フィヨルドの牧歌

 

 ノルウェーに、ハンス・ダール(Hans Dahl)という風景画家がいる。民族衣装を着た農家の娘を添えたフィヨルド風景が印象的な画家。
 このハンス・ダールを、私は一時期、ノルウェー風景画の創始者ヨハン・クリスティアン・クラウゼン・ダールと混同していた。テーマが全然、違うのにね。

 ハンス・ダールは、ノルウェー西海岸のホルダラン、ハダンゲルフィヨルドのほとりの小村の生まれ。早くから画才を発揮し、兵役の後に絵を学び始める。ドイツ、カールスルーエに留学し、ノルウェー・民族派ロマン主義を牽引したギューデに師事。さらに、当時ドイツ・ロマン主義の拠点だったデュッセルドルフに移り、デュッセルドルフ派に揉まれて精進する。
 デュッセルドルフ派のロマン主義というのは、フリードリヒに代表されるドレスデン派のそれと比べると、明瞭で、きめ細かく、奇想を凝らしたところがある。ハンス・ダールの絵は、良くも悪くもデュッセルドルフ派的。

 遠くの遠くまで見通せる平明なフィヨルド独特の風景に、民族衣装を来た農村の少女たちが、笑いながらくつろいでいる。フィヨルドを理想郷に見立てた、牧歌的な情景。
 が、こき下ろしてしまえば、作り物のような印象を受ける。壁面をきれいに飾るための絵のように、陳腐なところがある。
 ……まあ、こんな感じに、ノルウェー写実主義の旗手クリスティアン・クローグも糞味噌にけなしたことだろう。当時、ノルウェー絵画の流れは、ロマン主義から自然主義や写実主義、さらに多様なモダニズムへと移り変わる時代。もちろん絵は、近代社会の思想をも映し出す。

 が、ハンス・ダールは時流に頑強に抵抗する。彼は生涯、同じような主題を同じような表現で、同じようというよりはますます狭めて、繰り返し描き続ける。
 現実的ではないかも知れない。自己満足的かも知れない。だが、クローグのような画家がいかに文句を並べたところで、馬耳東風だったことだろう。だって、この主題、この表現が好きなのだ。好きだから描いているのだ。好きなんだから、しょうがない。

 ハンス・ダールはドイツで暮らしていた頃からずっと、夏ごとにノルウェーに帰郷していたが、やがてソグネフィヨルドに臨むバレストラン(Balestrand)に、夏の邸宅を手に入れた。死んだのも、その地でだった。
 
 画像は、画像は、H.ダール「フィヨルドにかかる真夜中の太陽」。
  ハンス・ダール(Hans Dahl, 1849-1937, Norwegian)
 他、左から、
  「夏の日」
  「収穫からの帰路」
  「フィヨルドの夏」
  「フィヨルドのほとりでの休息」
  「フィヨルドの舟漕ぎ」

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ノルディックなアメリカ

 

 ヨナス・リー(Jonas Lie)というノルウェーの風景画家がいる。「漁師とドラウグ」の作家ヨナス・リーと、同一人物かと思いきや、そうじゃなかった。

 作家ヨナス・リーは、イプセンらと並ぶ19世紀ノルウェー文学の代表的作家として知られる。そんな作家がこんな風景画を描くんなら、凄いもんだ。
 なのだが、実際には、作家は作家で、画家は画家。作家ヨナス・リーは、画家ヨナス・リーの叔父に当たる。作家の細君が画家の父の妹(ちなみに、この夫婦はいとこ同士)で、画家の名は、叔父である偉大な作家にちなんで名づけられたために、同じ名前だったわけ。

 画家ヨナス・リーは、私のなかではノルウェーの画家なのだが、実際は、アメリカに帰化し、アメリカで活躍した、当時最もポピュラーだったアメリカ画家の一人として知られている。彼の絵で秀逸なのは、印象派タッチの伸びやかな筆致と豊かな色彩で、ニューイングランドの都市や山、海岸を描いたもの。
 が、光の描き方が独特なのは、やっぱり彼がノルウェーで生まれた画家だからなんだろう、と思う。北欧を思わせる、空いっぱいに満ち満ちる、白夜と常夜の稀薄な光は、北欧で暮らした人でなければ描けないんだ。

 以下は受け売りだが、ヨナス・リーはノルウェー、オストフォルの生まれ。母親がコネチカット出身のアメリカ人だった。
 父自身は技師だったが、リー一族は芸術家の家系。音楽家も多く、ヨナスも最初は音楽家よろしく、幼少時よりファミリー・コンサートなんぞに加わっている。
 が、12歳で父を亡くすと、ヨナスの人生は俄かに一変する。ほんの3ヶ月ほど、写実主義の画家クリスチャン・スクレスヴィクのもとに送られ、彼から絵の手ほどきを受けて暮らした彼は、出し抜けに、よし、画家になろう! と決意。

