ロボットの名付け親

 
 
 プラハの国立美術館には、ヨセフ・チャペックの、戦火のなかの女性を描いた小品がいくつかある。
 チェコスロバキアの国旗色をしたボロ服の女性は、おそらく、母の姿でチェコスロバキアを擬人化したものなのだろう。顔には何の表情もないが、拳を握り、指を差し、腕を振りかざして、全身の身振りで、祖国を蹂躙する侵略者たちを告発・糾弾している。

 ……ヨセフ・チャペックがこういう油彩を描いていたのは、知らなかった。私にはまだまだ知らないことがたくさんある。

 私の場合、その人を好きになるほどには知っていないけれど、どうやっても嫌いになれないだろう、という種の人間がいて、ヨセフ・チャペックなんかもそうだ。
 平凡な人間の些細な日常に共感し、その日常をエスプリとユーモアを織り交ぜて思索し、人間性にまで掘り下げてゆく人。だが人間性の危機の時代には、その破壊者に対して率直に戦いを挑む人。

 ヨセフ・チャペック(Josef Čapek)は、チェコの国民的作家カレル・チャペックの、3歳年上の兄。彼らはチャペック兄弟として活動し、兄ヨセフは弟カレルと共著で戯曲や児童書などを執筆した他、それら書籍の装丁や挿絵も手がけた。
 彼らの名を一躍知らしめた戯曲「R.U.R.」に登場する「ロボット」という造語が、ヨセフの創案であるのは、有名な話。

 チャペック兄弟のうちカレルのほうが有名なのは、カレルが優れていたからというよりも、ヨセフが多芸多才だったからだろうか。彼はタブローを描いただけでなく、版画や挿画、風刺画、舞台装飾、戯曲に小説、ノンフィクション、論説、美術評論などなど、多岐にわたって活動している。が、最も力を入れたのは児童書で、絵と物語の両方に携わった。
 犬好き猫好き、園芸好きの反戦作家カレルの文才や人柄を粗末に見るわけじゃないけど、そんな兄ヨセフの存在は絶対に大きい。

 優等生のカレルとは違って、ヨセフは若くして家族と離れ、職業訓練学校に進んでいる。が、間もなく絵に転身、プラハで絵を学ぶ。
 20世紀初頭のパリに兄弟で滞在、詩人アポリネールらと親交を持つ(後にカレルはアポリネールの詩を翻訳している)。アポリネールと言えばキュビズムの擁護者。ヨセフもキュービックに絵を描いた。
 が、ボヘミアに帰国後は、キュビズムの面影は表現主義的な、独特のボヘミア民俗芸術に溶け込んでいく。円や三角、四角など、平らな積み木を重ねたような画面作りが、ヨセフの絵におけるキュビズムの名残。

 不況とファシズムの台頭、一路戦争へと突き進む不穏な情勢のなか、チャペック兄弟はペンの力で、ヒトラーとナチスの狂気を訴えた。当然、ナチスには敵性分子と見なされる。
 1939年、チェコスロバキアに侵攻したナチス親衛隊は、早速カレル邸になだれ込む。「あら、皆さま、いらっしゃるのが少々遅うございましたわ」と嘲笑う妻君。病弱だったカレルはすでに前年、病死していたのだった。

 が、ヨセフは逮捕される。強制収容所に転々と収監され、1945年4月、連合軍に解放されるほんの数日前に、アンネ・フランク終焉の地でもあるベルゲン=ベルゼンで死去した。

  あの大空の青
  そんな青い絵を私は描きたい……

 ヨセフはきっと、収容所の塀も妨げにならない空を見て、心に希望と保ち続けることができた、そういう人だと思う。

 画像は、チャペック「戦火」。
  ヨセフ・チャペック(Josef Čapek, 1887-1945, Czech)
 他、左から、
  「貧しい女」
  「ミスター・マイセルフ」
  「山中で」
  「遊ぶ子供たち」
  「川岸のピクニック」
      
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スロヴァーツコの心像

 

