世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記
魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-
フツルに魅せられて
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ポーランドの画家カジミエシュ・シフルスキ(Kazimierz Sichulski)。筆の力でぐいぐいと描き進める、骨太な人物画が、私の好み。ポーランドの象徴主義運動「ムウォダ・ポルスカ(若きポーランド)」の流れに括られている。
彼の絵が耽美な理由の半分は、彼が終生描き続けた、カルパチアの山岳地方、フツル(Hutsul)の伝統文化というテーマのせい。東欧の美術館では、こういう、フツル民族の牧歌的で宗教的な風俗を描いた絵に、ときたま出くわす。フツルの人々は、カラフルで入り組んだ模様の衣装をまとい、山の緑の森のなかで、木造家屋をバックに、家畜を従えたり、歌ったり踊ったりしている。
シフルスキの描いたフツル人は、もうちょっと敬虔で道徳的。概ね人物は女子供で、伏し眼がちに、あるいは天を仰いで、しばしば仔羊を抱いて、また斜め後ろからのアングルで、祈るようにたたずんでいる。隔絶された深い山で、フツルの村落同士の交流によって形成された、独特の生活と文化は、衣装や手工芸品の装飾、牧羊など、日常の生業自体がエスニックにエレガントな様式で、当時の芸術家たちも大いに魅了されたらしい。
あまり有名な画家ではないのかもしれないが、フツル文化を描いた画家として、私には印象に残っている。
受け売りの略歴を記しておくと、鉄道エンジニアだった父を幼くして亡くし、大学では法律を学ぶも、兵役義務を終えても復学せず、画家に転身。クラクフのアカデミーで、「若きポーランド」派のメホフェルやヴィスピャンスキらに師事し、奨学金を得てローマ、ミュンヘン、パリへ。そこで女優ブロニスラヴァと結婚する。
クラクフへ帰国し、画壇デビュー。文学キャバレー「緑の風船(Zielony Balonik)」で交流したり、風刺画を手がけたりと、精力的に活動。ウィーン訪問後は、ウィーン分離派からさらに分離した「ハーゲンブント(Hagenbund)」に参加。
ところが、同時期に訪れたフツル民族の郷、フツリシュチナ(Huculszczyzna)を訪れてからは、もうすっかりフツル文化の虜となってしまって、生涯、そのテーマを離れることはなかった。
第一次大戦ではポーランド領砲兵隊、さらに画家として従軍。女優と離婚後、今度は貴族の令嬢と再婚。母校であるクラクフのアカデミーで教鞭を取る。
……と、すっかり名士となったシフルスキだが、やがて第二次大戦が勃発。ナチス占領下、ポーランド総督府の置かれたクラクフで、彼はその地位を失い、時を同じくして健康も悪化、死んでしまった。
ちなみに、フツリシュチナは第一次大戦後、ルーマニア、ポーランド、チェコスロバキアにより分割され、大部分がポーランド領となった。が、ナチス・ドイツとソ連とによるポーランド分割後、ソ連領となり、第二次大戦後はそのままソ連の一地方に。ウクライナ独立に伴い、現在はウクライナの一地方。
画像は、シフルスキ「ヨルダンから」。
カジミエシュ・シフルスキ(Kazimierz Sichulski, 1879-1942, Polish)
他、左から、
「フツルの少年」
「黒い仔羊」
「フツルの聖母」
「ルシアン・リデルの戯画」
「日本へと飛翔するヴィチュウとマンガ」
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ドラマフリーの謳歌
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デンマークの芸術家村スケーエン。19世紀後半、貪欲に進む都市化・産業化の反動として、自然に根差した生活への回帰を志向する、このような芸術家村は、スケーエンに限らず欧州各国に生まれた。そこに集まった画家たちが目指したものは、自然主義の哲学と、真実の描写。村人たちの労働、生活、風土などを、戸外の光のもとで、筆の力で捉えて描く。
好んで強調されたものは、文明とは対極の、単純で粗暴で野蛮で無骨で下種で賤劣で醜悪な、つまり原始的なもの。これが、描かれるべき「自然」とか「真実」とかの内実だとすれば、ある種の、醜化ならぬ美化と言えなくもない。あくまで文明を知っている人間、文明に身を置く人間の、原始への憧憬。
が、その地で生まれ育った人間にとっては、どんなシーンも「自然」で「真実」なのだろう。アナ・アンカー(Anna Ancher)は、スケーエン派のなかで唯一、スケーエン出身の画家。だから彼女の絵は、美化も醜化もあまり感じられない。
実家はスケーエンの宿屋。スケーエンは風光明媚な漁村で、以前から芸術家たちがぼちぼちと訪れていたのだが、19世紀終わりに鉄道が敷かれてからは、そうした訪問はにわかに増大する。彼らは産業化・都市化への反動から、単純素朴な田舎の生活を求めてやって来たのだった。
