星の巡礼

 
 パウロ・コエーリョ「星の巡礼」を読んだ。
 相棒はコエーリョにハマっていて、次から次へと読む。読み終わると持ってきて、私にも読め、読めとせっつく。
 コエーリョの思想はシンプルで、分かりやすく、共感もできるのだけれど、この本はなんだか読むのに時間がかかって、チンタラとしか進まなかった。

 コエーリョの処女作であるこの本の物語は、彼自身の巡礼体験にもとづいているという。
 神秘教団トラディションの一員パウロは、マガス(魔法使い)としてのマスター授与の儀式で最後に過ちを犯したために、聖なる剣を手にすることに失敗し、再び剣を手に入れるべく、「銀河の道」と呼ばれるスペイン、サンチャゴへの巡礼路を旅することになる。ガイドであるペトラスに導かれ、サンチャゴへの道を行くなかで、彼は様々な試練に立ち向かう。……という話。 

 が、冒険譚ではない。パウロが内観する内容で、ペトラスとの会話も多分にスピリチュアル。内省的でない人には、訳が分からんと思う。
 
 旅の道々、ペトラスはときどきの話題ついでにパウロを諭す。例えば、……
「良き戦いとは、我々の心が命じる戦い、夢のための戦いだ。夢を諦めてしまうと、死んだ夢は我々のなかで腐り、我々の全存在を侵す。夢を救い出すには、自分自身に寛容になることだ。自分を責めさいなむ嫉妬、憎悪、罪悪感、優柔不断、臆病などの感情には、厳しく対処しなければならない」
 で、今度は実習を教える。この場合は、自分を悪いと思う感情が生じるたびに、人差指の爪を親指の甘皮に食い込ませ、痛みに集中する。精神的苦痛を肉体的苦痛に変え、悪感情が消えるまで続ける、という実習。……

 こうやって、道を歩きながら、あるいは宿となる町村で、ペトラスが深い意味のあることを話し、パウロが指示された様々な実習を行なうことで物語が進む。生まれ変わるための「種子の実習」、直感力を養う「水の実習」、法悦を覚醒する「青い天空の実習」、死を見つめるための「生きたまま葬られる実習」、等々。相棒は実習をいちいち試してみたらしいから、立派。
 巡礼途上での人々との出会いもあるのだが、概ね物語はペトラスとの関係のなかで進む。で、その間、パウロは何度も、神や悪魔、善悪、アガペ(愛)、死、良き戦い、などについて教示され、思索し、法悦(神との交信)によってトランスとなり、自身のなかのメッセンジャー(悪魔。物質界に対して力を持ち、常に人間と取引しようと待ち構える、善でも悪でもない精霊)を呼び出して対話する。
 そして、旅の道程が進むなか、執拗にパウロの後を追う、レジョン(悪霊)の取り憑いた黒犬と対決。

 ……が、結局、魔術や奇跡によるのではなく、自身のなかに神を見出すこと、自身の内なる力に耳を傾け、行動すること、夢という奇跡を、日々の生活のなかで探求・達成すること、が、人間の霊的な成長なのだと気づき、仔羊に導かれてゆく。

 相棒はこの本を読んで、自分も帆立貝くっつけてサンチャゴへの道を歩くことに決めたらしい。
 サンチャゴ巡礼路、私も連れてってもらおーっと。
 
 画像は、サージェント「サンチャゴ・デ・コンポステーラ」。
  ジョン・シンガー・サージェント(John Singer Sargent, 1856-1925, American)

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ギリシャ神話あれこれ:心の愛(続々々々々)

 
 プシュケはステュクスの川の渡し守カロンに銅貨一枚を受け取らせ、彼の舟に乗ってステュクスの流れを渡る。さらに、冥王の宮殿の門を守る番犬ケルベロスに、ソップという蜂蜜入りのお菓子を投げ与えて眠らせ、門を通り抜ける。
 宮殿に着くと、ペルセフォネはプシュケに豪奢なご馳走を勧めるが、これも塔の言葉を守って一つも口をつけずに、無事、小箱を手に入れる。
 
 帰りも同様に、ケルベロスにお菓子を投げ与えて門を抜け、カロンに銅貨を受け取らせて川を渡って、さて、ここで、ようやくエロスに会えると安堵したプシュケ。ふと、やつれた我が身を悲しく感じた彼女は、「美」の誘惑に抗えなくなる。
 で、決して小箱の中身を見てはならない、という塔の言葉を忘れて、つい箱を開いてしまった。

 と、小箱のなかから霧が立ちのぼり、プシュケを取り巻く。プシュケはその場にパタリと倒れ伏し、そのまま昏々と眠り始める。

 が、そのとき、傷の癒えたエロス神が飛んで来て、プシュケに取り付いた「眠り」を小箱に戻す。眼を醒ましたプシュケに、エロスは、母から言い付かった仕事を片付けてしまいなさい、と言うと、自分はゼウスのもとへと向かい、ゼウスに訴えて、母アフロディテの許しを得る。
 アフロディテの試練(と言うより、嫁いびり)を乗り越えたプシュケは、エロスに伴われ、神々の列に加わる。改めてエロスと結ばれたプシュケの背中からは、蝶のような翼が生えてくる。

 そして、エロス(性愛)とプシュケ(心)のあいだには、娘ウォルプタス(喜び)が産まれる。
 これでめでたくハッピー・エンド。

 画像は、ブーグロー「プシュケとクピド」。
  ウィリアム・アドルフ・ブーグロー
   (William Adolphe Bouguereau, 1825-1905, French)