 ヨジャ・ウプルカ(Joža Uprka)は、それほど有名な画家ではないらしい。が、チェコの民族衣装を描いた風俗画のせいで、印象に残っている。

 ウプルカが描いたのは、生まれ故郷のスロヴァーツコ地方(モラヴィア・スロバキア)。ここはチェコ南東部、スロバキアおよびオーストリアと国境を接する地域で、風俗、民間伝承、音楽、ワイン、衣装など独特の伝統文化を持つという。
 今はもう過ぎ去ってしまった時代の、スロヴァーツコの民衆の生活の情景が、ウプルカの生涯にわたるテーマだった。

 それを彼は、19世紀後半に革新的だった印象派の手法で描き出した。底抜けに明るい色彩と大胆な筆捌きのせいで、彼の絵は陽気で軽快で、ざっくばらんで気取らない。
 故郷スロヴァーツコへの彼の執心と耽溺は、その文化の存在に対する健全な情熱と敬愛、文化の価値に対する譲れない信念に満ちている。紛いない愛情と知識を持つ者の瞥見だけが、逃さずに描きとめることができた、祝祭の行事のために着飾った村人たちの、生き生きとした一瞬。光と生と伝統への讃歌。

 これは私の印象なのだが、民族衣装を着込んだ人々は、群像になればなるほど、表情はおぼろで、必ずしも喜びを見て取れない。ウプルカの描きたかったものは、人々の衣装と、衣装が披露される祝祭と、祝祭に集う群衆の趣き、それ自体だったのだと思う。

 スロヴァーツコ地方中央の、クニェジュドゥプ村の生まれ。プラハのアカデミーで絵を学び、その後間もなく、プラハを去って永遠にスロヴァーツコへと移る。
 パリ滞在時に印象派に接し、光の色彩表現を追求するようになる一方、主題はスロヴァーツコの伝統風俗を離れることはなく、スロヴァーツコの印象と叙景を新鮮な表現で画面に描き出すことに傾倒。ウプルカのスロヴァーツコの情景は、彼の抱く心像なのだ。
 スロヴァーツコ地方じゅうを、絵を描き、展示し、販売しながら旅行する、という専心ぶりなのだから、半端ない。諸種のモラヴィア団体の活動にも協賛し、「モラヴィア芸術家協会」まで設立、初代会長を務めている。

 私、ブルノのほうには行かなかったんだよね。やっぱり一度、行ってみたい。

 画像は、ウプルカ「万霊祭」。
  ヨジャ・ウプルカ(Joža Uprka, 1861-1940, Czech)
 他、左から、
  「開基祭への道のり」
  「聖アントニーンカ祭の最後の一群」
  「ウーヴォドゥニツェ(祭儀用の肩掛け)の娘たち」
  「農民の結婚」
  「民族舞踏の娘の頭部」

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愛憎の相克

 

 フリーダ・カーロ(Frida Kahlo)は、現代メキシコ絵画を代表する女流画家。いろんな本が出版され、映画にもなっている。
 こんなにもカーロが有名なのは、その波瀾に富んだ人生のときどきに、自身がこうむった不条理な苦悩を描き続けたからだろうか。彼女の絵は、その人生と切り離して、壁に飾っておけるようなものではない。強い意志をもってしっかりと、だが絶望と諦観をもって無気力に、自己を見つめる自画像。

 ……でもまあ、シュルレアリスム全般が好きでない私は、メキシコ先住民族的で伝統キリスト教的な幻想ムードを醸しつつも、やっぱりシュールなカーロの絵は、あまり好きじゃない。

 彼女の絵には惹かれないが、かと言って人生にも惹かれない。
 愛とか苦悩とか情熱とか運命とか、カーロの人生の周囲にはそんな言葉が飛び交っている。もちろんそれらの愛なり苦悩なりは真実のものだと思う。
 が、それらをそのような形で生きたということ、そのような形で表現したということ、ここに、カーロの錯綜したナルシスティックな情念を感じてしまう。 

 自画像のカーロは、一文字に繋がった蛾のような眉毛に、うっすらと口髭まで生えた、濃い顔をしている。実際はすごぶる美人で、繋がった眉毛も「私の額の小鳥」と気に入っていたという。
 美人な上に聡明。が、天は二物どころか、平気で三物を与える。それが6歳で患った小児麻痺のために残った、右脚の後遺症。彼女はパリでもニューヨークでも丈の長い民族衣装を着て人気を呼んだというが、これも萎えた脚を隠すためだった。

