金沢の街を歩いて(続)

 
 夕方に京都を後にして、金沢に向かって北陸線を延々と乗り継いだ。着いたのは夜中になってから。
 今回は食事の時間がなくて、朝昼晩とも、コンビニ弁当か駅ソバという、貧困なモノで済ませてばかり。我儘言うつもりはないけど、やっぱり食事は磁器や陶器の器に盛られた、温かいものがいいなー。

 さて、金沢に着いたときにはもう真っ暗で、景色なんて分からなかったけれど、それでも待ち望んでいただけに胸が小躍りした。改札を出てすぐに50円玉を拾った。よッし、幸先いいぞ、金沢!

「金沢と言っても、同じ日本なんだから、駅を出たら、キャッシングのネオンがこれでもかとあるんだからね」と、相棒が釘を刺す。
 が、北陸の地方都市のせいか、それとも真夜中のせいか、ネオンの明かりはほとんどなかった。金沢は景観に気を配っているらしい。駅周辺は計画的に、小綺麗に整備されていて、電信柱も電線もない。街路はレンガで、樹が植わっていて、水も流れている。街角にはオブジェがある。看板や広告が少なく、コンビニのネオンだって小さくて目立たない。この程度だったら許せちゃうよ~。
 駅のエントランスは大きなドームになっていて、ベンチには人がゴロゴロと寝ていた。が、ホームレスかと思いきや、思いのほか清潔そうな格好をしているので、よく見るとバックパッカーの旅行者たちらしい。身の危険さえなければ、私も野宿してみたい~。

 翌朝、金沢の街を歩いた。緑が多くていい感じ。公園や街路には、ポプラや銀杏ではなく、松が植わっているのが面白い。それが、近代文学館や県庁舎(かな?)などのレンガ造りの建物とマッチしている。金沢城や兼六園といった有名な史跡のほかにも、旧なんたら家、というような古い名士の家にも出入りできるようになっている。
 ヨーロッパのように石造りの道に石造りの建物、というわけにはいかなくても、街路をキレイにして、電線や電柱、看板をなくしたり、街路樹を植えたりするだけで、街の雰囲気は格段に良くなるものだと思う。雇用や予算のためだと弁解して、無駄なモノを作ったり道路を掘り返したりするよりも、同じ雇用や予算でどれだけ景観が良くなるか知れない。

 しかし、とにかく時間がない。
「金沢城公園か兼六園か、どちらかにしか寄れないよ。庭園の造形美よりも、ただのお城にしておこうか」
 そう言われて、金沢城へと向かうことに。

 To be continued...

 画像は、金沢城。

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金沢の街を歩いて

 
 京都に行くとなったとき、相棒が言った。「そのまま、金沢まで行ってみようか」
 わお、マジ?! 金沢には是非一度行ってみたくて、青春切符の季節になると、金沢~、金沢~とねだっては、却下されていた。今回、降って湧いたような、駆け足の金沢旅行!

 学部生のとき、私は院生のチャトラ氏と親しくしていた。軽快でセンシティブな彼を、私は兄のように慕っていた。
 彼に何か尋ねられると、私は決まって同じ問いを彼にも向けた。すると彼はいつも、照れたように笑ってこう言うのだった。
「質問に質問で答えるのはズルいぞ」
 彼はあまり自分のことを話してはくれなかったけれど、ときおり彼が洩らす、犬の可愛がり方や、ドラムの叩き方、天ぷらの揚げ方などを聞いたときには、胸が躍った。開け広げに他人に近づかない彼が、少しずつ私に近づいてくれるのが嬉しかった。
 
 冬、他の学生たちから離れて、二人してストーブを囲み、背を丸めて手をかざしながら笑った彼の顔を、今でもよく憶えている。
「寒がりで猫舌で、チマルってまるでネコだね」

 チャトラ氏はハーゲン氏の同期、そして友人で、ともに某大学教授ピエーロ氏の主催する研究会に所属していた。
 ピエーロ氏の研究会は、ピエーロ氏自身が意図したように、彼を権威と仰ぐ研究者集団という性格を持っていた。なかでもハーゲン氏は、率先した太鼓持ちだった。
 私がチャトラ氏と親しくしていたのは、折しも、その研究会のなかで、ピエーロ氏のファミリーという、そうした性格の否定面を厳しく指摘する声が上がった時期、そして、ピエーロ氏が自分の研究会からそれら批判者を追い出すために、研究会をいったん解散し、再び再結成した時期に符合していた。
 
