世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記
魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-
黒の不条理
黒いシュールなイラストで知られるアルフレート・クービン(Alfred Kubin)は、オーストリア=ハンガリー帝国時代の現チェコ、リトムニェジツェ(ドイツ語名ライトメリツ)の生まれ。その後はオーストリアで活動した。
が、私のなかではチェコの画家としてインプットされている。と言うのは、チェコ旅行の際、テレジン強制収容所の帰りに、このリトムニェジツェに立ち寄って、アイスクリームを食べた思い出があるからなんだ。
自身の内なる声を聞きながら、閉塞的で不安な、けれども諧謔的な、幻夢と不条理のシュールな世界を展開した、チェコ出身でドイツ語圏の表現者、という点で、クービンはカフカを想起させる。実際、カフカとクービンは交友関係にあったらしい。
だがカフカと違って、クービンの世界は私の許容範囲をはるかに越えている。言語を媒介しない、時間さえ要しない、視覚のインパクトというのは凄い。じわじわとは来ない。何の前触れも脈絡もなく、いきなりずとんと来る。
精神を病んでいたクービンが描く世界は、やはり病める世界。死のように不気味で、だが現実離れして取りとめがない。幻想的と形容するよりは、奇想天外で気紛れな世界。が、空想の自由な翼どころか、窒息しそうな強迫を感じさせる。私にはついていけない。
有名な話だが、軟弱な彼は、退役軍人の父親から、何の役にも立たない息子と侮蔑され、虐待紛いの残酷な扱いを受けて育った。
幼くして愛する母親を亡くすが、父親はすぐに母の妹と再婚してしまう。まもなく叔母=継母も死。妊婦からの誘惑。云々、人間不信になるには十分だった。
家庭から遠のき、父親を憎み、人間を呪った彼が逃げ込んだのが、サディスティックに悲劇的な大惨事のファンタジーと、当てのないドローイング。学校の成績は芳しくなく、親戚の写真家の徒弟になるも関心が持てない。やがて、失恋して、母の墓前でピストル自殺を試みる。錆びついたピストルは不発だったのだが。
軍隊に志願するが、神経衰弱で入院。除隊となり、父のもとへと戻ってくる。ここでようやく父から絵を学ぶ許しを得て、ミュンヘン・アカデミーに入学。
この地で出会ったマックス・クリンガーの版画がクービンを解放する。クリンガーに深く魅了された彼は、狂ったように、己の内面世界を表現するようになる。
あとはまあ、なんだかんだと、ペンとインク、水彩、リトグラフで、黒い夢魔的世界を成功裡に創作していく。ドイツ表現主義グループ「青騎士」に加わったり、あのぞっとするようなドイツ表現主義映画「カリガリ博士」のスタッフになったりしている。
が、概ね、アバンギャルドなアートシーンとの接触を避け、妻とともに、ドイツ国境、ヴェルンシュタイン(Wernstein am Inn)近郊の小村、ツヴィクレット(Zwickledt)の小さな古城に引っ込む。
ナチスドイツによるオーストリア併合後は、「退廃芸術」と宣告されたが、それでも細々と制作を続けた。
私、パッサウから自転車で、氾濫寸前のイン川沿いに、ヴェルンシュタインまで遠出したんだよね。クービンの城があったとは知らなかったな……
画像は、クービン「ハオサムの菩提樹」。
アルフレート・クービン(Alfred Kubin, 1877-1959, Austrian)
他、左から、
「馬上の貴婦人」
「未知のなかへ」
「自己観察」
「死の時間」
「水の霊」
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さまよえる幽鬼
チェコの象徴主義絵画には、古典的に耽美なものの他に、思わずプククッ! と笑ってしまうコミカルなものもある。例えば、ヤロスラフ・パヌシュカ(Jaroslav Panuška)の絵。ダークでホラー、なのにユーモラス。
パヌシュカは生涯にわたって風景画を描いている。印象派以降のオーソドックスにモダンな画風で、私は十分良い絵だと思うのだけれど、解説では、毒にも薬にもならない退屈な絵、なんて評されている。
なぜこんなふうに、ライフワークだった風景画を不当に酷評されているのかと言うと、一方でパヌシュカが描いた魔的霊的存在たちが、画家の名から即座に思い出されるほど、容易には忘れがたい印象を与えるからだろう。
詳しくは知らないが、パヌシュカはプラハのアカデミーで、風景画家の巨匠ユリウス・マジャーク(Julius Mařák)の教室で学ぶ一方、アール・ヌーヴォーの象徴主義画家、マクシミリアン・ピルナー(Maximilian Pirner)の教室にも出入りしていた。
パヌシュカが本来の領分から逸脱して、後者の主題で、ユニークなゴーストの絵を描いたのは、そのキャリアの初期の頃だったらしい。が、これら一連の絵のせいで、パヌシュカはチェコ絵画史上、文句なくシンボリズムのデカダンに分類されている。
