世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記
魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-
最もチェコ的な絵本画家
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チェコの美術館を訪れるまで、なぜだか私のなかでは、チェコ絵画というのは絵本の挿画というイメージがあった。で、チェコの絵本と言って思い浮かぶのが、ヨセフ・ラダ(Josef Lada)の絵。
チェコ絵本画家の第一人者とされるラダ。ほとんど独学で絵を学んだ彼が大いに影響を受けたのが、先達の同じ絵本画家ミコラーシュ・アレシュだった。
ともにチェコの伝統的な田園生活を描いた二人は、チェコの人々にとって、子供のときから親しみ、大人になっても自分の子供とともに再び親しむ、そんな国民的画家なのだという。
が、作風は随分と異なる。正統的な画家だったアレシュに対して、ラダはとにかく我流の画家。そしてそれが生きている。
はっきりした線描の自由なフォルムと、ぺたっとした鮮明な色彩。モダンだけれども優しい。拙そうだが迷いがない。そのイメージは、時代に翻弄されても変わらずにいる、昔ながらのチェコの素朴な民話的な生活。質素な農村の、移り変わる季節を彩る、ささやかな喜び。村人だけでなく動物や、月や雪だるまなどが交わすユーモラスで人間臭いやりとり……
チェコの人々がその絵のなかに回想する情景を、自身の幼少の記憶から描写する、再現の力こそが、ラダの卓越した才能だった。
好んで用いたモティーフが、ヴォドニーク(Vodník)と呼ばれる水の精(と言うか、水魔あるいは河童)と、夜警。長髪にニット帽をかぶり、緑のフロックを着て、水面に突き出た柳の木に真横からのアングルで腰かけ、パイプをふかしたり靴を縫ったりしている老人なら、それはヴォドニーク。夜警は斜め後ろからのアングルで、黒い犬を連れ、杖を持って、角笛を吹いている。
ラダは冬景色が秀逸なのだが、ヴォドニークも夜警も、雪の降り積もった夜に現われるときには、外套を着込んでいる。
……こういう絵があるから、チェコをあまり知らない私なんかでも、ああ、チェコらしい、と感じるんだろうな。
略歴を記しておくと……
プラハから遠くない小村フルシツェ(Hrusice)の貧しい靴屋の家の生まれ。生後一歳にも満たない頃、父親の仕事道具のナイフの上に落っこちたせいで、生涯、右眼を失明してしまう。ラダの絵の持つ平面性の理由を、この片眼失明という事情で説明する論もあるらしい。
字を書けるようになる前から絵を描き、一部屋しかない家で父の仕事を手伝い、庭で野菜を作るという、つましい生活。ラダが描いたチェコの自然と季節、農村生活のモデルとなったのが、生まれ故郷のこの村だったことは疑いない。
14歳でプラハに出、製本職工の徒弟となるが、独自に絵を描き続け、やがて新聞の風刺画を手がけるように。世界的に有名な、ヤロスラフ・ハシェク「善き兵士シュヴェイク」の挿画は、この頃のもの。
自分の娘たちにせがまれて物語をつくっていたラダは、やがて、創作童話に挿絵を添える、あるいは絵のイメージのために童話を書く、絵と物語とを一緒に手がけるチェコで最初の絵本画家となる。「黒猫ミケシュの冒険」が有名。
プラハにアトリエを構えていたが、ほどなく故郷の村に別荘を持ち、一家で夏を過ごすようになる。第二次大戦中、ナチ占領の時代には、絵を描くことを禁じられたが、戦後、再び挿画家として活躍、晩年には、舞台や映画のための衣装・背景デザインも手がけた。
画像は、ラダ「冬のヴォドニーク」。
ヨセフ・ラダ(Josef Lada, 1887-1957, Czech)
他、左から、
「善き兵士シュヴェイク」
「イースター」
「聖ミクラーシュの日」
「黒猫ミケシュの冒険」
「夜警」
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山のなかの森、森のなかの木の間
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アントニーン・フデチェク(Antonín Hudeček)というチェコの風景画家は、一言解説では、アール・ヌーヴォーの画家として紹介されている。
オーソドックスなフランス絵画展などでは、風景そのものが主役となって描かれる風景画は、19世紀半ば以降の写実主義、印象主義の時代のものが、質・量ともに一大興隆となって盛り上がっている。そんなもんかと思っていたら、チェコの美術館では、印象主義以降も、象徴主義やら表現主義やらの諸種の様式で、相変わらず風景画が、半端なくバンバン登場する。
チェコの風景画、すげー……
風景画家フデチェクが特に惹かれたモティーフは、山岳の森。ミュンヘンに留学し、南欧イタリアのシチリアにまで何度も赴いているけれど、結局彼は故国の山々へと立ち帰る。タトラやカルパチアの山脈に住まい、森のなかの、木の間に広がる草場や水場を好んで描いた。
同世代の多くの風景画家と同様、フデチェクも印象派から出発。ボヘミア近代絵画を主導した印象派画家アントニーン・スラヴィーチェクとも交友があった。
が、印象派の、光と大気をとらえるために用いた色彩の斑点は、やがてスーラ的な点描の技法へと発展していく。と同時に、印象派特有の揺らぎは消え、フォルムはくっきりと輪郭を保ち、しんとした静寂の耽美が画面を支配するようになる。点描が消えても、そのムードは継承された。
きわめて自然な描写に見えるのに、隠喩的で装飾的なのはどうしてだろう。ほとんど空がないからだろうか。フデチェクの絵に描かれるのは、山の威容というよりも、山のなかの森、しかも木叢の下陰となった草原や小川の情景が眼に立つ。
そこは、山を歩いていていつの間にか迷い込んでしまったような、ナチュラルでプライベートな、人知れぬ空間だ。特に水辺は、海を持たない国らしい悠々さが感じられる。
そんな空間との新ロマン派的な交感が、フデチェクの画面にはある。その交感を、エメラルドの緑やトパーズの黄、アメジストの紫、オパールの白など、フォーゲラーを思い出させる青春色が、呼び起こす。
出会えてよかった画家の一人。
画像は、フデチェク「オコジュの貯め池」。
アントニーン・フデチェク(Antonín Hudeček, 1872-1941, Czech)
他、左から、
「花咲くリンゴの木」
「イフラヴァ」
「水浴」
「オコジュ」
「陽だまりの小川」
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