アルケミスト

 
 コエーリョ「アルケミスト」を読んだ。

 例によって相棒から、「絶対に面白いから!」と渡されたのだけれど、こないだの「ベロニカは死ぬことにした」がハズレだったもんだから、しばらく渋っていた。
 けど、読んでみたら、こっちは面白かった。私のオススメ、ベスト10に入れてもいい。
 お伽話の例に違わず、メルヘンチックな筋にハッピー・エンドの結末。なのに、内容は普遍的。珠玉の言葉がそちこちに、宝石のようにちりばめられている。

 アンダルシアの羊飼いの少年が、宝物を探しに、エジプトのピラミッドまで砂漠を旅する物語。宝物が隠されている夢を見た少年は、王さまに出会い、宝物の存在を信じて、羊たちと別れてピラミッドを目指す。途中、様々な出会いのなかで、錬金術師(アルケミスト)に導かれ、人生の困難に立ち向かう知恵を学んでいく。
 最後の最後まで、夢と希望にあふれながらも、次々に苦難が降りかかる。最大の苦難と、それを乗り越えたときの静かな、穏やかな達成感。そのあとの、躍り上がりそうな気持ちと滲み出る失望、最後の苦難、そして、突然パッと開ける道。全部、爽快で言うことなし。
 
 この爽快感は、実際に読んでみないと分からないから、賢者たちの言葉だけ、いくつか記しておく。

「前兆に気がつくようになるのだよ。そして、それに従って行きなさい」

「地球上のすべての人には、その人を待っている宝物がある。しかし不幸なことに、ごくわずかの人しか、彼らのために用意された道、彼らの運命と幸せへの道を進もうとしない。ほとんどの人は、世界を恐ろしい場所だと思っている。そして、そう思うことによって、世界は本当に恐ろしい場所に変わってしまうのだ」

「自分の運命を実現することは、人間の唯一の責任なのだ。お前が何かを望むときには、宇宙全体が協力して、それを実現するために助けてくれるのだよ」

「傷つくのを恐れることは、実際に傷つくよりもつらいものだと、お前の心に言ってやるがよい。夢を追求しているときは、心は決して傷つかない」

 ……こうした賢者もどきは、世界じゅうに結構いる。過去にもいたし、現在でもいる。コエーリョもそう。私のそばにも一人いる。
 私は、これまでも余計なことにはほとんどかまけずに生きてきたけれど、これからは、余計なことには一切かまけずに生きてくことにする。

 画像は、ジェローム「エジプトの要塞都市の外のアラブのキャラバン」。
  ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Leon Gerome, 1824-1904, French)

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嘆きのクラゲ(続)

 
 私には、どうしても許容できない限界線がある。それは、人間性のベクトルに関連している。
 けれども、その人が人間性のベクトルから外れていれば、その人はそもそもフィットしなかったわけだから、親近感が生まれることもなかった。最初にフィットしたのは、私が甘かったからだ。期待したからだ。

 一旦フィットした人が、実は人間性のベクトルから外れた価値観を持っていた、とあとから露見するとき、大抵の場合、きっかけがある。その人が突然、横柄な態度に出る、というのがそれ。
 横柄というのは、相手を尊重しないことと表裏なので、このサインは、さすがに私も滅多に見落とさない。私は慎重にその人を観察する。今まで尊重してきたその人の過去の言動も精査する。すると、これまではその人の個性として大目に見ることができた些細な言動が、新たな意味を持ち始める。その人の正体が分かる。するとその人は次々にボロを出す。

 もし、その人が横柄な態度に出なければ、つまり先のきっかけがなければ、少なくとも相手はずっと尊重される。
 だから、同様に、あとになって価値観の致命的な相違が判明したとしても、互いに相手を尊重し合う気持ちを媒介に、自然と距離ができ、その間に親近感が消滅してゆくはずなのだ。

 けれども、どういうわけかそうはならない。その人は必ず突然! 突然に尊大な態度に出てくる。
 すると私も突然、親近感の行き場がなくなって、一気に脱力状態になる。脱力するとクラゲになる。クラゲ(Klage)はドイツ語で「嘆き」の意味。ああ、嘆きのクラーゲ。
 
 クラゲになると、心を使わずに済むミステリーを読むくらいしか、できることがなくなってしまう。

 画像は、セザンヌ「悲しみ」。
  ポール・セザンヌ(Paul Cezanne, 1839-1906, French)

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嘆きのクラゲ

 
 人間は一人一人、いろんな感じ方、思い方、考え方を持っていて、理性も感性も、その質・量とも、自分とジャスト・フィットする人など、ごく稀にしか存在しない。
 そんなことくらいは分かってる。私は、ジャスト・フィットする人しか認めないほど傲慢でもないし、そういう人としか交友できないほど狭量でもない。人間というものは、個性の多様性が一つの持ち味なのだから、その個性が人間性のベクトルに沿っている限り、私は、どんな個性も尊重するつもり。

 が、日本というのは、とかく、インターサブジェクティブ(=間主観的)な社会なので、その人自身の理性や感性、個性を持たない人々も大勢いる。没個性が、これらの人々の個性なわけだ。
 私の基準では、そういう人々は足切りに引っかかる。つまり問題外となる。

 で、足切りを通り抜けた人が、多少とも自分にフィットする場合、私はおのずと、その人に親近感を感じてしまう。

 が、その人はその人の価値観を持っている。私はもちろん、その価値観を尊重するけれど、そこに、自分のそれとは相容れないものが含まれているのを、あとになってから見つけてしまうことがある。

 その人が持たないものが、その人から出てくることなどあり得ない。それがその人から出てきたということは、その人はもともとそれを持っていたということだ。
 その人が故意にそれを隠していた場合も、あるいはあるかも知れない。が、結局、私がそれを見抜けなかった、見抜けずに親近感を持ってしまった、のだろう。
  
 To be continued...

