右脳生活(続)

 
 芸術家肌を気取る人たちが、自分がいかにも右脳的に優れていると自負する言動を取るのを見たことがある。
 が、脳は一つのシステムなのだから、左脳の優れている場合といない場合とでは、その人の右脳活動の成果は変わってくるだろう。これは逆の場合も言えることで、例えば優れた科学者たちは皆、説明しがたい霊感(つまり、おそらく右脳)によってインスピレーションを得、それを理論的に煮詰めてゆく。

 また、芸術のなかでも絵しか知らず、例えば音楽を知らない画家たちが、音楽を、才能ある一握りだけが領有し得るモノだと決めつけるのを見たことがある。そうだとすれば、逆に言えばその画家は、絵もまた自分のごとく才能ある一握りだけが領有し得るモノだと自負しているわけだ。
 が、丁寧にステップを踏めば誰でも楽器を奏でることができるようになるのと同じに、絵もまた、丁寧にステップを踏めば誰でも描けるようになる。天性の才能というのは、そのステップを登り終えた後で問題にしても遅くはないもので、それまではただ、間違った方向を向かないようにだけ気をつけて、地道にテクテクと訓練を積めばよいわけだ。もちろん、自分の感性を常に信じ、大事に保ちながら。

 要するに、絵を描く行為が一部の人々の専売特許でない以上、絵を描くことでその人の人生は豊かになるだろう。だが、絵以外の知的活動もまた、絵を描くことによる豊かさを、より豊かにするだろう。ということ。
 そういうわけで、音楽人間の相棒が、絵を描く勉強をしたいと言い出したのは好もしい傾向だと思う。なので、検査の結果が出て、また心の重荷が下りたら、私もテクテクと絵の勉強に戻るつもり。

 画像は、H.ルソー「画家とその妻」。
  アンリ・ルソー(Henri Rousseau, 1844-1910, French)

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右脳生活

 
 現在、相棒の検査の結果待ち。なので、それまで何も手につかない。多分、例によって深刻な病気ではないんだろうけれど、私には親友に先立たれたトラウマがあるから、こういうときは積極的な精神活動がまるでできない。
 皿は溜まるし、洗濯物も溜まる。新聞も溜まる。本も、頭と心を使わない読み物しか読めないので、児童書ばかり読んでいる。
 で、クマを作る。……

 ちょっと前になるけど、相棒が絵を描く勉強をすると言い出したので、ベティ・エドワーズ「脳の右側で描け」という本を読んだ。これは、人は誰でも画家のように絵を描くことができる、という主張と、その裏づけ、そのためのステップを書いたもので、脳科学の理論に則っていて説得力がある上に、子供の頃から落描き人間だった私にとっては実感もあって、単なる読み物としても面白かった。

 絵を描くという行為は多分に右脳的で、だから画家という人種には、左脳が働いていないようなバランスの悪い人間が多いのだろう。
 本当にそれがその人の資質なら、それでもいい。が、なまじ絵は得意だが資質には欠けるために、「らしい」スタイルへの嗜癖から右脳的であろうとする人のほうが、画家という人種には多いような気がする。

 To be continued... 

 画像は、ビーズのクマ、クラムスコイ「忘れ得ぬ女」風。

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絵画鑑賞、徒然(続)

 
 だから、あるとき不意に相棒が、いつか世界中を旅行しながら美術館をめぐろうと思う、それが僕の夢だ、と言ったのには、寝耳に水の意外さだった。

 もう大学には残りたくなかった、その頃の私は、いつまで続くとも、どこにつながるとも知れない道を歩いていたところが、青天から振り下ろされた霹靂が足許に落ちた。それは地をうがって、一瞬の間に、私の眼の前に呆れんばかりの大穴を開けた。私の行く道を遮断したその大穴には、金塊が埋まっていた。あらゆる可能性に輝く金塊が。……そんな感じの意外さだった。
 私の好運は、ここに起因しているように思える。

 あの頃から、相棒は自腹を切って、せっせと絵を観に出かける。こうなると完璧主義の相棒のほうが、熱心に絵の勉強をする。画集を読み、絵画番組を観、バイオリンがぶっ壊されて新しいのを買うかと思いきや、自分も絵を描くのだと言って、油絵具のセットを買った。
 