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ギリシャ神話あれこれ:心の愛(続々々々)

 
 ますます腹を煮え繰り返らせて、アフロディテは今度は、生命の泉の水を汲んでくるよう命じる。泉は断崖絶壁の山の頂の洞窟にあり、怖ろしい竜が住んでいるという。
 が、またもやプシュケが途方にくれていると、どこからともなくゼウスの大鷲が現われ、プシュケが手にした瓶を奪って、難なくそれに水を汲んできてくれた。

 性悪なアフロディテは、とうとう、これでもかとの嫁いびりの最後に、冥府に赴いて、ペルセフォネから「美」の入った小箱を貰ってくるよう命じる。

 未だ冥府には、生きた人間が足を踏み入れた例がない。冥府への行き方すら分からないプシュケは、冥界は死者の行き着ける世界と考え、川岸の塔から身を投げようとする。
 そのとき、塔自身がそれを制して、冥界へと続く洞窟を場所を教えてくれる。
 
 プシュケは塔の助言どおり、手のなかにお菓子二つと銅貨二枚を握って、洞窟から冥界へと降りてゆく。途中、亡者たちが手を貸してくれと頼んでくるが、手のなかに持ったものを失ってしまうため絶対に差し伸べてはならない、という塔の言葉を忠実に守り、亡者たちを無視して先へと進む。
 ……死者に(同様に、死んだも同然に生き長らえ、ただ生活しているだけの生者にも)手を差し伸べても、無駄に彼らの道連れとなるだけなのだ。

 To be continued...

 画像は、ウォーターハウス「黄金の小箱を開けるプシュケ」。
  ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
   (John William Waterhouse, 1849-1917, British)


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ギリシャ神話あれこれ:心の愛(続々々)


 さて、自分の軽はずみな疑念を後悔したプシュケは、それ以来、エロスを探して、何日も何日も歩き続ける。神々が沈黙するなか、豊饒神デメテルがプシュケを憐んで助言する。
 エロスはプシュケのために、肩と心に深い傷を負い、母アフロディテの神殿で傷を癒している。アフロディテを訪ね、彼女に任えて、その怒りを解くがよい、と。

 そこでプシュケは、健気にもアフロディテ神に会いに行くのだけれど……
 
 プシュケがアフロディテの神殿にたどり着くと、果たして、アフロディテは大いに立腹していた。彼女はプシュケを散々罵倒したあげく、無茶苦茶な無理難題を突きつけてくる。
 
 まず、日没までに、神殿の倉庫にある、大麦や小麦、ヒエ、アワ、キビなどの入り混じった穀類の山を、それぞれごとに選り分けるよう命じる。
 うずたかく積まれた穀類の山を前に、プシュケは途方にくれる。と、どこからともなく無数の蟻が現われて、穀類を選り分け始め、日暮れまでにすっかり片付けてしまった。
 ……美人て得ね。

 思惑の外れたアフロディテは、次に、川向こうの羊たちから黄金の毛を刈ってくるよう命じる。
 が、川を渡ろうとするプシュケを、川の神が制止する。日中の羊たちは大変に凶暴なので、昼下がり、羊たちが眠ってから、抜け毛だけを集めるがいいだろう、と。
 で、プシュケは助言に従い、無事、羊毛を持ち帰ることができた。

 To be continued...

 画像は、E.M.ヘイル「ヴィーナスの玉座の前のプシュケ」。
  エドワード・マシュー・ヘイル(Edward Matthew Hale, 1852-1924, British)

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汎愛について(続)

 
 人間の尊厳を持つ人は、絶対に許せないこと、許してはならないことを、許さない。だから、戦争を、犯罪を許そうとしない。抑圧を許そうとしない。
 最初から「許し合う心」を持ち出す人は、結局、許してはならないことまで安易に許し、悪行を容認する人だ。相手の善意を当てにし、善意につけ込んでくる人、あるいは、悪意を持つ人に利用され、結果、悪行のはびこるのを制御し得ず、それに餌を与えてしまう人だ。そのくせ、そうしたことに自分はできるだけのことをするつもりだったのだと、証拠を用意したがる人なのだ。

 あらゆる人間を分け隔てなく平等に愛するという、神のような愛を、人間は持つべきなのだろうか。
 理念としてはよい。だが、現実の人間には意志がある。主義や思想、感情、好き嫌いがある。能力の制限だってある。生きている時間も限られている。
 
 「シンドラーのリスト」という映画で、こんな言葉が出てくる。「一人を救うことのできる人が、世界を救うことができる」。
 シンドラーは千人以上の人間を救ったのだが、彼は、自分に近しい人間から順にリストアップしたわけで、すべての人間を平等に救おうとはしなかった。これは自然なことだと思う。リストに載らなかった人間が、救われる価値のなかった人間だということではもちろんない。が、思い入れのある人間を救いたいと思ったからこそ、彼は実際に救うことができ、結果、世界を救ったのだ。

 具体的な一個の人間が関わる以上、その人は自身の心に誠実に選り好みし、取捨選択しなければ、その人の真実の力を発揮できない。

 だから、一人一人が、自分の大切に思う特別の人について、その人の尊厳のため、自由のためにその都度闘えば、人間社会の抑圧全般に対して闘うことになる。これは汎愛などよりもはるかに、はるかに現実の力を持つ。

 画像は、カサット「赤ん坊を抱く母バーサ」。
  メアリー・カサット(Mary Cassatt, 1844-1926, American)

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