チャイコフスキー 劇音楽「雪娘」

 
 最近、ロシア絵画にハマっている。そのせいか、チャイコフスキーばかり聴いている。チャイコフスキー(Peter Ilyich Tchaikovsky)は、手塚治虫が好きだった音楽家。
 で、最近まで聴いていたのが「雪娘」。解説では、スタンダードなレパートリーから消えてしまった、埋もれた劇音楽、とあったけど、なるほど、どの曲も、いつかどこかで聴いたことのある感じのものばかり。ポピュラーで、私にもよく分かった。

 「雪娘(スネグーラチカ)」というのは、ロシア民話らしい。
 森の精と春の精とのあいだに生まれた雪娘(Snow Maiden)。彼女は、羊飼いレルの歌声に誘われて、森を出て人間の村へとやって来る。
 雪娘は氷の心を持っている。もし彼女が恋をすれば、その温もりで、彼女は溶けてしまうのだという。
 村の若者ミスギールに愛を告白され、それに応えた雪娘は、恋の温もりによって溶けてしまう。若者はそれを絶望し、自ら溺れ死ぬ。
 けれど冬は終わり、太陽の季節がやって来る。

 なんだか、冬の国ロシアっぽい、ほんのり悲しい物語。

 ナクソス・ジャパンの社長は、もし一曲選ぶなら、二つ目の「メロドラマ」、と言っている。確かにこの曲は、息のつまるような、うっとりとした叙情。
 でも私は、「厳寒のモノローグ」が一番良かった。

  冬の風が唸り声を上げて
  家々を吹き抜けると
  城も掘っ立て小屋も
  きしみながらこう呻く
  愛している、愛している、愛している、と

 ……テノールの歌う、一見単調な調べが、だんだんに盛り上がっていくのがいい。ティンパニーも鳴るし。

 画像は、ヴァスネツォフ「雪娘」。
  ヴィクトル・ヴァスネツォフ
   (Viktor Vasnetsov, 1848-1926, Russian)
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グッド・ピアニスト

 
 英語では、「私は絵が上手い」と言うのに、“I'm a good painter.”と表現する。このpainterには、画業を生業とする、いわゆるプロの画家、という意味はない。
 日本語にもこうした表現があれば、プロとアマとに越えられない一線を画して絶対視するような輩も、断然減るに違いないと思う。

 亡き友人がグッド・ピアニストだったことから、自分もピアノを弾いてみたいと思うようになった。坊がピアノを習いたいと言い始めたのをきっかけに、私もピアノを弾くようになった。
 まずピアノを買った。そして、鍵盤に触れるようになった。毎日、子供の指で、決めた時間だけレッスンする坊には、とうの昔に置いてかれてしまったけれど、坊と同じ曲を、カメのようにレッスンした。たった5本の指でドレミファソラシドと弾ける謎は氷解したし、楽譜を読まなくとも音符の音が分かるようにもなった。
 かなりサボっているけれど、バイエルは終わって、今はツェルニーとブルグミュラー。バッハのミュゼットやメヌエットくらいの曲が弾ける。

 ピアノにおける私の夢は、いつか、亡き友人が私に弾いてくれると約束したくせに果たさなかった曲を、自分で弾いてみること。
 と言っても、私の気に入るくらい音楽的で、かつ、私に弾ける程度の技術レベルの、その曲の楽譜が、どうしても見つからない。もしいつか、どこかで、グッド・ピアニストと友達になれて、なんの遠慮もなくその人に、私の描く絵と交換に、その曲を私に弾けるよう編曲してもらえたら、いいだろうな。

 画像は、ヴァロットン「ピアノの前の女」。
  フェリックス・ヴァロットン(Felix Vallotton, 1865-1925, Swiss)
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モンゴル民族音楽

 
 野外コンサートに行ってきた。バイオリンとピアノのクラシック演奏が目当てだったのだけれど、そのあとのモンゴル国立民族歌舞団による民族楽器の演奏のほうが良かった。

 モンゴルと言うと、大草原、遊牧、馬。……申し訳ないけどこれ以上は、私には思い浮かばない。
 モンゴルの絵は以前、見たことがあるが、いただけなかった。でも、モンゴルの音楽は、いかにも遊牧民族らしい、素朴なメロディーとリズムで、面白かった。日本の伝統音楽と違って、音楽に親しみ、音楽を楽しんでいる、という感じの曲ばかり。

 最初に、モンゴル出身の歌手オユンナが登場。結構有名な歌手らしいけど、世情に疎い私は、この日初めて知った。
 この人は、故国モンゴルの孤児たちのために児童基金を作っているから立派。私も、世界の最貧国の子供たちのために事業をしたいなー。
 
 続いて、モンゴル民族歌舞団が登場。モンゴルの民族衣装を着て、モンゴルの民族楽器で、モンゴルの音楽を演奏した。
 馬頭琴、ベース馬頭琴、楊琴(ヨーチン)、角笛、横笛というアンサンブル。曲目は忘れちゃったけど、「駱駝の競争」、「ナントカの子守唄」、「名馬ナントカ」、それから、ホントは3日間歌い続けるという、世界最長の民族音楽「アルタイ山脈讃歌」。

 馬頭琴というのは、「スーホの白い馬」という絵本(……そう言や、坊が昔、学校の学芸会で、スーホを演じていた)で名前を知ってはいたが、見るのも聴くのも初めて。カクカクとした台形の胴体をしていて、棹の先には馬の頭の彫刻がついている。弦は2本しかなく、弦も弓も馬の尻尾でできているのだそう。別名は「草原のチェロ」だが、音色はヴィオラくらいの低さで、深くて伸びやか。ソロでは、ヒヒィィィン、という、馬のいななきのような音も出してくれた。