そうした芸術家たちの溜まり場となった宿屋の娘が、自由だの創作だのの主義のもとに芸術家たちに弄ばれることなく、実直な画家の一人と結ばれたのは、幸せだった。15歳だったアナは、宿に滞在していた画家、ミカエル・アンカー(Michael Ancher)と知り合って恋に落ち、秘密裡に婚約。アナ自身も実直な画家で、以降、この夫婦はドラマフリーな、危なげない結婚生活を送り、生涯を添い遂げた。
画家に囲まれて育ったアナは、早熟な才能を発揮し、コペンハーゲン、さらにパリでもデッサンを学ぶ。パリでは、後にスケーエン派の代表的画家ペーダー・セヴェリン・クロヤーの妻となったマリーと一緒だった。
ゴシップの種となるような派手な女性ではなかったが、既婚女性は家事育児に従事すべしという、既存社会の暗黙の圧力については、柔らかく払いのけ、画業にも従事し続ける。アナは画家というよりも、地元民が画家となり、相変わらず隣人たちと親交を保ちつつ、絵も描いていた、という感じなのだ。
テーマは漁師の妻子たちが営む室内での日常。テーマ自体は、日常こそドラマなり、という美徳めいたものだが、彼女の描く関心は、光と、光を受けて変化する色彩との探求にある。これが、彼女の絵を絵画たらしめている。
この、光と色が作用を及ぼす室内情景、あるいは室内情景という素材に映る光と色彩を通じて現われる何某かの真実、という描写は、後の北欧モダニズムに新しい表現を開いたという。
画像は、A.アンカー「陽の当たる青い部屋」。
アナ・アンカー(Anna Ancher, 1859-1935, Danish)
他、左から、
「厨房のメイド」
「夜のお祈り」
「収穫」
「クレマチスのある部屋」
M.アンカー「野から帰るアナ・アンカー」
ミカエル・アンカー(Michael Ancher, 1849-1927, Danish)
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ノルウェーのモリス
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ノルウェーの画家、ゲルハール・ムンテ(Gerhard Munthe)。ウィキペディアには、イェールハルド・ムンテと表記されている。
なんか、好きなんだよね、ムンテ。19世紀終わりのノルウェー絵画には、パリの自然主義、印象主義を吸収し、光あふれる祖国の風景を描いた、ロマンチックな国民画派の流れがあって、彼らの多くがオスロ郊外の村リッサーケル(Lysaker) に住まって制作した。
ムンテもまた、そんなリッサーケル派の一人。「ノルウェーのウィリアム・モリス」との異名を持つデザイナーでもあった彼は、村に建てた家の部屋々々を妻とともに手ずから装飾し、モダンデザインを実践した。有名なのは画家としてだけれど、評価されているのは、どうやらこちら、デザインの分野であるらしい。
ちなみに、この妻君、ビョルン・ビョルンソン(Bjørn Bjørnson)という有名な舞台俳優・監督の娘なのだが、ムンテとは離婚、その同年、後にノーベル平和賞を受賞した「難民の父」フリチョフ・ナンセン(Fridtjof Nansen)と再婚した。
有名人の周囲には、有名人ばかりが集まるんだな。。。
ムンテの一族は皆、揃って知識人、文化人ばかり。特に、いとこのハウク・アーベル(Hauk Aabel)は、サイレント映画時代の有名な喜劇俳優なのだそう。
父親は医者で、ムンテも医学を学ぼうとしたところ、当の父に、いや、お前は画家になりなさい、と助言され、絵の道に。アカデミーで手堅く絵を学び、デュッセルドルフ、ミュンヘンにも留学するが、モチーフは常に故郷ノルウェーに求めた。
もともと、ノルウェーの文化・風習に取材していたムンテだが、その前近代にまで遡る伝統にますます関心を向け、着想を得るようになる。そうしたイメージの表現として試みるようになったのが、ウィリアム・モリスのデコラティブな「アーツ・アンド・クラフツ」様式。
モリスと言えば、産業化の時代にあって、中世の手工業に理想を見出した思想家であり詩人でありデザイナー、ついでに社会主義者。産業革命以前の手仕事の美しさに立ち返り、生活と芸術を一致させるべく「アーツ・アンド・クラフツ(美術工芸)」運動を提唱。「モダンデザインの父」と呼ばれる一方、中世ロマンスを創作し、「モダンファンタジーの父」とも呼ばれる。
ムンテもまた、中世からの絨毯やタペストリーに熱中し、デザインする一方、古くから伝わるノルウェー民話を発掘し、その挿画をせっせと手がける。同じリッサーケルでの国民画家、エーリク・ヴェーレンショル(Erik Werenskiold)とともに制作した、ノルウェー王朝史を著したアイスランド詩人、スノッリ・ストゥルルソン(Snorri Sturluson)への挿画が有名で、そうした挿画は、タペストリーのデザインに転用されて、織り込まれる。
