オーソドックスな女流画家

 

 ルイーズ・ブレスラウ(Louise Breslau)は、フェミニズム画家マリ・バシュキルツェフが唯一ライバル視していた女流画家、と解説されている。

 良家の娘は、良妻賢母の貴婦人となるべく、教養の一環として絵や音楽をたしなむことを推奨された時代。けれども、女性が一個の画家としてのキャリアを積むことはよしとされず、絵を学ぶのに官学に入学することも許されなかった時代。
 それでも、本格的に絵を修行したがった良家の若い女性たちはわんさといて、彼女らが、女生徒を受け入れた私設アカデミーに集中したのは、自然な流れ。
 で、パリのアカデミー・ジュリアンで、ブレスラウとバシュキルツェフの人生は交差する。

 同齢の若い娘で、同じく家柄が良く裕福で、知性と教養を備え、もちろん画才にも恵まれて、しかも美人。しかも病身。しかも父親不在の少女時代。そして男性には縁がなかった(多分)。アカデミーに入るや、たちまち一目置かれたブレスラウを、同じく一目置かれた、勝利と名声を熱烈に求めるバシュキルツェフが敵視したのは、こうした性質と境遇の類似も手伝ってかも知れない。

 が、似ているとは言っても、それは文面上のことで、実際の個性や思想、嗜好などは、おそらくかなり異なっていたのではないかと思う。
 それは画風や、画題の選択にも、少しばかり現われている。二人とも写実を武器とした、自然主義的な画風なのだが、バシュキルツェフの画風はより素直で明るい。二人とも人物画に優れ、取り上げる画題も、少人数にスポットを当てた身近な庶民の日常の生活なのだが、バシュキルツェフのほうは、下層階級の女性や子供たちへの関心が目立つ。
 一方、ブレスラウが描くのは、もっぱら中産階級の室内で、写実描写はよりソフトな光に満たされている。また、逆光を好んだらしく、ひねりがあって、耽美的な画面作りの意図が見える。

 以下は受け売りだが、ブレスラウはドイツ、ミュンヘンの、裕福なブルジョアの生まれ。父は信望厚い産婦人科医で、父のチューリヒ大学就任に伴い、一家はスイスに移る。
 ブレスラウは慢性的な喘息持ちで、子供の頃、病床に繋がれる時間をやり過ごすために、ドローイングを始めたのだという。

 検死時における感染症がもとで父が急死すると、ブレスラウは、喘息の療養を兼ねて、ボーデン湖畔の修道院へと送られる。この修道院滞在中に絵画に開眼、地元画家のもとでレッスンを重ね、決意してパリのアカデミー・ジュリアンへ。傑出した才能で、アカデミー女生徒から唯一、サロンへのデビューを果たした。バシュキルツェフが張り合うのも無理はない。

 以降、サロンの常連者となったブレスラウは、裕福なパリジャンからの依頼に事欠かず、当代随一の肖像画家として成功。エドガー・ドガやアナトール・フランスら、同時代の人気芸術家たちとも親交を結んだ。
 第一次大戦中は、スイスに帰国せずにパリにとどまり、前線の兵士や看護婦を描くことで、フランスに尽力。

 ……才能もあり、良心もあり、けれども画家を志したことが人生たった一つの冒険だった、オーソドックスな女流画家、という感じ。
 で、死後は忘れられたという。

 画像は、ブレスラウ「逆光」。
  ルイーズ・ブレスラウ(Louise Breslau, 1856-1927, Swiss)
 他、左から、
  「犬を連れたアデリーヌ・ポズナンスカ嬢」
  「イギリス詩人ヘンリー・ダヴィソン」
  「読書」 
  「身繕い」
  「自画像」

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闘う女流芸術家

 

 マリ・バシュキルツェフ(Maria Bashkirtseff)という女流画家がいる。名前は結構聞く機会があるのに、作品はほどんど観る機会のない画家。

 私がバシュキルツェフの名をインプットしているのは、彼女が記した日記について、宮本百合子が取り上げていたため。私は百合子のこの著作は読んでいない(今後も多分読まない)のだが、百合子のせいで、私のなかではバシュキルツェフは、「フェミニズム芸術家」という冠だけが長らく際立っていた。

 実際、バシュキルツェフの名を後世に残したのは、絵画ではなく日記のほうで、本人もそれを自覚していたらしい。強く激しくはっきりと生きることへの渇望と焦燥から、13歳で書き始めた日記は、以降、生涯続いていく。この日記は彼女の自負であり、自己批判であり、生きた証左であって、世に出て人に読まれるべく、また後世に継がれるべく、あけすけに書かれているという。
「私は自分が将来どうなるか知らないが、この日記だけは世界に残すつもりだ」
「もし早死しなかったら、私は大芸術家として生きていたい。しかしもし早死したら、私のこの日記を発表してほしい」
 ……で、今日、バシュキルツェフの日記は、日記文学の傑作とされている。

 略歴をまとめておくと……

 小ロシア(現ウクライナ)、ポルタヴァの、裕福なロシア貴族の生まれ。幼くして父母は別居し、以降、彼女は母に連れられてヨーロッパを渡り住む。叔父母やら従姉やら祖父やらの親類や、家庭医やら召使やらの一団や、猿やら犬やらまでをも連れての、しかも知性と教養を保ったままでの、放浪、漂泊、漫遊の生活。
 太陽が燦然と降り注ぐ地中海を臨む南仏の別荘で、彼女は夢中になって日々の出来事を記し始める。前途に用意された、短くはあるが輝かしい、虚栄と情熱の人生の美と夢を、激烈で深刻な、早熟な筆で。

 バシュキルツェフは美と芸術に傾倒する。美貌は当然堅持するが、名声は美貌に勝るのだもの。
 彼女はまず声楽家を目指して、イタリアで修行する。が、声が耐えられずに断念。
 次に、家族の希望と医師の指示とに逆らって、南仏の別荘を売り払うよう母を促し、絵の勉強のために一家でパリへと引っ越す。当時、女性を受け入れた唯一の美術学校であるアカデミー・ジュリアンで刻苦精励。かの自然主義画家バスティアン=ルパージュに学んだ。

 と同時に、フェミニズム運動の集会にも参加し始める。現に生きている時代のなかで、眼前の問題に頑として立ち向かい、不動の、仮借ない闘争に挑む。女性の権利に関する記事を次々と寄稿。
「犬だけを愛そう。男と猫は生物に値しない」……ニャンだって!
 こんな彼女が、女性についてはペシミスティックな文豪モーパッサンと文通する。

 時間の空費を恐怖するかのように、倦まず弛まず活動するが、結核のため25歳で夭逝。作品の大半は、第二次大戦中、ナチス・ドイツによる欧州占領の際に失われたという。

 画像は、バシュキルツェフ「傘」。
  マリ・バシュキルツェフ(Maria Bashkirtseff, ca.1858-1884, Ukrainian)
 他、左から、
  「アトリエにて」
  「集会」
  「春あるいは四月」 
  「ポール・バシュキルツェフ夫人の肖像」
  「パレットを持った自画像」

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