 面白かったのは、ホーミーという、一人で二重唱する喉歌。ホーミーは、今、どこぞのCMがやってるらしいのだが、私はこの日初めて聴いた。
 なんだか不思議と言うか、ヘンチクリンと言うか。うえいぃぃぇぇぁぁあああぁぃぃいえぇぇぇ……というような、小刻みに震える低いだみ声と一緒に、ひゅぅぅ~ぃぃ~……という、笛のような高い音が聞こえてくる。摩訶不思議なり。

 ほかにも、循環呼吸とやらで息継ぎせずに吹き続ける横笛のソロ、鈴と茶碗を使ったモンゴル舞踊、それから、人間国宝の歌手による歌、とまあ、いろんなのが出てきた。なんだか久しぶりに楽しかった。
 モンゴルの人々は、モンゴルの音楽や楽器を誇りに思うのだそう。羨ましい。私は邦楽には、あまり音楽性を感じられないためか、興味も感じられない。

 画像は、サヴラソフ「昼間の草原」。
  アレクセイ・サヴラソフ(Alexey Savrasov, 1830-1897, Russian)
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グリーグ ホルベルク組曲

 
 音楽会に行ってきた。曲目はモーツァルトとグリーグ。
 
 相棒はクラシック音楽には眼がないくせに、正規の料金を払ってまでチケットを買おうとはしない。曰く、「高すぎるんだよ」の一言。私はコヤツが、美術館以上する値段のチケットを買ったのを、見たことがない。
 で、今回行ったのも、無料のコンサート。

 毎度のことだけれど、音楽会では雑音というものがひどく気になる。演奏の最中に平気で雑音を立てる聴衆の無神経さには、辟易させられっぱなし。
 話し声や携帯電話の着信音は論外のこと、プラ袋や紙袋の音、鈴の音(オバサンて、なぜだか鞄や財布に鈴をつけている)、パンフレットをめくる音、全部うるさい。どうして演奏が始まってから、パンフレットを見ようとするわけ?
 こうした無神経さが例によって日本の悪癖なのかどうかは、私には分からない。が、音に対する無神経さには、日々出くわすところ。喫茶店で、聴きたくもない音楽が有線放送から流されていることなんて、日常茶飯事。

 さて、「ホルベルク組曲(ホルベアの時代から)」は、グリーグ(Edvard Hagerup Grieg)のなかでも結構有名な曲らしい。私は修士論文の年の夏、少しでも涼しくなるようにと、この曲のピアノ・バージョンばかりを聴いていた憶えがある。軽やかで、叙情的で、ピアノで聴くととてもクールだけれど、弦楽器で聴くと、北欧情緒がグンと増える。とてもいい感じの曲。
 解説によれば、フランス・バロックの舞踏曲がベースだという。ド素人の私には、その辺のところはピンとこない。バロック音楽の単純明快さと、フランス音楽の軽妙さが、感じられなくもない。が、やっぱり、グリーグはグリーグだ。

 この曲は、ルードヴィク・ホルベルクという作家の生誕200年を記念して書かれたものだそう。彼はデンマークとノルウェーの血を引いていて、デンマーク・ノルウェー共通文学という伝統を創った。ノルウェーでは、機知にあふれた喜劇作家として有名で、古典的ヒューマニズムと言えば、この作家の名が挙がるほどだという。
 私は名前さえ聞いたことがなかった。まだまだ、私の世界は狭いな、と思う。

 画像は、コロヴィン「ノルウェーの港」。
  コンスタンティン・コロヴィン(Konstantin Korovin, 1861-1932, Russian)
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テレマン 組曲「ドン・キホーテ」

 
 相棒にテレマン(Georg Philipp Telemann)を教えてもらった。
「テレマンって当時、名声の点でも人気の点でも、バッハを凌ぐほどだったんだよ」
 
 言われてみれば、うん、とってもポピュラーな楽しい曲ばかり。楽才に恵まれて、世俗の心配もなく、その上きっと能天気な人だったんだろうな。曲には暗さが微塵もないし、かと言って軽薄でもない。私は大好き。

 組曲「ドン・キホーテ」はテレマン後年のもので、曲も快活で陽気そのもの。「ドン・キホーテの風車攻撃」、「ドゥルシネア姫に寄せる愛の溜息」、「ロシナンテのギャロップとサンチョ・パンサの驢馬のギャロップ」など、どれも表題どおりの曲で、そのシーンが一つ一つ眼に浮かんで愉快々々。
 さあ、次は「眠りにつくドン・キホーテ」だよ、と相棒に言われて、私も眼を閉じて心静かに曲を待っていると、突然、ドン・キホーテは戦い始めてしまった。彼は夢のなかでも、愛と正義のために走り回っているのだ。あはははは、傑作~、と二人して笑い転げた。

 妄想と現実がことごとく衝突し、滑稽な失敗ばかりを繰り返すドン・キホーテを前にすると、私はいつも、某大学教授ピエーロ氏を思い出してしまう。彼の行動は滑稽そのものだが、当の本人はいつでもどこでも大真面目なのだ。
 ただ、その行動は、ドン・キホーテは善意から発し、ピエーロ氏は悪意から発するのだけれども。

 画像は、セザンヌ「ドン・キホーテ」。
  ポール・セザンヌ(Paul Cezanne, 1839-1906, French)
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