 美と才知に加えて、障害のせいで生じた孤独と内省と自意識。メキシコ革命後の激動と重なる、若く美しい青春。アナーキーな知的グループ“カチュチャス”に入り、リーダーのアレハンドロに情熱的な恋をする。
 が、18歳のとき、乗っていたバスが路面電車と衝突し、串刺しにされて、下腹部をずたずたに損傷するという、悲劇の事故。以降、生涯にわたって三十数回もの手術が続く。
 アレハンドロとは破綻。病室の天井につけた鏡に映る自分を、ベッドの上で描いたのを機に、独学で絵を描くように。

 文化人サークルに出入りし、メキシコ共産党にも入党したカーロは、そこで、メキシコ・ルネサンスの牽引者、壁画家ディエゴ・リベラと出会う。やがて結婚。このときカーロは22歳、リベラとは21歳の年齢差。加えて「美女と野獣」と称される容姿の差。
 リベラは野獣というよりは醜く太ったガマガエルで、おまけに激しやすく、女癖が悪く、嫉妬深い。が、それらを美点と思わせるカリスマを持つ“人物”だった。
 
 損傷した下腹部にこんな巨漢が乗って、大丈夫なんだろうか。カーロは何度か妊娠するが、後遺症のためにすべて流産。やがて、リベラが妹に手を出していると知る。
 仕返しとばかりに、カーロもまた奔放な恋愛に走る。彫刻家イサム・ノグチや、亡命中の革命家レオン・トロツキー、リベラの女たちとも同性愛関係を持つ。……ラテンの愛憎の情熱って、ついていけん。

 リベラとの別居、離婚、再会、和解、そして再婚。名声の確立と、健康の悪化。右脚切断後は自殺を考えるようになる。
 肺炎で死去。享年47歳。

 以上、私には理解しづらい画家。カーロのDVDでも観てみようかな。

 画像は、カーロ「自画像」。
  フリーダ・カーロ(Frida Kahlo, 1907-1954, Mexican)
 他、左から、
  「自画像」
  「テワナ衣装の自画像」
  「髪をほどいた自画像」
  「根」
  「死の仮面をかぶった少女」
     
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チェコ絵本画家の元祖

 

 ミコラーシュ・アレシュ(Mikoláš Aleš)は、チェコで最も人気のある国民的画家なのだという。

 ミュシャと同世代のアレシュが、本国でミュシャよりも人気があるのかどうか、私にはちょっと分からない。アレシュの人気はボヘミアを越えるものではないのだが、ボヘミアでは隅々まで広がり、根深く浸透しているらしい。
 理由は、アレシュがチェコの歴史や伝統をモティーフに、膨大な挿画を手がけたからだろう。彼はチェコの民話や民謡、歴史上の偉人や宗教上の聖人の物語、季節の風景と風習、諺や格言、詩などなどのために、ペンとインクの素朴な線画で、スラブ民族の生活の情景を豊かに描いた。アレシュが挿画を添えた子供向けの童話本は、チェコのどの家庭にも必ず一冊はあるのだそう。

 子供の頃、早世した兄から歴史を教わり、それが生涯の関心となった。母の死後、プラハのアカデミーに入学、チェコを代表する画家ヨゼフ・マーネス(Josef Mánes)の絵に学ぶ。「祖国」と題する作品群でプラハ国民劇場の広間を改装するなど、生前は建築のための作品で成功し、名声を得た。
 が、駆け出しの頃は、アトリエも持てないほど逼迫していて、雑誌から教科書から、トランプからカレンダーから、何のためにでも節操なく描いた。その膨大な挿画が評価されたのは、アレシュの死後。

 解説にはよく、アレシュは典型的なチェコ人だった、とある。チェコ的な人柄がそのすべての作品に反映され、アレシュは絵画・個性ともに、19世紀チェコ絵画の偶像となって、後代に伝えられた。云々……
 こんなふうな感覚を身をもって理解できるほど、私はチェコ文化には通じていない。が、ナチス・ドイツに侵略・解体され、祖国の独特の文化が蹂躙された時代、人々が民衆文化のアイデンティティーを各々の胸に護るのに、どこの家庭にもごく普通にあり、誰もがそれに親しんで育ったという、アレシュの描いた祖国の歴史上の英雄たちが、支えになったのはうなずける。

