、あり得ない話ではないから怖い。坊がまだ赤ん坊だったときは、私もそういうことを気にしていた。
 だから、赤ちゃんには触らない。ホントはプニッと触りたいんだけれど。

 エジプトの王女ラミアは、その美しさからゼウス神の寵愛を受けるようになる。が、このためヘラ神の怖ろしい嫉妬を買い、子を産むたびにその子を貪り喰うよう仕向けられる。
 悲惨なラミア。我が子を喰らい続けた彼女は、あるとき我に返って自分を呪う。そして、やがて洞窟に籠り、子を奪われた悲しみから気が狂れ、子を持つ母を羨むあまりに、他の子を滅ぼそうとするようになる。

 ラミアは夜の闇に紛れて子を連れ去り、あるいは、美しい口笛を吹いて洞窟へと誘い、生きたまま貪り喰らう。貪欲に、最後の肉片、最後の骨まで残さずに。
 別伝では、夜毎、若い男を誘惑し、それと交わって、寝ている間に生き血を啜る吸血鬼となった、ともいう。

 いつしかラミアは姿までも怪物へと成り下がり、腰から下は大蛇の尾を持ち、全身は蛇の鱗で覆われた蛇女と化す。

 それでもなおヘラの嫉妬は収まらず、子を失った悲しみから逃れられぬよう、眠りの神ヒュプノスに命じて、ラミアから眠りを奪う。……そこまでやるか?
 日夜、子を求めてさまようラミアを、ゼウスもとうとう見かねて、彼女が休めるよう、両眼を取り外せるようにしてやった。
 眼玉を外しているあいだは、ラミアはまるで添い寝する母のように穏やかで、失った子を思い出しているのだという。

 古代ギリシャでは、ラミアが眼を外して休んでいる時間は、子供たちは安全だが、眼を戻してさまよっている時間は、子供たちは危険とされ、親は子供を躾けるのに、「悪いことをするとラミアが来る」と脅したのだとか。

 ……残酷すぎる、この物語。
 
 画像は、A.L.メリット「蛇女ラミア」。
  アンナ・リー・メリット(Anna Lea Merritt, 1844-1930, American)

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白と黒の世界

 

 鉄道の日記念切符で東京まで行ってきた。私が東京なんかに行くのは、もちろん美術館目当て。今年は東京の企画展が当たり年なのかな。観たいのばかりやる。
 結局、3つハシゴして、帰りに鎌倉に寄ってブラマンク展を観てきた。

 鎌倉の大谷記念美術館は、緑の木々に囲まれた小高い丘の上の洋館で、以前、デュフィ展を観に来たときに大いに気に入ったところ。展示数は少ないが、疲れ果てていたので、これくらいでちょうどよかった。

 モーリス・ド・ヴラマンク(Maurice de Vlaminck)は野獣派(フォーヴィスム)に括られる。が、他のフォーヴの画家同様、最もヴラマンクらしい絵は、フォーヴを越えた時期に描かれている。
 この円熟期の絵は圧倒もので、私は十年くらい前にヴラマンクの企画展を観て、彼の絵をいっぺんに好きになった。

 父親はバイオリニスト。ヴラマンクもまたバイオリンやコントラバスを弾く。自身のみに立脚し、束縛フリーを好んだという彼は、若くして家を飛び出し、自活。結婚し、自転車競技やバイオリン演奏で生活しながら、絵の伝統や教育を拒絶して、独学で絵を学んだ。
 アンドレ・ドランを通じてフォーヴの運動に加わるが、もともと過去フリー、関係フリーの個人主義に徹する彼は、自身の画風を確立してからは、田舎に引っ込んで独自に描き続けたという。

 野獣派らしい、原色を多用した強烈な色彩は、田園で暮らし田園を描くようになってからは、重厚な、陰鬱で荒涼とした色彩へと変化する。相変わらず原色を用い、筆遣いも荒く大胆なのだが、しかし、野獣派の頃の絵とは、まるで別人のように異なる。
 黒を使うのに、色彩は透明で、なんと言うか、重く澄んでいる。嵐の到来を告げるかのような、光を孕んだ動感あふれる空。空模様は、斑だが流れている。道にも、流れるように轍の跡がある。
 雪が積もっていても、そこはきっと道で、同じく雪の上に轍が流れている。ヴラマンクの絵のなかでも白眉なものは、この、白と黒との独特の雪景色。

 情熱を感じさせるが気取りがなく、造形的だが自然体で、ダイナミックで、エレガント。彼のような絵は、他に類例を知らない。

 ヴラマンクと言えば、パリ留学を果たした若き佐伯祐三に、いきなり、「このアカデミズムめ!」と罵って、佐伯の自尊心をぺしゃんこにしたエピソードで有名。
 でも、何度もこのエピソードに出くわすのに、不思議なことに私には、ヴラマンクが傲慢だったとか横柄だったとかという印象が、一度も残らない。彼はふてぶてしかったかも知れないが、自分に対しては謙虚だったように、いつも思えてしまう。

 画像は、ヴラマンク「赤い野原」。
  モーリス・ド・ヴラマンク(Maurice de Vlaminck, 1876-1958, French)
 他、左から、
  「ラ・クルーズの風景」
  「ル・シャン」
  「雪のマラドルリー」
  「果物籠のある静物」
  「ピンクの帽子をかぶった女」

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ギリシャ神話あれこれ:12の功業その11(続々々々々)

 
 アトラスは、天を支える労苦から束の間でも解放されることを大いに喜んで、ヘラクレスの頼みを引き受ける。
 で、ヘラクレスは肩に円座を当てて、天を担ぐ。なんという怪力! が、さすがに天は重かった。

 一方アトラスは、久しぶりに重荷を下ろしてルンルン気分。すぐに3つの実がついた林檎の枝を取って戻ってきたが、さて、再び天を背負うのは嫌だった。なので、ついでだから、俺がミュケナイまで林檎を届けてやろう! と言い出す。
 もちろんアトラスは、ちゃっかり、そのままヘラクレスに天を肩代わりさせようとしたのだが、ヘラクレスのほうもぬかりはない。何食わぬ顔で、プロメテウスから教わったとおりの答えで応じる。そうか、そりゃありがたい、じゃ、円座がずれちゃったんで、ちょっと担ぎ替えるから、そのあいだ肩を貸してくれ、と。

 浮かれ気分のアトラスは、うっかりヘラクレスに騙されちゃって、林檎を置いて天を担いだところを、そのまま林檎を持ち逃げされてしまった。
 憐れなアトラス、こうして彼は、後にも先にも一度きりの、解放されるチャンスを逃したのだった。こういうチャンスのつかみ損ないは、人生の最大の痛手だ。
 ……久々の知恵の勝利。こうでなくちゃ。

 別伝では、ヘラクレス自身が、毒矢で竜ラドンを倒して林檎を手に入れた。後にラドンは竜座になったという。

 こうしてヘラクレスは、黄金の林檎をゲットして帰還、エウリュステウス王に渡す(林檎は後に、アテナ神によってヘスペリスの花園へと戻されたという)。
 いよいよ彼は、最後の難業へと挑むことに。

 画像は、グェルチーノ「アトラス」。
  グェルチーノ(Guercino, 1591-1666, Italian)

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