 画像は、ダヴィッド「悲しみ」。
  ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David, 1748-1825, French)

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サッカー・ワールド・カップ

 
 リベラルなので好きだった、とある画家が、日本でのサッカー熱は、軽薄で愚俗な社会現象にすぎず、社会的害悪だ、というようなことを書いているのを見かけた。……結構ショック。

 その人は、本当にサッカーを知り、興味を持つ人がどれほどいるのか疑問だ、と言っていたが、私は、結構いるんじゃないかと思う。私自身は、スポーツじゃ、サッカーが一番面白い。
 ボールさえあればできる、というシンプルさ。人間の最も傑出した器官である手を使わない、というユニークさ。個人技や組織性の持つワイルドさ、エレガントさ、センシティヴさ。

 私は、スポーツ大好き人間である弟の影響で、Jリーグ発足以前からサッカーに関心があった。「キャプテン翼」も全部読んだ。
 私の持つ、スポーツ好き人間の基準は、一緒に育ったこの弟。弟を見ていると、スポーツというのは、プレイするにもそれを観るにも、リアリズムを伴う。もちろん、華麗な技には理屈なく「すげえーッ!」と感嘆するわけだが、一つ一つのプレイについては、そのプレイに即して評価を下すので、おのずと分析的となる。

 で、弟によれば、野球は、1足す1は2にしかならないが、サッカーは、1足す1が、3にも5にもなる、そこが面白いのだ、という。

 このことを話すと、相棒は、「1足す1が、きちんと2になるからこそ、野球が面白い、っていう人だっているでしょ」と答えた。
 野球ファンらしい返事だけど、でも相棒も、サッカーだって大いに観る。

 相棒曰く、スポーツはナマ時間で観なくちゃいけない。で、試合が地球の裏側でやっていようと、彼は夜中に、「始まるよ」と電話をかけてくる。オリンピックも、世界選手権も。
 原理上、分析を排除しない「ファン意識」に乗ることにはOKの相棒は、世界大会では、迷わず日本を応援する。だが一方で、日本のマスコミが日本選手の出る試合しか放送しなかったり取材しなかったりすると、「そんなことでスポーツの優れた土壌が作れるのか!」とブーブー言う。

 この点、サッカーW杯の場合、日本のに限らずほとんどの試合を放送してくれる。おかげで夜更かしと昼寝の毎日。完全に昼夜逆転しちゃった。
 なお、坊も学校で昼寝しながら、熱心に観ている。ついでに、世界のどの国がどこにあるのか、地図も調べている。

 もし、いつかどこかで、サッカー選手と友達になれて、遠慮なく頼み事できるくらい親しくなれたら、ヘンな意味抜きで、その太腿に触ってみたい、というのが、数ある私の夢のなかの、かなり叶いそうにない一つ。

 画像は、ホルスーウ「まどろみ」。
  カール・ホルスーウ(Carl Holsoe, 1863-1935, Danish)
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ストーリーと芸術(続)

 
 彼は音楽家として育てられ、音楽は彼という人間の一部となっていた。私はそんな彼を小説に書いてみたいと思った。

「きっと自伝小説が書けるよね。そうすれば、それが一つの芸術になるんだものね」
「僕のことなんか書いたって、つまらないよ。なんのエピソードもありやしない。ピアノを弾いてしかこなかったんだから。それに……」
 彼はほんの少しためらった。

「小説は芸術じゃないよ。ストーリーが入るからね」

 言語が介入するということだろうか? 思想の手段へと堕するということだろうか? 物語という形では自己を表現し得ないということだろうか? ……
「君は僕を絵に描くけど、僕を小説に書こうとすればさ、今度は書きたいもののために、余計なもの、例えば父たちのことまで、同じように心を砕いて書かなくちゃならないだろう?」
 それから、僕は余計なもののないほうが好きだな、と付け加えた。

「でも私、いつかあなたの小説を書くからね。お父さんのことも、書いたっていいでしょう? 怒らないよね」
 彼はクスリと笑って、「いいよ」と答えた。それから、見晴るかすように空を仰いで呟いた。「君は多才な人だな」

 私はしっかり許可を得ているので、亡き友人のエピソードも小説に盛り込もうと思う。彼の章の位置づけは「対自(für sich)」。彼の存在は、主人公を映し出す鏡となる。

 絵画や音楽の場合、それらは宇宙と魂との直接の交わりによって発信(創造)され、魂と魂との交わりによって受信(享受)される、ということかも知れない。
 ストーリーが入ると芸術ではない、という彼の言葉の意味を、今では私はこのように受け取っている。

 画像は、ラファエリ「午後の散歩」。
  ジャン=フランソワ・ラファエリ(Jean-Francois Raffaelli, 1850-1924, French)

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