孤独と芸術と信仰と

 

 グウェン・ジョン(Gwen John)はイギリスの女流画家。イギリス・モダニズム絵画の重要画家の一人。「週刊なんとか」という名の、画家ごとに月に一冊ずつ出版され、全部集めれば計五十冊だか百冊だかになるシリーズでも、取り上げられた。

 グウェンの人柄には親近感を感じる。非行動的、内向的で、だが意志は強い。流行に関心を示さず、物を欲せず、名声を求めず、人前に出たがらず、だが心を許した人には愛情深い。猫を好み、海を好み、だが海の見える土地に来れば、その土地の風景ではなく人々を絵に描く。
 人柄はそのまま絵に現われている。主題は身近なもの、多くは友人や知人の女性。単身で、要領を得たフォルムで、画面の中心からわずかに外れて描かれる。流れるような線の、ほっそりとした体つき。飾らず気取らず、モデル然としないポーズ。陶酔したような、内省的な放心の眼差し。男性が描くのと同じようには描こうとしなかった女性が描いた、自然な女性らしさ、女性の美しさ。
 明るいが控えめな色調。濃い絵具で手早く、端的に、一度きりで描く、直接的な筆遣い。主題と色調は限られているのに、飽きが来ない。簡潔と質素、緊密と厳格、静謐と調和。

 ウェールズの生まれ。父親は弁護士。母親は病弱で、幼少時に死去している。グウェンは母の生前は乳母に、死後は叔母たちに育てられ、その後女家庭教師によって貴婦人教育を受けた。グウェンは生涯、自由人だったが、淑女でもあった。
 弟オーガスタスとは、ともに絵に対する関心で結ばれていた。彼らは早くから絵を描き、窮屈な家を抜け出して田園へと繰り出す。
 やがてオーガスタスがロンドンの美術学校へ入ると、グウェンもまた後を追う。ずば抜けた画力と個性を持ち、自分を売り込む才能にも長けたオーガスタスは、だが自分より姉のほうが優れていると信じていた。

 因襲くすぶるイギリスを離れ、パリに出てホイッスラーに師事。狭い色幅のなかで、近しい相関関係にある色彩を用いる、グウェンの絵の繊細な色調は、ホイッスラーに学んだところが大きい。
 糊口を凌ぐためにモデルを始め、女好きの彫刻家ロダンに出会う。このとき、グウェン28歳、ロダン63歳。すでにロダンの名声は確立していた。
 たちまちグウェンは、ロダンの熱烈な崇拝者となり、モデルと同時に愛人となる。モンパルナスの質素な部屋で、三毛猫と二人ぼっちで暮らしながら、ロダンに宛てて何百通もの手紙を書く。
 自分が求めるほどには相手に応えてもらえず、悲嘆に暮れ、食事を取らない。ロダンもホロリとくるのか、グウェンを諭す。……もっと自分を大切になさい。健康に気を使い、勉強なさい。と。

 パトロンを得てからは、モデルをやめて絵に専念。ロダンの住む、パリ郊外のムードンに移り、カトリック教徒だった彼に会うために礼拝に通う。すでにロダンには新しい愛人がいたのだが。
 グウェンはカトリック信仰に慰めを求め、ロダンの死後はますます隠遁する。彼女が親交していた数少ない旧友、ロダンの書生だったドイツの詩人リルケが死去すると、悲しみに打ちひしがれて、夏のあいだアトリエに使っていた、小さな庭のある粗末な小屋へと引っ込んでしまう。そこで、野良猫たちと一緒に余生を送った。

 あるとき、海を見たいと思い立ち、汽車に乗ってディエップへ向かう。着いた途端に入院し、そのまま息を引き取った。享年、出会ったときのロダンと同じ63歳。

 生前は、絵も個性も自己主張の強い弟オーガスタスの影に隠れがちだったグウェンだが、今日では、グウェンの評価のほうが高いという。が、そんなことは、オーガスタスがとっくに断言していた。
「僕は死後五十年も経つ頃には、グウェンの弟としてしか世の記憶に残っていないだろう」
 ……こういうところが、オーガスタスの才能なんだよね。