煉獄をさまよう魂のごとく姿で、ある種の個人的な不幸を悶え苦しむ人々がいる。彼らの苦悩や悲嘆は、当人にすれば真剣で、真実そのものなのに、傍からそれを眺めてみると滑稽で、くだらなく映る。
パヌシュカの描く魔的霊的存在たちは、そんなふうな姿に見える。幽霊、吸血鬼、魔女などの物怪たち。その存在はぞっとするほど怖ろしい。なのに人間臭い。邪気がなく、呪詛したり攻撃したりして、生身の人間に危害を及ぼしてくるようには見えない。
大地に根差すことができず、小暗い時刻、ゆらりと地面を離れて空中を浮遊する。実体なく、細長く伸びて、消えそうに見えるけれども、この世界から消え去ることができない。そうした存在になってしまった自分を憐れみ、なってしまった理由を深く悔いて、苦悶のなかを泳ぎ、当てもなく蕩揺する。
よく考えてみると、おっかない。でも、面白い。
画像は、パヌシュカ「吸血鬼」。
ヤロスラフ・パヌシュカ(Jaroslav Panuška, 1872-1958, Czech)
他、左から、
「魔女」
「毒キノコ」
「母の死霊」
「意味深長な頭部」
「黄昏のツェフンスキー池」
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幻想のメランコリー
私の場合、絵画史におけるルネサンス以前の中世絵画と現代の抽象絵画は、猫にくれてやる魚の頭と尻尾に当たる。
で、自前の膨大なコレクションを持っていて、親切丁寧に一通りの近現代絵画を常設展示してくれている、ホンモノの美術館で、クタクタに疲れた頃に抽象画なんかが登場したりすると、途端に弛緩する。やれやれ、これで手抜きができる、と適当に鑑賞しはじめる。
プラハの国立美術館のうち、近現代絵画を展示しているヴェレツジニー宮殿でも、その種の疲労と弛緩がやって来て、適当モードでまわっていたところ、ぱったり立ち止まったのが、アレーン・ディヴィシュ(Alén Diviš)の絵の前だった。
心に闇を持つ素人の落描き、というのがパッと見の感想。第一印象というのは大事だな。あながち的外れじゃなかった。
ディヴィシュという画家は、生前からすでに忘れられていたという。彼のわずかな友人たちが、彼を記憶し、その絵を保存した。
ディヴィシュが再発見されたのは、1980年代。80年代というと、壁や電車に落描きするグラフィティがアートとして持てはやされた時代。なるほどディヴィシュは、グラフィティを先駆していたというわけ。
ディヴィシュのスタイルは、いわゆる「アール・ブリュット(Art Brut)」に括られるらしい。アール・ブリュットは「生(=直接的、無垢、生硬)の芸術」という意味で、英語では「アウトサイダー・アート(Outsider Art)」。
表現者が、芸術の既成の知識・訓練・傾向などに汚されることなく、内的衝動から表現した作品のことを指し、精神疾患者、知的障害者、交霊体験者、野宿生活者らの作品の評価において用いられることが多い。で、ディヴィシュの立場は囚人、刑事施設被収容者だった。
ディヴィシュは、当時モダンアートの都だったパリに出、同郷の前衛画家フランティシェク・クプカから絵を学ぶ。が、やがて第二次大戦が勃発。
チェコスロバキアがナチスドイツに占領されると、祖国解放のためにフランス参戦を煽ったらしい。諜報活動の嫌疑で起訴され、かのジャン・ジュネも収容されたサンテ刑務所に投獄される。
それがディヴィシュの絵の転換点となった。彼は独房の壁に、前の囚人が残した落描きを見出して、霊感を得る。孤独な幽閉のなかで、暗い夢のように彼の知覚を訪れる幻影たち。ディヴィシュは、運命の悲劇を担う実存というテーマに夢中になる。陰鬱で、気の滅入るような暗澹とした、幻想的なイメージに没頭する。
フランス、モロッコ、マルティニークの収容所を転々とし、釈放後はニューヨークに亡命。戦後、ようやくチェコスロバキアに帰国する。ディヴィスの絵は注目されるかに見えたが、時代は、鉄のカーテンが引かれ、ヨーロッパが東西に分断された頃。
閉鎖的な共産主義体制のもとで、ディヴィシュはこれまで以上の表現探求を諦め、聖書の物語などを主題に、精神的なイメージを描いて、細々と活動を続ける。が、時勢は彼を置き去りにし、取り残された彼は、貧困のなかでひっそりと死んだ。
画像は、ディヴィシュ「孤独」。
アレーン・ディヴィシュ(Alén Diviš, 1900-1956, Czech)
他、左から、
「囚人キリスト」
「七日間」
「ノアの方舟」
「太陽よさらば」
「E.A.ポーの短編のための挿画」
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プラハ旅情
以前、ヨーロッパで、東洋人を珍しがった女の子が、「なぜあなたたちは、こんな顔をしていないのか?」と、両手の指で両眼尻を端の端まで引っ張り上げて、自分の顔を作って見せた。彼女の仕種と、その大きな眼が倍くらいに吊り上がって細く伸びた表情とが、あまりに滑稽で、私たちはゲラゲラと笑ってしまった。