 私はその研究会に参加したことはなかった。私自身は、研究者が自己の研究とは別の目的を持ってそうした集団に身を置くことを疑問に思っていたが、いろいろな事情で、当時私は、ピエーロ氏が自分の陣営に引き入れるべく対象とされ、彼のさまざまな画策に巻き込まれていたのだった。
 ピエーロ氏一派が私の周囲に、ピエーロ氏を礼讃するブロック、そしてピエーロ氏の批判者を誹謗するブロックを作ったとき、多分、チャトラ氏は悩んだと思う。彼は、自分の属する研究会と、私とのあいだで板挟みになって、私を抑圧する動きに加担せず、その当事者とならないよう努めるのに、精一杯だったのだと思う。
 彼は決して、ピエーロ氏一派のように、私に無理強いする態度も、それが失敗したのちに私を無視する態度も、取らなかった。けれど、もうそれっきり、それ以上私に近づいてはくれなかった。

 チャトラ氏の故郷は金沢だった。
「いいところだよ、寒いけど。ネコにはムリかな」
 それ以来、私は金沢に行ってみたかったのだった。

 To be continued...

 画像は、金沢城内の散歩道、白鳥路。

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永遠でない女性美

 

 「クールベ美術館展」のあとは、Uターンして京都まで足を伸ばして「ルーブル美術館展」へ。例によって、青春18切符で在来線を乗り継ぐ、チンタラ旅行。
 生まれ故郷、京都に来るとき、私の心は憂鬱になる。観光客にすれば、京都は趣のある古都かも知れないが、私に言わせれば、旧弊と因習だらけの窮屈な街。街が古いということは、住んでいる人間の頭も同じくらいに古いわけ。

 この企画展は、新古典派とロマン派の絵が大半で、しかも、アングル「泉」やダヴィッド「マラーの死」、ドラローシュ「若き殉教者の娘」など、有名どころも数多いから、好きな人にはたまらないだろう。
 が、この時代の絵、私は特に好きなわけではない。歴史画というのは、とにかく堅苦しい。けれども、「泉」はやはり捨てがたい。観に行ってよかった。

 ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres)は、言わずと知れた新古典派の巨匠。父親はマイナーな画家かつ音楽家で、アングル自身もヴァイオリンの名手なのだとか。
 ダヴィッドの弟子で、イタリア絵画を学び、新古典派の頭目としてドラクロワらロマン派の絵画運動に対立し、フランス画壇では希望どおりの成功を博したアングルだけれど、正統派どころかかなり個性的な画家だと私は思う。
 
 絵は線でなく面で描く、というセオリーは、当時のアカデミー教育で始まったと言われる。が、アングルは初期の頃から、かなり露骨に線描に重きを置いた画家として有名。彼の線描は、ドガやピカソに影響を与えたという。
 もちろん彼の絵は、輪郭線に縁取られてなどいない。古典的なルールに則って、流麗なトーンで、エナメルのように滑らかに仕上げられている。が、彼の絵を観て感じる、あの感覚的ななまめかしさは、彼の線、殊に曲線の描写のせいであるような気がする。
 
 また、理想的な美を表現しようとした新古典派にあって、アングルの美はかなり歪んでいる。裸婦は胸がゴム毬のようだったり、背中が長すぎたりする。アングルはデッサンの名手なのだから、女体の歪みはそのまま画家の好みということになる。
 主題も偏執的なほど限定されていて、特に東洋の女奴隷のヌードは何度も繰り返し描いている。
 
 女奴隷が裸でうじゃうじゃとたむろするのを、覗き穴から覗いたような絵、「トルコ風呂」は、アングル晩年の傑作(?)と言われている。う~む。あまりに俗悪すぎて、私には理解不可能。
 考えてみればこの時代、マネが挑発的なヌードを描き、印象派の新しい絵画がどんどん出てきた。老アングルとしては、「んじゃ、ワシも描くとしようかのう」ってな感じで、腕を振るったのかも知れない。
 もともとアングルは、ゴシック的と言われようと、新古典派的とかロマン派的とかと言われようと、本人好みに絵を描いてきたように思う。だからこの絵も、ブルジョア的で卑俗にせよ、とにかくアングルの中身が詰まったものではあるに違いない。

 画像は、アングル「泉」。
  ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル
   (Jean-Auguste-Dominique Ingres, 1780-1867, French)

 他、左から、
  「ラファエロとラ・フォルナリーナ」
  「オシアンの夢」
  「ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像」
  「グランド・オダリスク」
  「女奴隷を連れたオダリスク」

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リアリズムの旗手

 

 「クールベ美術館展」に行ってきた。ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet)は私の好きな画家の一人。19世紀絵画のなかでも、クールベの絵はかなり力強い位置を占めている。
 
