麗しのジナイーダ

 

 ジナイーダ・セレブリャコワ(Zinaida Serebriakova)は最初のロシア女流画家の一人とされている。

 ロシアの女流画家と聞いて私が思い出す名前はほとんどなくて、まず「青騎士」のヴェレフキン、それからナターリヤ・ゴンチャロワと、このジナイーダ・セレブリャコワ。
 このうち、ゴンチャロワとセレブリャコワの二人はぴったり同世代なのだが、ゴンチャロワが未来派に感化されたのに対して、セレブリャコワは未来派には見向きもしなかったという正当な理由で、また、ゴンチャロワの名が「静かなドン」のナターリヤを想起させるのに対して、セレブリャコワの名は「初恋」のジナイーダを想起させるという不当な理由も手伝って、私のなかではセレブリャコワの評価のほうが断然高い。

 セレブリャコワが生まれたのは、現ウクライナ、ハリコフの芸術家の家系。「芸術世界」の発起人の一人、レオン・バクストは彼女の叔父に当たる。
 彼女もまた女学校を卒業後、レーピンのもとで絵を学び、若くして結婚、4人の子供たちを授かる。「芸術世界」にも参加した。

 彼女が芸術世界派のなかで目立った存在だったのは、もちろん彼女が女性だったからだろうが、彼女の美意識のせいでもあった。彼女が描いたのは、一昔前に移動派が取り上げたような、ロシアの大地に生きる農民(と言うより農婦)たち。
 彼女の絵には、自画像や、娘をモデルにしたヌードも含めて、一貫して女性が描かれている。後に彼女は祖国にて、ルノワールを凌ぐと絶賛されたというが、なるほど、そういうところがある。大胆で官能的な裸婦像でさえ、明朗で、率直で、健全で、外連味がなく、自然としての人間への讃歌、生への主張に満ちている。
 芸術世界派の理念は“美の崇拝”だったが、セレブリャコワにとっての“美”は自然の生、人間の生であり、そうした“美”を彼女は確かに愛していたと思う。

 が、1917年に勃発した十月革命で、突如、彼女の人生は変わってしまう。夫はボリシェヴィキに逮捕され、獄中で病死。ハリコフの地所は略奪され、蔵書や絵画まで焼かれてしまって、一家は極貧に追い込まれた。
 流行していた未来派の画風も取り入れず、コミッサール(人民委員)らの肖像画も引き受けず、細々と絵を描いて一家を支えるセレブリャコワ。革命から7年後、装飾壁画を依頼されパリへ行く機会を得て、そのまま祖国には帰らなかった。
 子供たちとの再会を願って保ち続けたソビエト市民権も、ナチス・ドイツによるフランス侵攻の際に放棄、上の二人の子とは生き別れることになる。

 再会を果たしたのはフルシチョフの「雪解け」時代。彼女が長生きしていなかったら、二度と会えなかっただろう。
 長く生き娘に会いたい母心。……チマルトフ、心の俳句。

 画像は、セレブリャコワ「化粧台の前の自画像」。
  ジナイーダ・セレブリャコワ(Zinaida Serebriakova, 1884-1967, Russian)
 他、左から、
  「収穫」
  「眠る娘」
  「モロッコ娘」
  「眠る裸婦」
  「自画像」

     Related Entries :
       芸術世界派
       ボリス・クストーディエフ


     Bear's Paw -絵画うんぬん-
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« ロシアの耽美 ラトビアの夏... »