 画像は、G.ジョン「黒猫を抱いた若い女」。
  グウェン・ジョン(Gwen John, 1876-1939, British)
 他、左から、
  「クローイ・ボートン=リー」
  「パリの芸術家の部屋の一隅」
  「ティーポット」 
  「本を読む女」
  「横顔の少女」

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グラスゴーのアール・ヌーヴォー

 

 1890年代、スコットランドの産業都市グラスゴーで発展した「グラスゴー様式」。これは、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ(=美術工芸)運動、ケルト美術復興、大陸ヨーロッパのアール・ヌーヴォー、ジャポニスム等々からの影響が混ざり合いつつ、次第に形成された独特の装飾スタイルで、その担い手は総じて「グラスゴー派(Glasgow School)」と呼ばれる。

 牽引したのは、「ザ・フォー(The Four 四人組)」というグループ。別名、「幽霊派(Spook School)」。
 文字通り、たった四人しかいない。チャールズ・レニー・マッキントッシュ(Charles Rennie Mackintosh)、ハーバート・マクネア(Herbert MacNair)、マーガレット・マクドナルド(Margaret MacDonald)、フランシス・マクドナルド(Frances MacDonald)。
 大陸ヨーロッパでの展覧会を通じて国際的な認知を得、特にウィーン分離派展では、かのクリムトに大いに影響を与えたという。

 いわゆる応用美術を手がけたのだが、私が好きなのは水彩画。彼らの活躍は若い時期のもので、後半生は注目されず、不遇だった。大器早成も、つらいもんがあるな。

 「ザ・フォー」は、中国の文革みたいな名前がちょっと難だけど、グループ構成が良い。男女同数、男性二人に女性二人。女性のマーガレットとフランシスは姉妹で、それぞれマーガレットはマッキントッシュと、フランシスはマクネアと夫婦になった。
 で、私のなかでは「ザ・フォー」の中心は、歳の差10歳のこのマクドナルド姉妹。……マッキントッシュのキーンとした水彩画も、素敵なんだけどね。

 マッキントッシュは建築の勉強中、同僚のマクネアとともに、グラスゴー美術学校の夜学に入学。そこでマクドナルド姉妹と出会う。四人は親交を結び、共同制作を行なった。
 姉妹は、結婚するまでは姉妹で、結婚後はそれぞれの夫と共同で活動した。その分野は、マッキントッシュの建築の他、ガラス・金属工芸、家具やテキスタイルのデザイン、刺繍、本の挿画、水彩画など多岐にわたる。ウィリアム・ブレイクやビアズリーを思わせる、長く引き伸ばされた女性の線形のモチーフと透明な色彩で、神秘的・象徴的な独創的スタイルを作り出した。このスタイルは、アール・ヌーヴォーが流行していた大陸ヨーロッパで喝采を受ける。

 が、イギリスではさほどの評価を得られず、マッキントッシュは建築を、さらに晩年にはデザインをも捨てて、水彩画に転向。妻マーガレットも、病身のため制作しなくなった。
 一方、マクネア夫妻のほうは、リバプールに移り、自前の学校を開設、建築やデザインを教えていたが、経営ままならず、やがて閉鎖。マクネアは制作をやめてしまい、妻フランシスの死後は、所有していた夫婦の水彩画まですべて廃棄してしまったという。
 ……最悪だな、マクネア。夫としても教師としても、失格だ。

 画像は、マッキントッシュ「ヴァンドル港、太陽の街」。
  チャールズ・レニー・マッキントッシュ(Charles Rennie Mackintosh, 1868-1928, British)
 他、左から、
  M.マクドナルド「リンボクの伝説」
  マーガレット・マクドナルド(Margaret MacDonald, ca.1864-1933, British)
  F.マクドナルド「リボン、ビーズ、鳥」
   フランシス・マクドナルド(Frances MacDonald, 1874-1921, British)
  F.マクドナルド「太陽を背に立つ女」
   シャルル・ジネル(Charles Ginner, 1878–1952, French)
  マクネア「鳩の贈り物」
   ハーバート・マクネア(Herbert MacNair, 1868-1955, British)
  マッキントッシュ「シクラメン」

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猫婦人の猫絵

 