 歴史画以外のほとんどあらゆるジャンルの絵を描いているクールベだけれど、とりわけ私が好きなのは風景画。故郷オルナンの風景や、海景が有名で、特にオルナンの緑したたる岩がちの風景は、クールベ色と形容できるほどの独特の色彩。
 私は結構長いあいだ、クールベが断崖や谷間を取り上げるのは、彼の性格によるものだと思っていた。が、どうもオルナンそのものが、そうした景色であるらしい。オルナンはジュラ山脈にある小さな町で、スイス国境に近い、森と牧草地に恵まれた山岳地帯だが、オルナンそのものは岩だらけの峡谷なのだそう。是非行かねば。

 写実主義の旗手と評価されるクールベだが、彼自身はそのレッテルを快く思っていなかったらしい。彼の絵の技法自体も特に新しいものではなく、例えば、絵を仕上げる手法は従来のやり方を踏襲しているし、本人、のちに卑下して、独学だ! と言い張っているが、ルーブルに通って作品を模写するという古典的なやり方で、絵の訓練を積んでいる。

 クールベのリアリズムはむしろ、幾分挑発的な、そのテーマに現われていると思う。労働にいそしむ人々、醜い裸婦、ナルシスティックな自画像。ハンサムで自信過剰で、デリカシーに欠けると見える態度をわざわざ取るクールベが、ジャーナリズムの槍玉に上がったのは、よく分かる。きっと私も実際に同時代、クールベという人物を知っていたら、何、こいつッ! と思っただろうし、壊さなくてもいい記念碑を壊して逮捕されたり亡命に追い込まれたりしたときには、自業自得だッ! と思っただろう。
 が、手厳しい批評家も、彼の技量には文句をつけなかったというから、いずれにしても一流の画家だったのだ。

 さて、私は以前どこかで、クールベは弟子を取るのを嫌がった、と読んだことがある。が、今回、クールベには数多くの弟子がいて、カリスマ的に彼らに慕われ、ほとんど彼らの描いた絵に自分のサインまで入れていたことが分かった。
 クールベってやっぱり、傲慢な男だったんだねえ。

 画像は、クールベ「シヨン城」。
  ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet, 1819-1877, French)
 他、左から、
  「眠る糸紡ぎ女」
  「スペインの婦人」
  「浴女」
  「波」
  「ピュイ・ノワールの渓流」

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されば悲しきアホの家系(続々々々々々)

 
 祖母の一生は、家事と育児と内職に費やされてきた。たとえ労働が苦にならなくとも、生活に追われ、次々と生まれてくる父たち子供の世話で手一杯の祖母に、自分の喜びというものが、果たしてあったのだろうか。
 ……それがあった。
 
 昼のあいだに内職を終え、夕方、父たち子供を食べさせて、寝かしつけてから、夜、二条の家には近所の主婦連がぞろぞろと集まってくる。彼女らは祖母の花札仲間。そして夜ごと、二条の家では花札大会が催される。……この昔話を聞いた幼い私は、怪しげな魔女の集会を連想したものだった。
 昼間の面倒な家事も育児も内職も、すべては夜、花札をすれば帳消しになる。祖母は大の花札好きなのだ。
 
 つまり祖母は博打打ちだったのかも知れない。夜になると、コタツを囲んで花札をする。雨の日も、雪の日も、花札をする。
 臨月になっても、当の出産日が来ても、花札をする。大きなお腹をさすりながら、札を出す。
「もうそろそろ産まれそうやなあ」と祖母。
「なんや、産まれるんか。大丈夫かいな。帰ろか」と花札仲間。
「まだええ。せやけど明日にはもう産まれてるやろな」
 そうして、花札を続ける。夜遅く、花札仲間が帰っていき、次の夜にまたやって来ると、祖母の背中には産まれたばかりの赤ん坊がくくりつけられている。
 まだ首も据わらない赤ん坊を負ぶいながら、赤ん坊が泣けばあやしながら、祖母はさっそくその夜も花札をする……

 で、こういう祖母のよもやま話はすべて、内職の手を動かしながら、嫁である母を相手に祖母が喋るのを母が聞いたのを、今度は母が私に話したものだった。
 祖母、母、娘の3代にわたる物語が、も少しカッコ好ければ、「ワイルド・スワン」のような小説にでもなろうものなのに、私が子供の頃、母から聞かされた祖母の物語というのは、こんな、私小説にもならないような、内職と博打の、カッコの悪い内容でしかなかった。

 To be continued...

 画像は、レイステル「カード・ゲーム」。
  ユディト・レイステル(Judith Leyster, 1609-1660, Dutch)

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