東洋人の顔って、西洋人にはこんなふうに見えるんだな。……浮世絵に憧れて、海を渡って遥か日本にまでやって来た、T.S.シモンのスケッチを見つけて、そんなエピソードを思い出した。彼はペンとインクで、吊り上がった細い眼をした、扁平な顔の、着物を着たニッポン人たちを描きとめている。
チェコの画家、タヴィク・フランティシェク・シモン(Tavík František Šimon)の絵は、プラハを初めとした都市の情景を描いた版画が、圧倒的に印象に残る。
解説によれば、彼はボヘミア北東の都市イチーン近郊の生まれ。画家を志してからは広く旅をして、旅先の異国の風景や文化風俗を描いた。プラハのアカデミー時代には、奨学金を貰ってイタリア、ベルギー、イングランド、フランスへ。一人前の画家になってからは、ニューヨーク、ロンドン、オランダ、スペイン、モロッコ、セイロン、インドへ、さらには極東、日本にまで。
彼の絵には、異邦人が実際に垣間見た異国のシーンへの驚嘆と感動のイメージが、率直に、情感豊かに現われている。
パリ滞在中に印象派に接したらしい彼の油彩画は、フランス印象派からの確かな影響が感じられる、明るい色彩。けれども、今ひとつ締まりがなく、その陽光は眠気を誘う。
が、印象派を通じて知ってしまったのが、浮世絵の世界。彼は版画にのめりこむ。端的な、思い切った構図。明瞭な線描と陰影。そこに、淡彩のような、黄昏めいた微妙なトーンが、ときにパートカラーを伴って強調される。画面を照らすのは、冬の陽光のように稀薄で、くっきりと緊張感がある光。これはもう眠くならない。
浮世絵に感激して、はるかヨーロッパから日本にまで来た画家たちが、本当に何人もいたんだな。シモンは漢字で、自分の名前を「四門」なんてサインしている。
プラハに帰国後はアカデミーで後進を育成し、チェコのグラフィックアートを牽引した。が、死後、共産主義時代のチェコスロバキアでは評価されず、近年まで忘れられていたという。
画像は、T.F.シモン「冬の市場」。
タヴィク・フランティシェク・シモン(Tavík František Šimon, 1886-1914, Czech)
他、左から、
「冬景色」
「冬の教会」
「静寂のフラッチャニ広場」
「ニューヨーク、ブルックリン橋」
「日本の富士山」
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チェコのキュビスト
近年、その作品が盗難事件に遭って以来、世界的に注目度が急上昇中というエミール・フィラ(Emil Filla)。彼は国内では、キュビズムをチェコ絵画にもたらした、チェコ・モダニズムの開祖として評価されている。
私はキュビズムが嫌いな上に、その良さも理解できないのだが、まあ教養ということで。
パブロ・ピカソがジョルジュ・ブラックとともに創始した、絵画開闢以来の遠近法を放棄してフォルムを解体・再構成するという手法キュビズム。見た目は奇抜、その奇抜さを尤もらしい理屈で武装するこのスタイルは一世を風靡し、出るわ出るわの追随者たち。
が、フォルムの解体・再構成という、純粋なキュビズムの時期というのは、比較的短命で、当のピカソ自身、さっさと放り出している。
で、ピカソがキュビズムを通り抜けた後の、一見幼稚で、暴力的で化け物じみている、けれども色彩はフランス的に優雅な具象の画風。それが、フィラの描く絵のスタイルとして、私のなかで最も定着している。実際、フィラの絵はチェコ的ではなくて、フランス的だ。
もともとはゴッホやボナールに心酔していたという、色彩の画家フィラ。プラハのアカデミーで学んだ後、若き同僚たちとともに、グループ「オスマ(Osma、8人組)」を結成する。このグループは、フランスの野獣派とドイツ表現主義「ブリュッケ」とを合わせたような様式を志向したというが、フィラ自身が最も共鳴したのはムンクだった。
画学のため広くヨーロッパを旅行していたフィラは、パリでピカソらがキュビズムに突入した頃に、それに遭遇したのだろう。ピカソらと知己を得、早くもキュビズムの様式を取り入れる。ビジュアルアーティストの前衛グループを結成し、チェコ・キュビズムを牽引した。
以降、総合キュビズムを発展させ……というか、実際にはそれから解放され、第二次大戦前夜には、ファシズム抵抗運動のなかで、スキタイ美術に着想を得た、人間と動物が、あるいは動物同士が戦う「動物文様(Animal Style)」を取り入れて、独自のスタイルを達成する。
第二次大戦勃発直後に、ヨセフ・チャペックら、他の画家たちとともにゲシュタポに逮捕され、ダッハウ、続いてブーヘンヴァルトの強制収容所に収監される。チャペックは力尽きたが、フィラは生き残り、戦後、プラハに戻ってアカデミーで後進を育成した。
画像は、フィラ「彫刻家とモデル」。
エミール・フィラ(Emil Filla, 1882-1953, Czech)
他、左から、
「ドストエフスキーを読む人」
「躍るサロメ」
「鏡の前の女」
「コップとブドウのある静物」
「高架橋のあるフルボチェピ風景」
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