 その後、パリに住む作家の叔父夫婦の家へと移る。この家は、ノルウェーの作家イプセンやビョルンソン、作曲家グリーグらが出入りする、スカンジナビア文化人たちの溜まり場だった。
 そして叔父は、彼を画塾に通わせ、ルーブル美術館にも連れて行く。そんな環境でなら、もう素質も才能も伸びるしかない。

 翌年、13歳で、ヨナスは母と姉たちを追ってニューヨークへと渡る。アメリカでも絵の勉強を続け、ノルウェー印象派の画家フリッス・タウロヴを手本とした。
 が、やはりアメリカに住まえばアメリカから影響されるもの。「アシュカン(ゴミ箱)派」とも呼ばれる、ニューヨークの画家グループ「ジ・エイト(The Eight)」の、暗く大胆に都会の汚醜を描き出すリアリズムのファッションに、彼はすっかり魅了される。
 そのまま、狭くアメリカナイズされた方向へと進まなかったのは、パリ再訪、ノルウェーへの旅行を経たからだろう。アメリカに戻ったときには、彼の画題はニューイングランドの情景へと広がっていた。そして残りの生涯、この画題を追求した。

 画像は、ヨナス・リー「朝の川面」。
  ヨナス・リー(Jonas Lie, 1880-1940, Norwegian)
 他、左から、
  「冬の青」
  「家路につく古船」
  「クレブラ水路」
  「安全港」
  「ローワー・ブロードウェイの夕暮れ」

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ラトビアの雪の肖像

 

 ラトビアのリガを訪れたのは、ちょうど夏至祭の日。相棒が日程をそう合わせたからだった。
 リガではもちろん、国立美術館に立ち寄るつもりだった。が、夏至祭で夜っぴて歌い踊り明かしたリガの街は、翌朝はどこもかしこも静まり返っている。国立美術館は、何と臨時休館。夏至祭の翌日は、公共施設はことごとく休みになるのだった。

 ラトビア画家ウィリヘルムス・プルヴィティスの絵は、是非観たかったんだけどな。
「また来ればいいよ。フェリーでなら、北ドイツからリガまで簡単に来れるさ。ハンザ同盟の頃は、云々……」
 そんな相棒の慰めにまんまと慰められたけど、あとで地図を調べてみたら、リガはドイツから簡単に来れるほと近くはなかったんだ。うう……

 ウィリヘルムス・プルヴィティス(Vilhelms Purvītis)は、近代ラトビア最大の画家。ラトビアの美術アカデミーを創設した教育者としても知られている。

 サンクトペテルブルクのアカデミーで、光の風景画家クインジのもとで学んだ。プルヴィティスの絵が奏でる独特の光の心象は、師クインジに負うところが大きいのだろう。
 古典的リアリズムへの素直な敬愛に根差し、印象派の陽光の表現を吸収して、けれどもモダニズムの独創性が色濃い理知的な画風へとたどり着く。モダニズムの画家として、ロシアの芸術家組織「芸術世界」にも参加している。

 プルヴィティスの真骨頂は、空を目指し、溶け出した雪の川にも映りこむ白樺の樹木と、徐々に広がりながら大地を這う雪岸の川の流れを描いた、北の国らしい雪の情景。直線と曲線の構成とリズム、明滅する色斑が織りなす明暗のコントラスト、それらが作り出す、リアリズムとは異なる独特の質感。……こういうのは、現物を観ないと感じ取れないものが大きい。つくづく残念。

 サンクトペテルブルクのアカデミーを去ってから、ヨーロッパ各地で個展を開催して成功を収め、リガへと落ち着く。以降、彼が取り組んだのはもっぱら故国の雪の風景。
 雪の習作のためにノルウェーを訪れ、おそらくそこでムンクあたりからも影響を受けたのだと思う。彼の風景画には、単純明快さを越えた、被写体である故国の自然そのものに語らせる、ある種の霊性、心理性が感じられる。

 第二次大戦末期、ドイツ軍が占領していたイェルガヴァをソビエト赤軍が解放した際、プルヴィティスの絵の多くは破壊されたという。プルヴィティスはドイツに移住するのだが、このときにも残された絵が散逸した。
 翌年、ドイツにて死去。彼の遺骸は、ラトビアがソ連から独立を勝ち取った後に、ドイツから故国へと移され、改葬された。

 画像は、プルヴィティス「三月の春」。
  ウィリヘルムス・プルヴィティス(Vilhelms Purvītis, 1872-1945, Latvian)
 他、左から、
  「冬」
  「雪解け」
  「春の雪解け水」
  「夏景色」
  「ツェースィス」

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カレヴィポエクを描いた画家

 

 エストニア国立美術館(KUMU美術館)で観たエストニア絵画のなかで、最も印象に残っている画家の一人は、オスカル・カリス(Oskar Kallis)。純然たる好みの問題なのだが、エストニア民族の創世を描いた、木版画的に骨太でノルディックにカラフルな物語画が、いかにもエストニアチックに感じたからなんだ。