で、現代人・異国人の私なんぞが、ウェブ上で眼にする多くは、こうしたタペストリーなわけ。だが、文句は言うまい。このようなデザイン画は、第一に、鑑賞されることを前提とした見目好いものであり、第二に、日々の生活を彩りつつ邪魔をしない趣味と風情と調子を持つ。
こうした装飾性は当然、ムンテの絵画スタイルにも次第に反映されていく。。。と思うのだが、どうもよく分からない。現地美術館で、まとまった作品を時系列で観てみたい画家ということで、以上、まとめておいた。
画像は、ムンテ「北の光の娘たち」。
ゲルハール・ムンテ(Gerhard Munthe, 1849-1929, Norwegian)
他、左から、
「山の王」
「ハリングダールの小屋から外を眺める娘」
「エッゲダールの夕べ」
「ウルヴィンの農場」
「山羊のがらがらどん」
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ギリシャ神話あれこれ:純潔のヒッポリュトス(続)
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こうなるとパイドラは、恋が成就しないばかりか、自尊心にも傷がつく。立場だって危ない。
彼女は、ヒッポリュトスが父王テセウスに訴え出ることを怖れて、先手を打つ。つまり、自ら寝室の扉を破り、衣装を引き裂いて、泣きながら、ヒッポリュトスに暴行された、とテセウスに訴えたわけ。
男の純潔なんて信じることのできない浮気なテセウスは、若妻のこの嘘偽りの訴えを本気に取って、すっかり息子の所業と信じ込んで激怒する。身に憶えのないヒッポリュトスは必死に弁明するが、テセウスは聞く耳を持たない。それどころか、息子ヒッポリュトスが滅ぼされるよう、ポセイドン神に祈りまでする。
さて、ヒッポリュトスが馬車を駆って海辺を走っていると、突然、波間から荒々しい牡牛が現われる。もちろんこれは、海神ポセイドンが送り込んだもの。
恐怖に騒ぎ立てる馬たちが岩に車を打ちつけて、車は粉微塵になる。地面に叩きつけられたヒッポリュトスは、手綱に絡まれて、狂奔する馬たちに引きずられてしまう。
瀕死のヒッポリュトスが王宮に戻り、いよいよ死ぬという間際に、アルテミス神が現われて彼の無実を語る。……アルテミス、ちょっと登場するのが遅すぎる。
一同の悲嘆のなか、ヒッポリュトスは死んでしまう。自分の罪を怖れたパイドラも、自ら縊死した。
真相を知ったテセウスは、妻と息子を失い、悔恨のどん底へと落ち込むだけだった。……自業自得、相変わらずバカヤローなテセウスである。
画像は、カバネル「フェードル」。
アレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel, 1823-1889, French)
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Bear's Paw -ギリシャ神話あれこれ-
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ギリシャ神話あれこれ:純潔のヒッポリュトス
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長らく放置していて、ごめんなさい。元気でやってます。
後味悪く、救いようのないギリシャ神話をば、ひとつ……
好色の英雄テセウス。彼はミノス王の死後、クレタを攻略し、王女パイドラを妻として頂戴する。アリアドネ、ヒッポリュテに続いて、これで3人目の奥さん。
ところでテセウスには、前妻ヒッポリュテとのあいだに生まれた、ヒッポリュトスという息子がいた。
このヒッポリュトスは、父王テセウスの女たらしに反撥する気持ちもあったらしく、清純で潔白な青年。処女神アルテミスを崇めて狩猟や騎馬を好み、女性には見向きもせずに童貞を守っていた。
が、ヒッポリュトスがアルテミスにばかり仕えるのを、愛神アフロディテは黙っていない。ギリシャの神さまたちって、各々の権能が互いに対立するから困る。アフロディテは自分の神威を馬鹿にされたと憤り、ヒッポリュトスの継母に当たるパイドラに、彼に対する絶望的な恋情を抱くよう仕向ける。
……ギリシャの神さまたちの、誰かを敬愛すれば、他の誰かがそれに嫉妬する、というパターン。
まだ若く美しいパイドラは、しきりにヒッポリュトスを誘惑する。が、ここは、アルテミスを崇拝する純潔なヒッポリュトス。パイドラの恋に応じるどころか、その汚らわしさに怒り心頭。淫らな女め、お前なんか、節操のない親父が似合いだ! とかなんとか罵倒する。
To be continued...
画像は、アルマ=タデマ「ヒッポリュトスの死」。
ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema, 1836-1912, Dutch)
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