 猫の絵で有名な画家の一人に、オランダの女流画家アンリエット・ロナー=ニップ(Henriëtte Ronner-Knip)がいる。犬の絵も描いているが、インパクト大なのは断然、猫のほう。
 ……いや、それほど有名じゃないかも知れない。絵そのものが愛玩的なので、猫好きな人たちの猫グッズとして、複製画やポスターが出回っているだけかも知れない。けれども、当時も現在も、将来も、猫好きな人たちがいる限り、ロナー=ニップの絵は継承されていくんだろう、多分。

 アムステルダムの生まれで、父親は画家。なぜそうだったか、その理由を私は知らないのだが、ロナー=ニップは生涯、ベートーベンのように引越しばかりしている。結婚前には父親に率いられて一家で、また結婚後も、夫と子供たち、そしておそらくモデルである犬たち猫たちともども、転々と移っている。
 片眼の視力がなかったという父だが、子供たちが幼少の頃から、手ずから絵を教えたという。画家の形質と環境。ロナー=ニップも画家になったし、彼女の子供たちの多くもまた画家になった。

 風景画を描いていた父親の影響からか、ロナー=ニップも初期には村市場や農場の情景を、動物を登場させながら描いていた。まあ、ロマンチックな田園叙情がよかったのだろう、早くからサロンで成功を収める。30歳になる頃、実業家の夫と結婚し、ベルギーに転居。

 猫の絵を描き始めたのは、早熟の画家にしては遅くからで、50歳になる頃だったという。ほわほわの毛をした丸く柔らかい子猫たちが、上流家庭の室内で、やんちゃに、愛らしく戯れる、逸話的なシーン。贅沢なドレープを取った布を背景に、アンティークな調度類をおもちゃにして、傍若無人にお祭り騒ぎで駆けまわり、疲れたら猫ダンゴになって眠る子猫たち。
 ……こりゃちょっと、猫を甘やかしすぎなんじゃないの、と思ったら、実際には、猫は確かに画家の家で自由奔放に過ごすことができたようだが、それは画家が望む猫ポーズを得るための環境づくり。画家は猫の習作を描いたのちに、お洒落な調度・布などのロケーションにそれら猫を置いてアレンジし、絵を完成させた。

 被写体子猫の表現は飾らず、誇張もない一方、画面は豪華な小道具で演出されている。それが、職人的に年季の入った闊達な筆捌きで、自在に描かれる。
 このパターンの猫画がウケにウケて、ベルギー・サロンで永続的な名声を手にしたロナー=ニップは、晩年には、大きな裏庭付きの邸宅を猫たちのために用意し、88歳で死ぬまで、猫画を描き続けた、らしい。

 画像は、ロナー=ニップ「お茶の時間」。
  アンリエット・ロナー=ニップ(Henriëtte Ronner-Knip, 1821-1909, Dutch)
 他、左から、
  「猫」
  「陽気な一団」
  「遊ぶ子猫たち」 
  「猫の習作」
  「遊ぶ子猫たち」

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西洋の浮世絵、ニッポンを描く

 
 
 ヘレン・ハイド(Helen Hyde)はアメリカの女流版画家。異人ハイドによる、明治から大正にかけての日本の風俗を描いた木版画は、なんだかんだ言っても、忘れがたいものがある。

 西洋人というのはジャポニズムに弱い。オリエンタルでファンタスティックだと言って、素直に感激する。
 ハイドの版画も、そんな西洋人の視点から見た日本の情景。四季に根ざす自然文化と、母と子らが織りなす生活の、ほんの些細なひとコマを、新鮮な感動と愛情をもって描き出している。女性的な感性を感じさせる、こまやかさとやわらかさで。西洋画家の観察眼を感じさせる、正統的な線描で。日本て、こんなに風情があったんだな。

 ハイドはニューヨーク州の生まれだが、カリフォルニアの家で育った。12歳から、近所の画家に就いて絵を学ぶようになり、そのまま画学の道を邁進、ベルリン、さらにパリでも学ぶ。
 パリでは、かつて開国間もない日本を訪れ、帰国後ヨーロッパでせっせと日本文化を紹介した画家フェリックス・レガメ(Félix Régamey)から、彼の持ち帰った膨大な日本画コレクションを紹介されて、一気にジャポニズムに傾倒する。そんなハイドだから、同時代の、同国アメリカの女流画家カサットが、浮世絵を模した、女性と子供をテーマとした版画を描いていることに、大いに感銘する。東洋の美、版画の美! 母性の眼、女性の眼!

