ホーム・バウンド(続)

 
 どこで暮らすにせよ、どれだけのあいだ暮らすにせよ、それは単なる「ロングステイ」であって、「仮住まい」、「一時住まい」なのだという明確な意識を持っていれば、きっと、いつでもどこへでも移りやすいように、“ホーム”にはエネルギーをかけなくなる。そうすればエネルギーは、もっと別のものへと向けられるだろう。

 こうした思想を敷衍すれば、全世界がホーム、つまり故郷なのだ。理由は簡単で、人間自体が本来オープンな存在で、ボーダーを持たないから、そして、囲われたホームよりも、オープンな世界のほうが、人間をより豊かに、より全体性において、はぐくむことができる、そうした価値と度量を有しているからだ。
 また、この視点からすれば、故郷、故国を去ろうとする人々の背に、残る人々が往々投げつける言葉でもある、「捨てるのか」、「逃げるのか」という発想にもならない。

 もともと日本を出ようと思っていた。世界を放浪しようと思っていた。別に主義が変わったわけではない。

 原発事故が起こって、これまでの日本の否定的な面がすべてにおいて改めて検証される形で、事故対応が推移している。人間と自然を大切にせず、真実をないがしろにし、現実をごまかし、虚偽と欺瞞でやり過ごして形だけを取り繕い、義務と責任をうやむやにし、金儲けだけは忘れない。
 人間と自然の復興を抜きにした復興など、単なる経済的な復興にすぎない。日本は国家の存亡を賭けて、相変わらずの空虚な富国を目指している。そして国民の多くは、現実がそれほどひどくはないことを願って自分を慰め、感傷的な掛け声に呼応している。

 こんな日本は、放射能汚染の結果、つまり低線量被曝による疾病の疫学的結果、が眼に見えて現われる数年後までに、真実タブー、国家威信と民族生き残り、放射能汚染収束のための人身御供、等々の面で、ファシズム化していく可能性が大だ。

 だから日本を出て、世界を放浪する方途が、ますます切迫し、現実味を帯びてきたのは、何も私のせいばかりではない。

 冒頭の問題の答え:EXILE

 画像は、ノルデ「エジプトの聖母マリア(砂漠での死)」。
  エミール・ノルデ(Emil Nolde, 1867-1956, German)

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ホーム・バウンド

 
 問題:371×3=?

 かつて相棒の近しい人がこんなことを言った。
「自分の家が家なのではなくて、家の外が実は自分の家だったのだ」
 相棒はこの言葉にいたく感動し、そこから真意を取り出して、以来、世界放浪を志すようになった。

 相棒が定住を否定するとき、その定住というのは大体、一つ所を安住の地として、心身ともに閉じた世界を作り上げてしまうことをいう。

 もちろん人は、生きなければならない、働かなければならない、子供を育てなければならない。だから、どこかに住まなければならない。住むとなれば、そこを快適なものにしたいと願う。
 かくして、使いやすく見目よい住居や家財を買い揃える。すると、モノへの欲求やセンスが助長される。自らエネルギーをかけ、諸種の社会関係とも関わらせて作り上げた“ホーム”には愛着、さらには執着が増し、離れがたくなる。いつしかその存在は自分の一部にまで成長し、人はその存在を含む形で自己を規定するようになる。……云々。

 それはそれで、仕方のないことなのかも知れない。けれども、そんなにまで膨れ上がった“ホーム”は、人間が本来はぐくむことのできる豊かさを制約する、あるいは歪曲する、そうした存在にはなっていないだろうか。
 くつろいで休息ができ、何かの課題を遂行すべき際には腰を落ち着けてそれに取り組むことのできる環境以上の、自己目的的なものに、なってしまってはいないだろうか。

 もし仮に、子育てや、学業や就業、通院、植物やペットの世話、等々、“場所”に制約を受けることが一切ないとして、同時に、十分に健康な肉体と健全な精神を有しているとして、ついでに、普通に生活するに足る資産や収入があるとするなら、人は、どれくらいの真実な気持ち、しかも強い気持ちで、一つ所に定住したいと思うものなのだろう。

 To be continued...

 画像は、ノルデ「子供と大きな鳥」
  エミール・ノルデ(Emil Nolde, 1867-1956, German)

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