 だから、私にとって問題なのは、世界を旅しながら美術館をまわれるかどうか、ではない。いずれ私は、小判鮫のごとく、世界の美術館を旅して歩くことができる。
 そのときに、絵を描けるかどうかが、私自身の問題なのだ。絵を描くことは、私だけの問題だから。

 画像は、H.ルソー「夢」。
  アンリ・ルソー(Henri Rousseau, 1844-1910, French)

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絵画鑑賞、徒然

   
 私が自分で美術館に行くようになったのは、学生の頃。母が招待券を貰うので、その一枚が私に回ってくる。で、京都、大阪、神戸に来るものは(たまに奈良、滋賀あたりにも)好き嫌いに関わらず観に行った。
 絵だけでなく、写真や彫刻や工芸品も。絵も、西洋絵画だけでなく、日本の洋画や日本画、ポスターやイラストレーションも。招待券が手に入らないときは、自分でチケットを買って観に行くこともあった。

 今はもちろん、そんなバイタリティなんかない。人間、限られた寿命において、あらゆるものに平等に関心を持つことはできない。私の場合、好みは西洋絵画へと偏っていった。
 ミュージアム(museum)が、あるときは美術館、あるときは博物館として登場するのに不満を持ち始めたのは、この頃からのように思う。私の関心は、もっぱら美術館のほうへと向かった。

 一方、相棒の趣味はずっと音楽のほうにあった。自分でもバイオリンを弾いてきたし、時間の許す限りクラシック音楽を聴く。物理、数学、将棋、野球、それに音楽。より論理的、抽象的なもののほうが、性に合うのだ。
 完璧主義のこの人の、音楽に関する教養は、趣味のレベルをはるかに超えている。本人もそれを自負している(多分)。だから私は、音楽については自分では調べない。相棒の知識を事典代わりに使うし、その日の音楽も、相棒のCDを適当に引き抜いて聴く。

 さて。ミュージアムへの不満云々の昔。同じ沿線だった私と相棒は、同じ電車に乗り込んだ。私は途中下車して、ベルナール・ビュフェ展へ。相棒を誘ったが、彼は断って、そのまま大学へと向かった。
 彼が、別の日になら行こうと言ったら、私はそうしようと思っていた。が、彼はそうは言わなかった。相棒はこのときのビュフェを観ずじまいだった。……絵だもんね。音楽じゃないものね。私はそんなふうに思っていた。

 To be continued...

 画像は、マルク「夢見る馬」。
  フランツ・マルク(Franz Marc, 1880-1916, German)

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本物を観るということ(続)

 
 前に、以前から知っていた別の画家が、掲示板上で、ほとんど美術展には足を運ばない、と平然と書いているのを読んで、ショックを受けたことがある。その直後、直近で足を運んだ美術展を取り上げ、自分は現物を観たがお前は観たのか、と書いているのに、二重にショックを受けた。
 話題となっていた美術展は、日本洋画史上、重要かつ著名な画家の企画展だったのだが、これだけの画家の絵なら、普通に美術館に足を運んでいれば、当企画展でなくとも、自然と何度か現物を観る機会があったはずだった。だからますますショックだった。

 ついでだが、この、美術展に行かない画家は、写真から絵を描くのは弊害だ、という持論の正当性を主張する際に、先の、美術展に行くべきとする画家の、同じサイトを援用していた。彼はそのことを知っているのだろうか。……
 描く対象となる現物は、現物を写した写真とは全然異なる(から、写真から描くべきではない)、と主張する画家が、現物の絵を観ずに、その絵の写真で済ますというのも、解せない話だと思う。

 これは私の勝手な感想なのだが、どうも画家には、自分と自分の描く絵との二者関係に入り込む人が多いように思う。本物の絵を観に行く画家が少ない、というのも、そのためかも知れない。

 画像は、アイケン「アトリエのカオス」。
  シャルル・ヴァン・デン・アイケン(Charles van den Eycken, 1859-1923, Belgian)

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