 戦後、ソ連覇権と共産主義の体制のもとでも、アレシュの絵は大いに称賛され、その写実スタイルとも相俟って、プロパガンダ目的で広く利用されたのだという。
 ……ミュシャの「スラブ叙事詩」が黙殺されたのとは対称的だな。権力的イデオロギーというのは、利用できるものは利用するから、この場合、アレシュの思想云々の問題ではないと思うけど。

 画像は、アレシュ「ジャロフ」。
  ミコラーシュ・アレシュ(Mikoláš Aleš, 1852-1913, Czech)
 他、左から、
  「王の戦士の墓前で」
  「カルルシュテイン城の鴉」
  「我を照らす黄金の太陽」
  「一月」
  「鷺」  

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リブシェの画家

 

 ヴィーチェスラフ・カレル・マシェク(Vítězslav Karel Mašek)というチェコの画家は、ドドンと一枚、「預言者リブシェ」という絵だけで知られている。暗く深い青い絵で、是非ナマで観たいものだと思っていたら、「オルセー美術館展」で来日してくれた。
 実物はほぼ正方形の大画面の絵で、リブシェは等身大くらいに大きい。それが点描で描かれていて、細かな色彩の斑点自体が光の輝きを放っている。すげー……

 その後、マシェクという画家を調べたが、「リブシェ」があまりに有名で、それ以外の絵はなかなか見つからない。「リブシェ」を描いた画家、というくらいの解説しかない。……こりゃ、チェコまで行かなきゃ分からないんだろうな。
 結局、マシェクのことなんかすっかり忘れて、チェコの美術館でマシェクの絵に出くわすまで、思い出しもしなかった。

 ぬおッ! このマシェクって、あのマシェク? ……点描象徴主義(と私が勝手に命名している)の「リブシェ」があまりに強烈だったので、全然スタイルの異なる一群の絵がマシェクのものだって見過ごすところだった。
 ミュシャがグランド・スタイルで描いた一連の「スラブ叙事詩」と同じスタイル。大画面で、大時代的で、けれども透明な写実で、民族的に繊細で、ディテールまで装飾的。

 館内は写真撮影可なのだが、私のコンデジなんかじゃ、どうせ写らん。多分誰かしらが、一眼レフでパシャパシャやってアップロードしてくれているだろう、と考えて、撮影しなかった。が、帰国後調べても、マシェクの絵はやっぱりヒットしなかった。
 う、う、……ミュシャと交友、オルセーの「リブシェ」で有名、云々と一言説明入れといてくれりゃ、注意を引くのに。自分とこの絵画遺産に無頓着すぎるよ、チェコ。マシェクをチェコ・アール・ヌーヴォーの画家と呼ぶなら、この辺りの絵をもっと広めてくれなくちゃ。

 さて、マシェクの略歴を記しておくと……

 プラハのアカデミーで絵を学んだ後に、ミュンヘンに留学。同じくアカデミーで学んでいたミュシャと交友を持つ。さらにパリのアカデミー・ジュリアンに移るが、そこでもミュシャと一緒だった。
 パリ滞在中、スーラの新印象派を信奉。シャヴァンヌを初めとするフランス象徴派らが描いた世界を、点描の技法をもって描き出す。その後、なぜか帰国して建築を勉強。
 ミュシャがパリにて名声を得る前年頃から、ミュンヘンやデュッセルドルフで出品。「リブシェ」はこの頃の作品で、その色彩のきらめきは、かのクリムトに大いに感銘を与えたという。

 が、結局は帰国し、プラハの美術学校で教鞭を取る(応用美術)。マシェクのアール・ヌーヴォーチックな、民族的、寓意的な歴史画・宗教画は、どうもこの時期のものらしい。
 ミュシャも十数年後に帰国して以降は、「スラブ叙事詩」の連作を描いた。チェコスロバキアという国が、そういう時代だったのだろう。

 画像は、マシェク「預言者リブシェ」。
  ヴィーチェスラフ・カレル・マシェク
   (Vítězslav Karel Mašek, 1865-1927, Czech)

 他、左から、
  「春」
  「蜥蜴」
  「1898年プラハ建築家と技師展」
  「受胎告知」
  「クパロ祭」  

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