 解説によれば、カリスはエストニア民族ロマン主義の流れに位置する主要な画家の一人とされる。こんなふうに評価されるのは、彼がエストニアの民族叙事詩「カレヴィポエク(Kalevipoeg)」のシーンの数々を描いたからだ。

 カリスは首都タリンで、エストニアに印象派を取り入れた画家アンツ・ライクマー(Ants Laikmaa)のアトリエで学んでいた。ライクマーがタリンを離れているあいだも、デザインなんぞをちびちびと学んでいたのだが、フィンランドの美術館まで遠出した際に、フィンランドの民族叙事詩「カレワラ」を描いたガッレン=カッレラの絵に出くわして、ドカンと一発ショックを受ける。

 以来、彼は「カレヴィポエク」をせっせと描くようになる。鷲の背に乗ってフィンランド湾を渡り、エストニアの王となった、伝説の巨人カレフが、その地で美しい娘リンダを妻とした。「カレヴィポエク」は、王カレフの継承者である英雄カレヴィポエク(「カレフの息子」の意)の冒険の物語。
 結核で、25歳の若さで夭逝する、その死までの5年ほどの短いあいだに、カリスは国民的叙事詩のシーンを描きに描き続け、それら作品によって国民的画家のひとりとなった。

 そしてもう一つ、常に死の影に寄り添われた病身の画家が描き続けたテーマが、ただちにムンクの生と死を思わせる、生命のダンス。不穏に揺らぐ大気のなかで、狂気と絶望の男女が、愛を醸して横たわる。
 死は、伝説のなかではすっきりくっきりしているのに、現実では不健全に見えてくるもんだな。

 画像は、カリス「地獄に赴いたカレヴィポエク」。
  オスカル・カリス(Oskar Kallis, 1892-1918, Estonian)
 他、左から、
  「岩を運ぶリンダ」
  「板を運ぶカレヴィポエク」
  「天球に星を打ちつけるイルマリネン」
  「鷲に乗るカレフ」
  「生命のダンス」

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輝けるペシミズム

 

 相棒がくも膜下出血になんかならなければ、今年の春はポーランドに行くはずだった。アウシュヴィッツは相棒の最優先訪問予定地。クラクフを経由する際に、ちゃっかり美術館にも立ち寄って、ポーランド絵画の鑑賞三昧、というのが、私の便乗計画というわけ。

 ポーランド絵画についてだが、私の乏しい知識にあるのは、国民画家ヤン・マテイコと、19世紀末から20世紀初め、「若きポーランド(Młoda Polska)」の時期に現われた一連の、官能的で暗喩的な、不条理なモダニズム絵画。後者で私が一番に思いつくのは、浮遊霊のような雲の群れを描いた絵を眼にして以来、クシジャノフスキという画家なんだ。

 コンラート・クシジャノフスキ(Konrad Krzyżanowski)は、同時代のポーランド知識人たちを描いた傑出した肖像画家として、知られているらしい。確かに彼は、生涯を通じて肖像画を描いている。初期にはほとんどモノクロな暗い色調の、やがて豊かな広がりを見せるようになった穏やかな色調の、そして晩年には再び抑制された控えめな色調の。
 が、明るい暗いに関わらず、彼のトーンはどこかペシミスティック。モデルが醸すムードもナーバスでメランコリック。色使いが随分と変転した一方で、大胆な筆使いは一貫しているのだが、その力強く、動的で、鮮明な表現が、モダニズムに特有の内省的な心象を残す。

 略歴を記しておくと、クシジャノフスキはウクライナの生まれ。キエフで絵の勉強を始め、サンクトペテルブルクのアカデミーへ。さらにミュンヘンで、ハンガリー画家ホローシ・シモン(Simon Hollósy)の画塾に学んだ。

 ワルシャワに移り、同地の美術学校で教鞭を取る。この時期、クシジャノフスキは夏ごとに、画学生を率いてポーランドを離れ、リトアニアやフィンランドへと戸外制作の旅に出る。この夏期制作で、彼も自ら多くの風景画を描いた。
 クシジャノフスキの肖像画の色使いが、自然の恵みを受けたように潤ったのは、多分この時期。伸びやかで瑞々しい、明快な造形は、私のなかでのクシジャノフスキの真骨頂だ。

 何度かワルシャワを離れるが、結局はワルシャワに舞い戻り、今度は私塾を開いて、両大戦間期の20年のあいだ、多くの若い画家たちを教えたという。ワルシャワで死去。

 画像は、クシジャノフスキ「フィンランドの雲」。
  コンラート・クシジャノフスキ(Konrad Krzyżanowski, 1872-1922, Polish)
 他、左から、
  「ペラギイ・ヴィトスワフスキの肖像」
  「猫を連れた妻の肖像」
  「ピアノの前の少女」
  「祖母と孫息子」
  「イステブナ村の眺望、丸太小屋」

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