 カリフォルニアに帰国後は、チャイナタウンで女性や子供をスケッチする一方、スケッチを通じて知り合った同姓の女性、ジョセフィン・ハイドから、銅版画を学ぶ。やがて二人のハイド嬢は、手を取り合って日本を来訪。
 日本への関心は、ヘレン・ハイドのほうが強かった。ジョセフィンが帰国した後も日本にとどまり、日本に在住していたチェコの版画家エミール・オルリック(Emil Orlik)から、浮世絵の技法を学ぶ。また、オルリック同様、狩野派最後の巨匠、狩野友信から日本画まで学ぶという徹底ぶり。
 途中、中国やインド、メキシコなどを広く旅行しながらも、日本に滞在すること十数年。時代は明治も終わる頃。この間手がけた、木綿の着物を着た庶民の生活のワンシーンを描いた多色木版画が、やはり最もハイドらしい作品に感じられる。

 こういう画家がいてくれたことは、日本にとってはありがたかったのだと思う。
 1914年に日本を去り、5年後に死去。

 画像は、ハイド「福笹」。
  ヘレン・ハイド(Helen Hyde, 1868-1919, American)
 他、左から、
  「ご挨拶」
  「東京の桜の季節」
  「亀戸の太鼓橋」 
  「四月の夕べ」
  「ヴィーガ運河の月光」

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メランコリーの印象

 

 オルガ・ボズナンスカ(Olga Boznańska)は、ポーランド印象派として知られる女流画家。人物画、特に女性や少女を描いた絵が傑出している。

 その画風は、フランス印象派からの影響をはっきりと見て取ることができる。けれども、フランス印象派のような陽光の輝きは感じられない。画面は微光に揺らめくよう。大胆な、軽快な筆捌きによって、色彩は和らげられ、線はぼかされて、人物は背景と混ざり合ってしまっている。そのどちらもが飾り気がなく、殺風景で、わずかに人物の顔と手の肌だけが生身の温かさを感じさせる。
 ボズナンスカは私にとって、印象派なのにメランコリーを感じさせる、珍しい画家。
 
 古都クラクフの生まれ。父親は鉄道機関士だったが、ボズナンスカは地元画家のもとで、姉とともに絵を学ぶようになる。やがてミュンヘンに留学。同地で、同郷の若き男性ポーランド画家たちと切磋琢磨に精進し、アトリエを構える。
 クラクフの美術アカデミーからの教職の招きを蹴って、パリのサロンにデビュー。パリへと移住する。

 パリでは印象派から大いに影響されるが、彼女が最も感銘を受けたのは、色調主義(トーナリズム(Tonalism))の画家として知られる伊達男ホイッスラー。ボズナンスカの絵の、大雑把な輪郭に溶け合う、どことなく暗い銀光の色調は、このトーナリズムのせいかも知れない。
 とにかく、パリを訪れて以来、それまでアカデミックに節度のあったボズナンスカの絵は、色彩優位のものへと変化する。フランスでは、モデルの内面心理を深く洞察するような象徴的なムードを醸す人物画が喝采され、一躍、人気画家に。同様にヨーロッパじゅうで成功する。が、故国ポーランドでは、生前には満足な評価を得られなかった。

 20世紀は、絵画の新しい潮流が次々に登場するモダニズムの時代。ボズナンスカの人気もやがて衰える。
 晩年の十年には、父親の死、婚約の破談、姉の精神疾患と自殺などが続いた上に、1940年にはナチスがポーランドを侵攻。ボズナンスカは追われるように故国を去り、パリのアトリエに隠遁する。そのまま人知れず、貧困のうちに死んだ。

 画像は、ボズナンスカ「ひまわり」。
  オルガ・ボズナンスカ(Olga Boznanska, 1865-1945, Polish)
 他、左から、
  「母性」
  「銀色に輝く少女」
  「少女」 
  「イタリアの少女」
  「ジプシー娘」

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